3.ごめんなさいと言わせて
これまでフラフープリレーのペアは全て問題なく走れているようだった。実際のコースをならしで走り、スタート地点まで帰ってきた和倉くんペアが私に「次は白兎さんたちの番」とフラフープを渡す。それを受け取り、弓弦くんの顔を見れば「お前から入れよ」と顎で指示をされた。確かに私が後から入ると、足を上げた瞬間にバランスを崩して転けてしまいそうだ。その点足の長い弓弦くんなら、後からでも難なく入ってこられるだろう。
弓弦くんの指示通り私からフラフープの中に入ろうとした時、それを見ていた和倉くんが「一緒に入った方が速いかも」とアドバイスをしてくれた。周りにいた他の子たちも「そうだね」と和倉くんに同意する。経験者の言葉は何よりも重い。素直にそれに従った私と、意外にも素直にそれを受け入れた弓弦くん。弓弦くんってただ単に口がすごく悪いだけで、性格が悪いってわけでもないのかな?だなんて、彼を少し見直す。
そして2人同時に輪の中に足を入れてフラフープを持ち上げた。その瞬間、思っていたよりずっとフラフープの直径が小さいことを悟る。とん、と軽く触れた弓弦くんの体操着。布ごしに彼の体に触れたその時、ゾクゾクと得体の知らぬ感覚が頭のてっぺんから爪先を走り抜けた。
無意識に「あっ、」と情け無い声が上がる。濃くなった弓弦くんの香水の匂いにぐるりと世界が回る。まだスタートを切ったわけでもないのに足がもつれ、私はそのまま弓弦くんに倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か」
いつも淡々と話す弓弦くんの声が焦りに上擦り、その腕で私を受け止めてくれる。先ほどよりもずっと近づいた距離と信じられないほど強く香る匂いに、私の細胞が歓喜に打ち震えた。
あ、だめ、これ発情してる。身体の異変を感じ、瞬時にそう悟ったのだ。うさぎ病を発症した日以来の発情に焦ったのは一瞬で、次の瞬間には制御できないほどの性的欲求に襲われた。荒くなった呼吸と蒸気し出した頬。身体中の毛穴という毛穴が開き、そこから異性を誘うフェロモンが放出される。
……セックスしたい。それしか考えられない。頭の片隅で抑制剤の存在がチラつきポケットに手を伸ばす。だけどいつも忍ばせているはずの抑制剤が今日に限ってそこになくて。あ、バッグの中だ……と絶望を覚えて、目の前にいる弓弦くんに縋り顎を擦り付けた。
「おい!白兎!」
弓弦くんの切迫詰まった声が私の耳を刺激する。気を抜けばここで腰を振ってしまいそうになる。周りのみんなが「大丈夫?」と心配してくれているのが分かるのに、壁一枚隔てたように現実的ではない。この時の私は全身を使って弓弦くんのみを感じていた。
「くす、り、へやに、あるの、」
「分かった、俺が部屋の前まで運ぶ。和倉、先生に言ってきて」
言うが早いか、弓弦くんは和倉くんに指示を出すと私の膝裏に腕を差し込み、そのまま抱き上げた。違うチームの子たちも異変に気づいたのか周りがざわつき始める。
めっちゃ注目されてる。弓弦くん、いい香りがする。誰にもバレてないかな。弓弦くんに触りたい。佑ちゃん心配してるよね。弓弦くんに触ってほしい。怖い、私どうなっちゃうの。弓弦くんとセックスしたい。佑ちゃん。弓弦くん、今すぐ抱いてほしい。弓弦くん、私の全部好きにして。弓弦くん、私の全部今すぐ暴いて。弓弦くん、弓弦くん。
「ゆづる、くん、」
「あ?さっきから『弓弦くん弓弦くん』うっせーわ。そんな何回も呼ばなくても聞こえてる」
「ゆづるくん、」
「……っ、だからっ、お前まじで黙ってろ。っくっそ、体あちぃ」
弓弦くんの体温が上がってきているのが体操着越しでも分かる。私のフェロモンに当てられて弓弦くんの体も発情を始めたようだ。先生が「顎に臭腺が現れるのもうさぎ病の特徴ですね」と言っていたことを思い出す。私は弓弦くんを誘うように、彼の腕の中で顎を上げて「ゆづるくん、」と彼の名前を何度も呼んだ。それは正しく、卑しくも口づけを強請る行為に他ならないだろう。
「……お前はまじでなんなんだよ。佑希のことが好きなんだろ」
そう言う弓弦くんの息が上がっているのは、私を抱きかかえ部屋の前まで来たことだけが原因ではないはずだ。
「うっ、佑ちゃんがすきぃ」
「っち、泣くなよ。めんどくせーな」
「舌打ちしないでよぉ、私だって、好きで、」
「うっぜー、すぐ泣く」
弓弦くんはまたも舌打ちを一度し、ふいと私から視線を逸らす。その態度に傷つきながら、体を密着させてるのがいけないんだ、と「もう下ろして」と言えば、弓弦くんは躊躇うことなく私を部屋の前の廊下に下ろした。
やっと離れられた、と安心したけれど、発情してしまった体には瑣末なことであった。ただただセックスがしたい。溺れてしまいそうなほどの欲求に立っていられない。触らなくても下着が重くなるほど濡れているのが分かる。普段なら気持ちの悪いその感触も、今の私にとっては快感を刺激するものにしかならなかった。
「お前、風邪か?それとも、」
「ちがう!病気じゃない」
「……あっそ。じゃあ、俺がおかしいんだわ」
熱を逃すように深く息を吐いた弓弦くんは、しゃがみ込んだ私の顎を掴み上を向かせる。瞬きをすれば溢れてしまいそうなほど潤んだ私の瞳が、眉根を寄せた苦しげな表情の弓弦くんの姿を捉えた。
「ゆづるくん、」
「お前、もう俺のことそうやって呼ぶな」
「?そうやってって、」
「誘うように呼ぶなって言ってんだよ」
「さ、誘ってなんか、」
"いない"と、否定の言葉を口にすることはとてもできなかった。確かに私は弓弦くんを誘っている。それが病気のせいで、そこに私の意思は一ミリだってなくても。弓弦くんにしてみればそれが事実なのだ。
「じゃあな」
それだけを残して弓弦くんは、その後すぐに現れた養護教諭と入れ替わるようにその場を後にした。
私は先生に「気分が悪くて」とだけ伝え、部屋リーダーである磯部さんから預かったであろう鍵で扉を開けてもらう。
バッグの中に丁寧にしまってあった液体の抑制剤を規定量飲み干す。それはいつも飲んでいる錠剤のものより即効性があった。たちまち落ち着いていく性的欲求に胸を撫で下ろす。
「少し休んでもいいですか?」
と先生に許可を得てベッドに潜り込み、もう弓弦くんには近づくまいと心に誓った。
▼
オリエンテーション合宿最終日は朝食後の閉会式を終え、バスに乗って学校まで帰ってきた後すぐに解散となった。
同室であった女子生徒たちが「体調大丈夫?気をつけてね」と最後まで心配してくれる。抑制剤で抑え込んでしまえばなんてことはないのだ。それに「ありがとう」とお礼を述べると、背後からぬっと佑ちゃんが現れた。
「みちる、帰ろうか」
「あっ、佑ちゃん。うん!」
その光景を見るや否や、先ほどまで心配してくれていた磯部さんたちが「瀬戸谷くんいるから大丈夫だわ」と解散していく。しかし揶揄われていることに恥ずかしくなったのは私だけのようで、佑ちゃんは爽やかに「任せて」だなんて答えているのだから。さらに私の頬に熱が集まってきたのは必然なことである。
帰り道。佑ちゃんは私の分の荷物まで背負いながら、今日も家まで送り届けてくれた。
「ねぇ、佑ちゃん」
「……部屋、上がってもいいかな?」
佑ちゃんは私の気持ちなどお見通しのようだ。私が口にする前に気持ちを汲み取って発言してくれた佑ちゃんを部屋に通した。
家には私たち以外誰もいない。本当の2人っきり。不安を一人抱えていた私は、ここぞとばかりに佑ちゃんに泣きついた。
「佑ちゃん、どうしよ……私、弓弦くんに酷いことしちゃった……!」
「……大丈夫、圭斗は気にしてないよ」
佑ちゃんが私の頭を撫でながら、これ以上ないという程の優しい声を出す。それでも私の罪悪感は全く拭えなかった。
好きでもない女に急に迫られて、怖かったし気持ち悪かったと思う。ただでさえそうなのに、自分へ向けられる好意を極端に嫌っているふしがある弓弦くんなら、その嫌悪感は一層強かっただろう。きっと嫌な思いをさせてしまった。申し訳なさすぎて合わせる顔がない。
自責の念の涙をぐじぐじと流す私を佑ちゃんが優しく抱きしめる。とんとん、と一定のリズムで背中を叩かれ、眠りにつく前の子供のようにとろんとしてしまう。
「どうしても気になるならきちんと謝ればいいよ」
「……うん、そうだよね、そうする」
本当はもう二度と弓弦くんに近づきたくはなかった。それは後ろめたさからくるものと、あとは恐怖からくるものである。だって、あの香りを思い出すだけで再び発情しそうになるのだ。一定の距離以上に近づくのが怖い。それは、病気を知られたくない、と強く思っている私には致し方のないことであった。
「あっ、そうだ。弓弦くん、私の病気に気づいてそうだった?」
私が発情した姿を見た他の生徒たちは、ただ単純に具合が悪くなっただけだと認識してくれていた。しかしその姿を間近で見、あまつさえ、潤んだ瞳と蒸気した頬、浅く短い呼吸と甘ったるい声で誘惑をされた弓弦くんは、明らかに異変を感じたことだろう。
「どうかな。僕にそんな話はしてこなかったけどね」
「……そっか、そうだよね」
「幸い、って言っていいのか分からないけれど。圭斗はアプローチされることに慣れてるから。割と日常茶飯事だと思うよ」
だから大丈夫、だと私を見つめる佑ちゃんの瞳が語っている。その力強さに励まされて私は気持ちを持ち直した。
「それより、外に出るのが怖くなったりしてない?」
「えっ?あ、あぁ、うん。それは大丈夫。原因がはっきりしてるから」
「……原因?」
佑ちゃんの切長の目とのバランスが取れた長く整った眉が、訝しげに動く。慣れている私でさえびくりとしてしまうほどの冷たい視線に、思わず口籠もってしまう。しかし佑ちゃんが訝しむのも当たり前のことであった。
うさぎ病が発症する原因はホルモンの異常であり、それは自分の意思でコントロールできるものではない。そんな制御不能なものを「大丈夫」と言い切る私を心配したのだろう。
佑ちゃんは別に怒っているわけではない。そう分かっているのだが、熱を無くした佑ちゃんの瞳はとびっきり恐ろしいのだ。
しかしすぐに、その冷たい視線に口籠もった私に気づいた佑ちゃんは「ごめん、続けて」と視線を緩めた。
「うん。その、弓弦くんって、香水つけてるよね?」
「……香水?」
「そう、甘いの。私、あの香りを嗅いだから発情しちゃったと思うんだ」
だからそれを嗅がなければ大丈夫!、と自信満々に言い切った私を見て、佑ちゃんは困ったように眉尻を下げた。
「そんなことあるの?」
「うーん、分かんないけど。今度先生に聞いてみようかな、薬貰いに行くついでに」
「そうしな。香水のこと、なんなりと理由つけて僕から言おうか?」
「ううん、大丈夫。変に疑われてもやだし……。それよりも香水なんかで強制的に発情させられちゃうの、困るね」
私の言葉に佑ちゃんは「本当にね」と心配そうに再び眉尻を下げた。もし弓弦くんと同じ香水をつけてる人の近くにいけば、また発情しちゃうかもしれないんだよね。これはいよいよ、今までより慎重に人との距離を取って、今までよりしっかりと抑制剤を肌身離さず持ってなきゃいけないな。
「とりあえず、明日謝りに行くね」
そう言った私に、佑ちゃんはなんとも言えない複雑な表情で、「あぁ、それがいいかもね」と曖昧に笑った。
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