4.謝っても許さない
オリエンテーション合宿を行った翌日でも授業は普通に行われる。
合宿前より登校することに随分と緊張しているのは、やはりあの日発情してしまったせいだろう。
誰にもバレていませんように、噂になっていませんように、と心の中で願いながら登校した私を待っていたのは、ヒソヒソと話しながらこちらを見てくる無数の視線であった。
もしかしてうさぎ病であることがバレた?と不安に思ったが、その視線たちは好奇の目というよりは、妬み嫉みといった憎悪に近い仄暗いものであった。
「ねぇ、佑ちゃん……」
「ん?どうした?」
「……ううん、なんでもない」
「そう?ま、なにかあったらいつでも僕に言っておいで」
佑ちゃんは今日もとびっきりの笑顔で私を甘やかす。私のことを気にかけて色々と世話を焼いてくれている佑ちゃんに、感じる視線の意味を聞けばまた心配をかけてしまうかもしれない。そもそもそれ自体が私の勘違いかもしれないし、と不安な心を内に収めて教室へ向かった。
私が教室へ着くと綾ちゃんが「おはよう」と声をかけてくれた。私も「おはよう」と返し、机の横に鞄を引っ掛ける。えーっと、今日の一限は現代文だから、と教科書の確認を始めた私に、綾ちゃんが「噂になってるわよ」と小声で耳打ちした。
「え?噂?それって、」
「あ、白兎ちゃん!おっはよー!めっちゃ噂になってんじゃん!」
この短時間で続けて2人から同じことを言われる。やはり登校時に感じた視線は私の勘違いではなかったようだ。その噂って、もしかして、私がうさぎ病ってこと……?聞きたい聞きたくないではなく、確かめなければいけない。それは、もし知れ渡っているなら、私もきちんと対応を考えなければいけないからだ。だけど声が震えて上手く言葉を発することができない。佑ちゃん、助けて……!と、拳を強く握った時であった。磯部さんが呆れたように言葉を繋げる。
「弓弦圭斗と瀬戸谷佑希と二股してるって」
「……へ?」
「え?だから、白兎ちゃんが弓弦くんと瀬戸谷くんと付き合ってる二股女だって噂になってるよ」
な、なんだぁ、良かった……病気がバレたわけじゃないんだ。ホッと胸を撫で下ろした私に「そんなわけないじゃんね?気にしない方がいいよ」と、磯部さんが明るく励ましてくれる。そんな彼女に「ありがとう」と返して、はたと気づく。いや、全然良くないよね?!
病気がバレてないことは良かった。本当に良かった。だけどあらぬ疑いをかけられ、不名誉な蔑称までつけられて……全然良くない!それにこれが佑ちゃんの耳に入ったら、と思うと気が気ではなかった。佑ちゃんは絶対信じないと思うけど。だけど噂でも他の男の子と付き合ってるなんて、少しでも耳に入れてほしくない。
「ま、大変かもしんないけどさ!」
「なにかされたらすぐに言ってきなさいよ?」
磯部さんと綾ちゃんが私に笑いかける。とても心強いし、すごく嬉しい。
人の噂も75日と言うし……長いけど。なんなら夏休み前まで噂が続きそうなぐらい長いけれど。それでも周りの大切な人たちが信じてくれているんだから、私は大丈夫。だけど、弓弦くんには本当に申し訳ないことになっちゃったな。
恐らく噂の出所はオリエンテーション合宿での出来事だろう。弓弦くんが私をお姫様抱っこした事実が捩れに捩れて伝わってしまったに違いない。ただでさえ弓弦くんには嫌な思いをさせてしまったのだ。これは本格的に謝らなきゃいけないな、と積極的に弓弦くんに関わらなければいけない状況に深いため息を吐いた。
▼
事態は私が想像していたよりずっと深刻なものになっていた。
朝は予鈴が鳴るまで、私の顔を見に来た他クラスの子たちが廊下から教室を覗き込んできた。授業と授業の間のたった10分間だって同じだった。しかも同学年だけではなく上級生の2、3年生まで見に来る状況に私は頭を抱えた。
不躾に投げつけられる視線だけでも辛いのに、私を値踏みするように上から下まで見つめ、「たいしたことないじゃん」と捨て台詞まで吐いていくのだ。他にも「弓弦くんって趣味悪いね」とか「あの程度が二股って引くわ」とか、もっと直接的に「ブスじゃん」とまで言われた。もう私の心はズタボロである。
本当は昼休みに弓弦くんのところに行って謝罪しようと思っていたのだ。だけど今この状況で彼に会いに行く勇気など、私にはとてもとてもなかった。それどころかひっきりなしに現れる女子生徒たちから逃げたくて、一緒に昼食を食べていた綾ちゃんと磯部さん、浅見さんと吉賀さんに断り、人気のない渡り廊下まで逃れて来た。
お昼休みにここを利用する生徒はきっとほとんどいないだろう。校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下は屋根がなく、開けっぱなしにされた扉からは校舎内に気持ちの良い風がそよそよと吹き込んできている。私はささくれだった気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした。
「……、好きです、……、くだ……い」
気持ちの良い風に混じって微かに聞こえてきた声にどきりとする。断片的にしか聞こえなかったが、恐らく誰かが告白をしているようだ。
人様のそんな場面に遭遇したことなどなかった私は、息をすることさえ慎重にそっと扉の影に隠れ気配を消した。だけど目と鼻の先で行われている愛の告白は、聞くつもりがなくても勝手に耳へと届いてしまう。ごめんなさい、と心の中で謝りぎゅっと目をつぶった。
「え、てか誰?」
「あ、ごめんなさい。2年1組の岸由香里です」
「あー、そ。無理ですね」
「えっ?あ、じゃあ、友達からは?連絡先とか、」
「無理。俺帰っていい?」
告白をされていた男子生徒のあまりにも辛辣で冷たい物言いに、私の背筋までもが冷えてゆく。断られるにしてもこんな風に突き放してほしくないよ、と女子生徒の方についつい肩入れしてしまう。
話し声が聞こえなくなったかと思えば、パタパタと足音が近づき、渡り廊下から校舎内へと入ってきた女子生徒と目が合った。視線を交わしたその一瞬、彼女は私を鋭く睨みそのままの勢いで曲がった角の先へと消えて行った。見えなくなった姿にもう一度謝罪をする。このことは誰にも言いません。なんなら記憶から抹消します。
「盗み聞きか?趣味わりぃ」
「わっ!」
心の中で言い訳と謝罪を並べていた私の頭上から突然声が降ってきた。それに驚き声を上げた私を見て、先ほど告白を受けていた男子ーー弓弦くんは抑揚のない声で「うるせえ」と非難した。
「ごめん」
「……なに?お前も俺に告白しにきたの?」
「なんで?私は佑ちゃんが好きなんだよ?」
「……冗談にそんなマジで返されても」
面白くねー奴、と弓弦くんは再び私を非難する。なにそれ……別に弓弦くんにそう思われても全然平気だけど。って、こんなことで不貞腐れている場合じゃなかった。たまたま偶然出会ったが、これは良い機会だ。今謝って、弓弦くんとは今後極力会わないようにしよう。と、私はくるりと彼の方を振り返った。
「あっ、」
「あ?」
思っていたよりずっと近くに弓弦くんは立っていた。無意識に合わせないようにしていた視線が、引き寄せられたかのよに弓弦くんの瞳を見つめてしまう。まただ、またこの香り。だめ、また発情しちゃう。
「ゆづるくん、離れてっ」
「は?なんで?お前なにそんな警戒してんの?」
「もっ、こっちきちゃだめ」
「はぁー?!俺がお前のこと好きみたいに言うなよ」
だめだ、全然分かってくれない。私がお願いしても弓弦くんは聞き入れてくれるどころか、失敬な奴だと不機嫌に整った顔を歪めるばかりだ。
「そうじゃない、あっ、だめ、ほんと、」
「あ?おい、またかよお前、大丈夫か」
がくん、と膝から崩れ落ちた私を弓弦くんが咄嗟に抱きとめる。嫌な奴ならそのままに私を放っておいてくれたらいいのに。だけど目の前で体調を悪くしている人のことを放っておけるほど、彼は嫌な奴ではないらしい。しかし今の私にとってその優しさは悪手だ。抱きとめられた弓弦くんの腕の中で私はまた発情を迎えた。
「はっ、んっ、ゆづるく、んっ」
「……っ、お前まじでなんなん。その声やめろ」
「ごめ、くすりのむから」
「薬持ってんのか?」
「う、ん。せいふくの、あっ、ぽけっと」
「俺が取るぞ」
弓弦くんの腕にしがみつくしか出来ない私を見かねて、弓弦くんが無遠慮に私のスカートのポケットを弄る。その手の動きに体の熱が上がってゆき、私を支えてくれている弓弦くんの腕に胸を押し付け、明確に彼を誘ってしまっている。そんな自分自身を嫌悪しているのに、頭の中はセックスのことのみが支配していた。
「あった、これだな?」
弓弦くんの薄い唇が動いている。きゅっと上がった口角がかわいいなぁ。キスしたい。キス。
「おい、聞いてんの?!おいっ、」
「んっ、」
「……んっ、お前、はっ、ん、」
弓弦くんが話す隙など与えないほどに私は夢中で彼に口付けた。初めこそ抵抗していた弓弦くんも、徐々に舌を絡ませ私とのキスに没頭していく。だめなのに。私は佑ちゃんが好きなのに。これファーストキスなのに。気持ちいい。弓弦くんの唇は、彼の熱を無くした瞳よりずっとずっと熱い。
「んっ、ん、あっ、」
「はっ、ん、すげぇ、ん、」
頭おかしくなる、と弓弦くんがぽつりとこぼす。もっとおかしくなってよ。私のこと無茶苦茶にしてよ。弓弦くん、弓弦くん。
「ゆづるくん、わたしのこと犯して」
「、は?」
ガヤガヤと生徒たちの声が聞こたその拍子、夢から覚めたようにハッとした表情を見せた弓弦くんは、私から勢いよく体を離した。それでも私の発情は収まってくれない。ハッハッと犬のように荒く短い呼吸をしている私に、弓弦くんは無理矢理薬を飲ませた。引いていく。先ほどまでのことがまるで夢のようだ。だけどそれは紛れもない現実で。
「弓弦くんっ、ごめんっ、」
と咄嗟に謝った私に、弓弦くんは「許さねぇ」と瞳を細めた。
それから少し経った後、弓弦くんは落ち着きを取り戻した私に向かって「放課後空けとけよ」と告げた。それは私の意向を汲むものではなく、決定事項を淡々と述べたような口振りであり、つまり私に断る権限はないことを表していた。
「なにするの?」
「何もしねーよ。ただ俺には知る権利があるだろ?」
それを言われてしまえば発情に散々巻き込んでしまった手前、私は何も言えなくなってしまう。
「誰にも聞かれたくない……」
「それなら俺んち来るか。光が丘が最寄りだから、放課後そこで待ってろ」
やはり弓弦くんは私の意見を聞く気は毛頭ないようだ。命令のように言うだけ言って廊下の角を曲がった弓弦くんの姿はもう見えなかった。
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