2.甘い香りに誘われて
課題考査が終わった翌日から、私たち1年生は親睦を深めるために2泊3日のオリエンテーション合宿に参加することになっていた。
本来は親睦を深めるためだけではなく、集団生活のマナーを身につけたり、高校生としての勉強法を身につけたりするためのものらしいが。生徒たちはそんなことより、やはり親睦の方に重きを置いている。
1日目の朝9時に学校に集まり、クラスごとにバスに乗り込む。2時間ほどかけて着いた合宿所で昼食をとった後は怒涛の新入生ガイダンスが待っていた。校歌練習に始まり、生活指導と進路指導、そして明日行う模擬授業の宿題。夕飯を食べる頃にはもちろんみんなクタクタである。
それなのに。しかも明日は6時起床なのに。この年頃の女子たちが集まれば恋愛話に花が咲くのは、世の常なのだろうか。
消灯後の真っ暗な部屋で誰かが「やっぱり弓弦くんが一番かっこいいよね」と小さな声で、しかし声を弾ませながら言えば、どこからともなく「わかる」と返ってきた。
「かっこいいけど、性格やばいから」
「ね、馬鹿って言われたからね、わたしたち」
これは浅見さんと磯部さんだ。彼女たちはもう声で分かるし、何より私も「馬鹿」と言われた当事者だし。
クラスの女子を名前順で半分に分けたので、この部屋には今8人がいる。私たち3人を引いた残りの5人が一斉に「えー、うっそー!信じられない」と驚きの声を上げた。
他人に侮蔑の意味を含んだ"馬鹿"という言葉を投げつけられた人はどれ程いるだろうか。小学校低学年ぐらいなら喧嘩のはずみであるかもしれない。しかし私たちはもう高校生。さすがにそれは言ってはいけない言葉だと理解している。
しかし彼女たちが「信じられない」と言う程に驚いたのは、そんな言葉を使ったのが弓弦圭斗だったからに違いない。
弓弦くんはなにせ見た目が美しいのだ。どこからどう見ても圧倒的な"美"。きっと彼には枝毛なんてないだろうし、肌荒れも起こさない。どれだけ皮膚が乾燥したとしても、ささくれはできないだろう。そもそも皮膚が乾燥することすらないんじゃないかな。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、彼を見ればそれら全てに納得してしまう。それ程に美しい顔をしていた。
そして顔だけではなく、弓弦くんは体躯も美しかった。180センチを優に超えたスラリとした体に長い手足と小さい顔。一見すると華奢なのに、服の上からでも鍛えていることが分かるほどの肩幅の広さと胸元の厚さ、そして首の太さ。そのバランス全てが美しい。
だからこそ、乱暴な所作や口調が似つかわしくなく全く想像ができないのだ。
しかしどうだろう。彼女たちはそれを聞いてもなお「まぁ、弓弦くんになら『馬鹿』って言われてもアリかなぁ」と惚けた声を出す。
彼女たちにとってはそのアンバランスささえ弓弦くんの魅力の一部のようであった。
「えー?!それなら、白兎ちゃんの幼馴染の瀬戸谷くんの方がかっこいいよ!ね?」
「わかる!あの優しそうな感じがいいよね」
「え、瀬戸谷くんって弓弦くんと同じクラスのでしょ?!白兎さん幼馴染なの?!」
「うっそ、知らなかった!瀬戸谷くんもかっこいいよね」
「てゆか、3組の顔面偏差値がやばいんだよ」
「あー、わかる。けどやっぱ瀬戸谷くんと弓弦くんが2強だよね」
クラスメイトたちが次々に佑ちゃんの容姿を褒める。少しの誇らしさとそれを上回る焦燥感。そんな私の口をついて出たのは、心の内をそのままに表した言葉であった。
「ゆ、佑ちゃんはだめ!……です……」
ああ、やっちゃった。急に大声を出してみんなの興を削いでしまった。場の空気を壊す嫌な奴じゃん、と後悔の念そのままに言葉じりが急激にか細くなる。そんな私に同室のみんなは声を揃えて笑い出した。
「白兎ちゃんかわいすぎる!大丈夫、白兎ちゃんが瀬戸谷くんのこと好きなの知ってるから」
磯部さんの言葉に思わず「え、なんで知ってるの……?」と疑問をこぼせば「バレバレだったよ?」と浅見さんと顔を見合わせ頷き合う磯部さんたち。
そうなの?恥ずかしすぎるんだけど……と顔を真っ赤にしたーー部屋が暗いのでバレてはいないだろうがーー私に、他のクラスメイトたちが「かっこいい幼馴染とかうらやましすぎる」「どこが好きなの?」と囃し立てた。
「……どこが好き?」
「あー、それ聞きたい!いつから好きなの?とかも!」
そう聞かれてよくよく考えてみたが、佑ちゃんのことを好きなのがもう当たり前すぎて……いつから、とか、どこが、とか考えたことなかったよ、と気づかされた。私、佑ちゃんのどこがいつから好きなんだろう……。
部屋の中が好奇心の空気に満たされる。私が素直に「わからないの」と答えようとしたとき、部屋の扉がノックされ、そのすぐ後に先生が顔を覗かせた。
「はーい、うるさいわよ。早く寝なさい」
その注意によって部屋中の空気が霧散する。「話の続きはまた今度かな」と誰かが発言し、それにみんなが同意の「おやすみ」を言い合い、その日は眠りについた。
▼
オリエンテーション合宿2日目も瞬く間に過ぎていった。なにせ英語、数学、国語の模擬授業をみっちり受けたのだ。しかしさすが進学校と呼ばれるだけのことはある。中学の時のように不真面目な態度の生徒はいなかった。
その後クラスの委員会や教科係などを決め、昼食をとるために食堂へと向かう。ヘトヘトに疲れた頭に早く栄養を、とお腹が空腹を訴えた。
「お疲れ、みちる。体調は変わりない?」
着席をした途端に後ろから声がかかる。突然かけられた声に少し驚きつつも、佑ちゃんだ、とその声の持ち主に心が温かくなる。「大丈夫だよ」と振り向けば、そこには思った通りの佑ちゃんの優しい笑顔。と、その横に弓弦くん。
どうりで周りが一瞬にして色めき立ったわけだ。恐らく佑ちゃんについてきただけであろう弓弦くんは、私のことや周りの視線など少しも気にせず大きな口を開けてあくびを一つ。しかしあくびすらも絵になるんだから、と私がその姿を目で追えば、佑ちゃんが「レクリエーション楽しみだね」と私の視線を遮った。
「あ、そうだね。何するんだろ」
「他クラスとも親睦を深めるようなものらしいよ」
「そうなの?佑ちゃんと一緒のチームなら嬉しいな」
「うん。僕もそう思うよ」
佑ちゃんは本当に優しい。私は一見すると冷たそうに見える瞳が、細まりなくなるこの笑顔が大好きだ。ほわほわと温かい気持ちに包まれた私の心。
「お前らはこれ以上なにを深めんだよ」
それに冷水を浴びさせたのは弓弦くんの凛とした、しかし呆れを存分に含んだ声であった。
「ははは。まぁたしかにね。それでも一緒なら嬉しいのさ、ね、みちる?」
「あ、っそ。てかそろそろ行こうぜ、腹減ったわ」
私の心をひやりと冷ましておきながら、弓弦くんは私の反応になど興味がないようだ。いちいち突っかかってこなくてもいいじゃん、と少し不貞腐れた私の頭に佑ちゃんの手のひらが乗る。それに優しい力で撫でられた私の心はもう上機嫌だ。
そんな中、弓弦くんはくるりと踵を返し私に背中を向けた。その瞬間ふわり、と漂う甘い香り。あ、弓弦くん香水つけてるんだ……良い匂い。
反射的にそう感じたその香りは、彼の甘い顔にとてもマッチしていた。お菓子のように楽しげで、果実のように瑞々しい。しかしどこか近づいてはいけないような、甘美で魅惑的な香り。
まるで彼のようだと思った。息を飲むほどに美しい甘いマスクで獲物を誘き寄せ、その鋭い歯で捕食する。私は弓弦くんから立ち上る魂を揺さぶるかのような香りに、めまいを覚えた。
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みんなは口を揃えて「いいなぁ」と言うだろう。だけど私はこれっぽっちも嬉しくない。
午後のレクリエーション。クラスでゲームをした後は、佑ちゃんの前情報の通り、他クラスとの親睦も深めるため、クラスの垣根を取っ払った催しが行われた。
私は絶対に佑ちゃんと同じチームが良かったのだ。弓弦くんに「これ以上なにを深めるんだ」と揶揄われても、私は佑ちゃんと同じチームが良かった。なのに今目の前にいるのはそう揶揄った張本人。
やだなぁ。弓弦くん怖いから苦手なんだよ。と怖気付く私に対して、弓弦くんはちっとも気にしていないどころか、私の存在にさえ気づいていなさそうな態度だ。
拡声器を持った先生が、それなくてもいいんじゃん?と思ってしまうほど大きな声でルールを説明する。
要は大きなフラフープに2人で入り、それをバトン代わりにリレーをする、というものだった。
チーム内で軽く自己紹介をした後、じゃあ、どの組み合わせでフラフープに入ろうか、という話になって、そりゃあ体の大きさ的に男女のペアが理想じゃない?という結論に辿り着く。大きなフラフープといってもそれなりの大きさなわけで、大柄な男子生徒2人が入れば窮屈なわけだ。
チーム内で男女別で背の順に並んで、バランス良いようにペアを組んでいこうか、と話がまとまった直後。先ほどまでただ見ているだけだった弓弦くんが徐に口を開き、「俺、こいつとペアになるわ」と私を指差した。
へ?なんで?と、思ったのは私だけではないだろう。このシーンとした居た堪れない空気をなんとも思わないのだろうか。それとも気づいていないのか?弓弦くんは涼しげな顔で「だめ?」と小首を傾げる。ぐっ……かわいい。
自分よりうんと背の高い男の子を捕まえて「かわいい」だなんておかしな話だと思うけど、それ以外に形容する言葉が見当たらない。
ほぼ名指しと言ってよい眼差しで「だめ?」と聞かれた、このチームを取り仕切っていた2組の和倉くんは少し怯みながら、助けを求めるかのように私に視線を寄越した。
「えっ、あ、だ、め、じゃない……」
「よし、決まり。他のペアは背の順で決めようぜ」
ごめん、和倉くん……私じゃ弓弦くんに太刀打ちできないよー、と視線で謝れば、和倉くんは「仕方ない、あれは仕方ない。白兎さんはなにも悪くないよ」というような憐れみの視線を返してくれた。
その後はスムーズにペアが決まり、実際にフラフープに入ってみようか、という話になった。動きにくそうならペアを変更しよう、ということだ。
順番にフラフープに入って実際に少し走っているチームメイトを見ている私に、横に並んだ弓弦くんが「悪かったな」と声をかけてきた。
「え、なにが?」
「あー?ペア決めだよ、無理矢理指名して」
あ、ああ、ああ!まさかあれを悪いと思っていたなんて!弓弦くんにもそんな殊勝な気持ちがあったのか、と目を丸くした私を見た弓弦くんは、「俺にだって申し訳ないって気持ちはあるわ」と口を歪める。
「あはは、ごめん。でもなんで?」
「あー、お前は佑希のことが好きだろ?だから面倒なことになんねーだろ」
チームメイトの練習風景に真っ直ぐ視線をやりながら、弓弦くんは私の心をズバリと言い当てる。いや、磯部さんたちにもバレバレだったわけだし、弓弦くんにバレててもなんら不思議なことではないか。……恥ずかしいけど!
それよりも"面倒なこと"ってなんなんだろう。私が弓弦くんの横顔を見つめていると、先ほどまで正面を見据えていた弓弦くんがくるりと私に向き直る。
「お前は俺のこと絶対好きになんねーじゃん?」
うん。それはもう100%、自信を持って言い切れる。私が力強く頷けば、それを見た弓弦くんが大きな口を開けて笑い出した。
その豪快な笑い方に近くにいた子たちが振り返る。ちょ、ちょっと、私まで注目されてるじゃん。恥ずかしいんだけど……、と肩を縮め出した私に向かって、弓弦くんは「わりぃわりぃ」とかなり軽めの謝罪を寄越す。
僅かに湾曲し、上を向いた目尻に涙を溜めながら、弓弦くんは「だからお前を選んだ」とはっきりとした口調で告げた。
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