ウサギは今夜も月見て跳ねる
未唯子
1.大好き、佑ちゃん
高校に入学してから初めての登校日。本来ならば自分のことで手一杯なはずの時期なのに、私の教室では他クラスのある一人の生徒の話題で持ち切りだった。
「見た?!」
「見た見た!めっちゃイケメンだった〜!」
「やばいよね!芸能人かな?」
色めき立っているのは主に女子生徒ばかりで、男子生徒は「興味ねぇー」「まじで女子ってイケメンに弱いよな」という冷めた視線を送っている。
しかし、ほぼ初対面の気恥ずかしさや探り合いをも取っ払ってしまうほどの盛り上がりようである。そのイケメンのお陰でこのクラスの女子たちは早くも意気投合していた。これからの一年間、仲良くやっていけそうだ。……男子たちとの間にはわだかまりが出来た気もしなくもないが……それには今は触れないでおこう。
「あんた、のんびりしてるようだけど、例のイケメン君って瀬戸谷くんのクラスだよ?」
「え、そうなの?!佑ちゃんのことじゃないよね?!」
中学から仲良くしてくれている綾ちゃんが半ば呆れ気味に告げた言葉に、私は慌てながら返事をした。今まではのほほんと「みんな仲良くなるの早くて楽しそうだなぁ」だなんて微笑ましく見ていたが、その"イケメン"が私の幼馴染である瀬戸谷佑希を指しているなら話は別だ。
「いや、イケメン君は瀬戸谷くんとは違う子だけどさぁ。瀬戸谷くんもカッコいい方なんだから、イケメン君のついでに見つけられちゃうかもよ?ってこと」
あ、なぁんだ。佑ちゃんじゃないのか、よかった。と、私はとりあえず一安心。しかし、ほっと胸を撫で下ろした私に「うかうかしてると、誰かに取られちゃうかもよー?」と、綾ちゃんの喝が入った。
中学からの友達で、しかも私の佑ちゃんに対する気持ちを知っている綾ちゃんからすれば「早く告白しなさいよ!」と思うのも致し方なしなのだ。だけど、私には綾ちゃんに言っていない重大な秘密があって、その秘密が原因で佑ちゃんに気持ちを伝えることができないでいた。
通称『うさぎ病』と呼ばれる奇病は、その可愛らしい名前とは裏腹になかなか過酷なものであった。
さて、性欲が強い動物は?と聞かれて、一番に浮かぶ動物はなんだろうか。大抵の人が「うさぎ」と答えるのではないだろうか。その通り、うさぎ、特に飼育されているうさぎは年中発情期が訪れている。メスのうさぎは長い時で15〜17日の発情期と1〜2日の休止期を繰り返している。つまり休止期以外は年中繁殖可能、年中発情期なのだ。
このうさぎのような長期の発情期を繰り返す病気、それがうさぎ病であった。原因はホルモン異常とのことらしいが、症例も少なく、今のところ特効薬も有効的な治療法も確立されていない難病である。
この病気は生殖活動が可能になると同時に発症することでも知られており、かく言う私も小学6年生の初潮の訪れと共に発症した。そこから今の今まで毎日抑制剤を内服し、なんとか日常生活を送っている。
この病気の恐ろしいところは奇異の目、特に性的な目で見られるところで、自分の意思とは関係なく強制的に発情させられている状態であるにも関わらず、「あいつはセックス好きの変態だ」と蔑まれるところだった。
もちろん性被害に遭う確率も格段に増えるし、しかも「あっちが誘ってきたんだ」と被害を訴えられる状況にもなりかねないし。とりあえず、私は症状が出ないように、きっちり決まった時間に抑制剤を飲み、万が一発情の症状が出ても対処できるように抑制剤を常に持ち歩いていた。その甲斐あってか、今日まで発情することはなかったし、周りにうさぎ病だとバレることもなかった。
しかしこの病気が私と佑ちゃんの足枷になっていることは確かであった。
▼
身体計測とホームルームが終わったので、帰ろうか、と席を立った私の耳に「イケメン拝みに行く?」といった会話が入ってきた。
イケメンを拝みに行く、ということは、佑ちゃんのクラスに行くということであろう。これはチャンスだ!「私も3組に用事があるんだ!一緒に行ってもいい?」と声をかけたら、私にも新しい友達ができるのでは?そう思うのだけれど、口から言葉が出てこない。
結局肩身狭く、とぼとぼと後をついて行くような形で彼女たちの少し後ろを歩く。そんな私に気づいた一人のクラスメイトが「え、っと、白兎さん?ももしかしてイケメン目当て?」と明るく声をかけてくれた。
「え、あ、や、違くて。その、私の幼馴染が3組で、」
「えっ?!まじ!!?男?女?」
「あっ、あ、っと、おとこ、」
「うっそ!やった!もしさ、弓弦くんと友達ならわたしらのこと紹介して〜」
どうやら例のイケメン君は"ゆづるくん"というらしい。どうだろう。佑ちゃん、仲良くなってるかな……。私は「うん。聞いてみるね」と微妙な笑顔を貼り付け、彼女たちと3組を目指した。
3組には想像していたより人が大勢いて、それを目にしたクラスメイトたちは「絶対弓弦くん目当てだね」と口を揃えた。
ええ?これ全部?と俄には信じ難い数の生徒数を見て思うが、大半が女子であること、そしてなによりきゃあきゃあと色めき沸き立つ声を聞けば、なるほどと納得してしまう。
と、私はそんなことより佑ちゃんだ、となかなかに近づけない扉の辺りを目を凝らして見つめた。その瞬間、「きゃあ」「かっこいい」と黄色い声が一際大きく上がった。隣で同じクラスの磯部さんたちも「わっ、やっぱめっちゃかっこいいよ」と声を震わせる。
「あっ、佑ちゃん!」
「みちる、待たせたね」
私が佑ちゃんを見つけたのと、佑ちゃんが私を見つけてくれたのはほぼ同時だった。180センチに届きそうな身長の佑ちゃんはよく目立つ。しかし、他の女子生徒は佑ちゃんの直前に出てきた男の子に夢中であった。きっと、いや、確実にあの人がゆづるくんだ。そうとしか思えないほどに彼の容姿は整っていた。
「じゃあ、弓弦、僕こっちだから」
「あ?あー、俺もそっち行くわ。うっぜー、どけよ」
顔面国宝と呼んでも差し支えないほどの美貌を持ったゆづるくんは、そのご尊顔を歪めながら纏わりつく女の子たちに向かってシッシッと手を払う。そしてモーゼの海割りのごとくゆづるくんに道を譲る女子生徒たちの間を悠然と歩きながら、私の目の前に佑ちゃんと共にやってきたのだ。
「んだ、これ。佑希の知り合い?」
「ああ。僕の幼馴染でね、白兎みちる。みちる、こっちは新しく友人になった弓弦圭斗」
佑ちゃんはにこやかに私を紹介したが、私のことを"これ"と称したゆづるくんーー名前だと思っていたけど名字だったーーは、全く興味がないと言った風に「へぇ」とそっぽを向いた。そんな彼に「よろしくお願いします」と挨拶をする勇気は、残念ながら私にはない。口ごもる私を見た佑ちゃんは、安心させるように瞳を細め「後ろにいるのはみちるのお友達かな?」と磯部さんたちに視線をやった。
「あ、そう、クラスが同じで、えっと磯部さんと吉賀さんと浅見さん」
私が友達と呼べば彼女たちは気を悪くするかもしれない。しかし「紹介して」と頼まれた手前、私たちの関係性を伝える必要があった。
私が「同じクラス」と失礼にあたらない事実のみを伝えたものに「白兎さんの友達です」と磯部さんたちが笑顔で被せた。え、友達なんだ……嬉しい!
「そう!友達なの!」
「そうか、それは良かったね。僕は瀬戸谷佑希で、彼が弓弦圭斗。よろしくね」
弾んだ声を隠しきれない私を見て、佑ちゃんも嬉しそうに頬を緩める。好き。佑ちゃん、大好き。幸せのみを享受し一層下がった私の眦を一瞥した弓弦くんが、あからさまなため息を吐いた。
「は、はい。よろしくお願いします。あ、の弓弦くん、わたし磯部明里って」
「……馬鹿ばっかだな。どいて、俺帰るから」
辛辣。自己紹介を始めた磯部さんの声を遮り、弓弦くんは再び大きなため息を吐く。そしてその美しい顔に嘲笑を浮かべた。
馬鹿ばっかだな、とは弓弦くんを見て瞳を輝かせている磯部さんたちのことはもちろん、佑ちゃんから与えられる幸せを享受していた私のことも指しているのだろう。
弓弦君の切長の目を縁取る長いまつ毛が下瞼に影を落とす。冷え切り熱を無くした瞳がまた私を捉え、虫けらを見るかのように細められる。そしてそのすぐ後、私たちの存在を無視するように佑ちゃんにだけ「じゃーな」と挨拶をした弓弦くんはその場を去って行った。
取り残された佑ちゃんと私たち。そして弓弦くん目当ての生徒たち。その内の数人の生徒は弓弦くんの後をついて行き、残りの生徒たちはぞろぞろとその場を離れた。
「あ、あー。ごめんね。あいつ口悪くて」
なんとも言えない空気の中、顔を引き攣らせた磯部さんたちに何も悪くない佑ちゃんが謝った。
「いや、瀬戸谷くんは全然悪くないから!」
「いくらイケメンでもあれはないよね」
「ないない」
磯部さんたちは口々に弓弦くんに対する悪口をこぼした。普段は聞いていて良い気のしない悪口だが、あんな態度を取られれば一つや二つ言いたくもなるだろう、と私は頷く。
しかも、佑ちゃんと弓弦くんはまだ出会って2日目のはずだ。そんな短期間で佑ちゃんが「あいつは口が悪い」と言い切るのだから、余程なのだろう。人間は顔じゃないよ、と納得せざるを得ない人物だなぁ、と先程の弓弦くんの冷たい瞳を頭から追い出した。
▼
私と佑ちゃんの家は歩いて5分もかからない距離にあった。それなのに、佑ちゃんは「心配だから」と毎回私を家まで送り届ける。
この"心配だから"はなにも危険な目に遭うということに対してだけではない。それもあるが、それよりも、いつ私が発情するか分からないことに対してであった。
「ありがとう、佑ちゃん」
「なんてことないよ。……みちる、」
「ん?」
「もし発情したら、僕を呼ぶんだよ」
別れ際の聞き慣れたセリフ。佑ちゃんは私に念押しするように必ずそう口にする。実際は抑制剤を飲めば事なきを得るだろうが、私も同じ気持ちだ。
もし私が発情したなら、それを鎮める役目は佑ちゃんであってほしい。ううん、佑ちゃんしか考えられない。
家族と主治医の先生以外で私のうさぎ病のことを唯一知っているのは佑ちゃんだけであった。
うさぎ病は症例の少なさ、また症状の特異さから病名を公表することを良しとしない人が多い。その理由として、世間では"うさぎ病=性行為大好き"という偏見が蔓延っていることが挙げられる。その証拠としてそれを題材に扱ったAVや卑猥な漫画もたくさんあった。
「じゃあ、また月曜に迎えにくるよ」
「うん、待ってる。佑ちゃん、気をつけてね」
「ああ。すぐそこだけどね」
ありがとう、と佑ちゃんが笑う。その"すぐそこ"の距離さえ心配で、わざわざ送ってくれたのは誰だっけ。嬉しさを隠そうともしない私の笑い声に、佑ちゃんは照れたようにはにかむ。
「ほら、家の中に入りな」
佑ちゃんは私が家の中に入ったことを確認するまで足を進めないのだ。「はーい」と仕方なく玄関に入り、扉は閉めないまま「じゃあね」と顔だけ出せば、佑ちゃんは「じゃあね」と歩き出した。
遠ざかってゆく佑ちゃんの背中を見て、大好きだよ、と念を送る。
好きだって言ってもいいかな。付き合いたいって言ってもいいかな。
佑ちゃんは絶対に私を好奇の目で見たり、体を良いように使ったりはしない。それは分かっている。……怖いのは、私が佑ちゃんを傷つけてしまわないか、ということだ。
好きだって言いたい。そう思うたびに邪魔をするのは、発症時にタイミング悪く一緒にいた佑ちゃんに浅ましく迫った私の姿。
突如幼馴染に性的な目を向けられ困惑した佑ちゃんの表情。そして、佑ちゃんから立ち上る香りに覚えた嫌悪感。
それを思い出すたびに私はどうしても自分の気持ちに蓋をしてしまうのだった。
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