第77話 愛する君へ【side:テオ】
迎賓館員に、執務室で待っている二人を「呼んできてくれ」と頼んでから、ほどなくして部屋の扉がノックされる。
現れたのは、ソフィア一人だった。
【オルランドはどうしたんだ?】
【『僕は後でで良いから、まずは二人でゆっくり話をしてきなさい』と】
【ふん。あの男もたまには気を利かせるではないか】
鼻を鳴らし普段通り偉そうな口ぶりをしてみせるが、ソフィアはいつものように朗らかに笑うことはなく、心配そうな顔でこちらを見つめてくる。
【ソフィア、茶を淹れてくれないか。今度はあまり……熱くないのを頼む】
恥ずかしさを我慢して猫舌なのを隠さずに言うと、ようやく彼女は少し微笑んで【かしこまりました】と頷いた。
手早くお茶の準備を済ませた彼女が、二人分のカップをテーブルの上に置いた。
自分の目の前に座り、ソフィアが言葉を探すように視線をわずかに下に落とす。
彼女は、今にも泣きそうになのを必死に我慢している様子だ。
【ソフィア。そんな顔をするな。心配しなくても大丈夫だ。俺は死なないぞ】
【ですが……ブラスト侯爵は、身内にも容赦がない方だとハンナさんが仰っていました。すごく、心配で……私が余計なことをしたから……あなたが命をかける道を選んでしまった……そう思うと……どうしたらいいのか……私……】
目を潤ませ、肩を震わせ、今にも泣きそうなのを必死に堪えているソフィアの姿。
淡い桜色の髪が顔に影を落とし、悲痛な表情を見ていると、自分も苦しくなる。
――あぁ、この女性はどこまでも優しすぎる。自分を責める必要など、どこにもないのに。
テオはゆっくり立ち上がると、椅子に座る彼女のそばに膝をついた。
今度は彼女を怖がらせないように、優しく壊れ物を扱うようにそっと、白く華奢な手の上に自らの手を重ねる。
大きな若葉色の瞳を見つめ、ほほ笑んで告げた。
【『余計なこと』なんかじゃない、ソフィア。お前と出会っていなければ、俺はオルランドを深く知ることもなく、レーゲルと戯れることもなかった。そして、ずっと心のしこりになっていたハンナとの再会も、叶わなかっただろう】
揺れる若葉の瞳からとうとう、涙が一筋こぼれ落ちた。
テオは、そっとソフィアの涙を拭って続けた。
【あのままでは、俺は夢も希望も、生きる意味すら見失い続けて。そして、戦争で多くの犠牲者を出した後になってようやく、自分の罪を自覚して……。きっと、絶望して心が壊れてしまったに違いない】
自分は言葉を紡ぐのが下手だから、せめて重なった手から伝わる体温に乗って、この胸いっぱいに広がる感謝と想いが伝わるように。
彼女がこの先も泣かず、前を向いて笑ってくれるように。
どうか、どうか……。
そう願って、彼女の手の甲をトントンと撫でながら語り続ける。
【ソフィア・クレーベル。俺の心を救ってくれて。沢山の出会いと夢をくれて、ありがとう。お前と出会えて本当に良かった。俺は今、とても幸せだ】
一粒を皮切りに、まるで朝露のような透明なしずくが次から次へと白い頬の上を滑りおち――。
ドレスの上に儚く消えてゆく。
涙を流す彼女を見て胸が痛むと同時に、愛しい女性が自分のために泣いてくれることに、どうしようもなく喜びを覚えてしまう。
彼女の心を傷つけたくないのに、深い傷跡として刻まれ、たまにでも良いから思い出して貰える存在になれたら……。
――つくづく俺は身勝手な男だな。
ソフィアが自分へ向けているのは恋愛感情ではない。
友愛か
何にせよ愛であることに変わりはない。
なら自分はそれで、十分だ。
【そんなに泣くな、目が腫れてしまうぞ。心配しなくても大丈夫だ。父上は昔は恐ろしい人だったが、最近は歳を取って丸くなった、話し合えばきっと分かってくれる。家族なのだから、息子を手にかけることは絶対にしない。俺は死なない。生きて、またお前に会いに来る】
笑顔で考えつく限りの言葉を並べて、テオは優しい嘘をついた。
いつか、彼女が自分の訃報を知る日が来るだろう。
だがそれまでは、テオ・ブラストは元気で生きていると安心していて欲しい。
【今年は無理そうだが、いつか一緒に冬祭りに行ってくれないか。仕方ないからオルランドも連れて三人で、『不経済で非効率で思いっきりロマンチックな祭り』を楽しんでやろうではないか!】
【ふふっ。そうですね。人が沢山いるので、はぐれないようにこうして手を繋いで行きましょう。きっとすごく……楽しいですよ】
【そうだな。とても、楽しみだ】
固く握った手が愛おしい。
小さくて華奢で柔らかくて白い。
宮殿の『平和の間』で見た日から、ずっとこうして触れてみたかった。
想いは雪のようにつのり、清らかな泉の水のようにあふれ。
なかなか言えなかった気持ちが、自然と形となってこぼれ落ちた。
【ソフィア。俺はずっとお前が、好きだった】
ストレートな言葉に、ソフィアは驚いた顔をした。
ただでさえこぼれ落ちそうな大きな瞳が更に見開かれ、つぼみのような唇が薄く開かれている。
普段は聡明で無口で大人びた彼女の、無垢で無防備な表情が何とも愛らしい。
この美しい春の花を、守ってやりたい。
――いや、俺は、絶対に守ってみせる。そのためなら、命すら惜しくない。
【最初は、興味だったんだ。芸術に興味を持つ普通じゃない令嬢。何か俺と似たものを感じて関心を持った。お前が国を出てからは忘れようとしたが……無理だった。異端となりながらも一人祖国を出て自立するたくましい女性など、俺はお前以外に知らない。お前以上に心惹かれる相手は、帝国のどこを探してもいなかった】
ひとこと愛を囁けば、あとはたやすく言葉が浮かび、自分でも驚くくらい簡単に告げることができた。
もっと早く、想いをきちんと伝えられていれば。
もっと早く、強さに固執せず素直になっていれば。
結末は変わっていただろうか。
――ハンナが言っていた『過去を後悔することほど、苦しいものはない』というのは、こういうことなのだな。
【正直昨日までは、どんな手を使ってでもお前を自分の『もの』にしたいと思っていた。だが、違うと気付いた。俺はお前を縛り付け、家や派閥の道具にしたくない】
――今の俺はもう分かっているんだ。『もの』のように自分の手元に置いて、一番近くにいることだけが愛じゃない。遠くから見守ることも、また、一つの愛の形だと気付いたから……だから……。
【俺の本当の夢は、綺麗な心で他者を癒やし、人の
この先、どんなに辛いことがあっても、悲しい別れが訪れようとも……。
【幸せになれ、ソフィア……】
――心から愛している。だから俺は、お前を手放す。
テオの手を両手で握りしめたソフィアは、震える唇で【はい、テオ様……】と呟き、何度もコクリと頷いた。
首を縦に振るたびに、雨のように雫が降り注ぐ。
透明な一つ一つの想いの結晶を見つめ、左手でそっと拭ってテオは語りかけた。
【ソフィア、また手紙を書いてもいいだろうか?今度は代筆屋を通さず、ちゃんと自分で書く。俺は友達に手紙を送ったことがないんだ……受け取ってくれるか?】
【はい、もちろんです】
【良かった。それと、もう一つ頼みがあるのだが――】
テオの頼みを聞き入れた彼女は、涙を拭って力強く頷いた。
どんなに悲しく辛くても、きちんと前を向く。自分の愛した人はやはり、誰よりも強い女性だ。
自分の想いも夢も、ソフィアなら未来へ連れて行ってくれるだろう。
【ありがとう】
願わくば、どうか。
愛する君が永久に幸せでいられますように。
悲しい過去に別れを告げて、未来へ向かって羽ばたいてくれることを祈って――。
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