第72話 黄昏の先に往く【side:テオ】
【ハンナ、俺は進むべき道が分かったぞ】――テオは目元を乱暴に拭うと、勢いよく顔を上げる。
憂いの消えた自分の表情を見て、彼女はほっと安堵したように胸をなで下ろした。
話題は尽きることなく、会えなかった時間を埋めるように二人は話し続ける。
途中から、離れた席にいたソフィアとアーサー、厨房でもらい泣きしていたハンナのご主人を交えて、食卓を囲んで楽しいひとときを過ごした。
テーブルに並べられたのは、珍しい香辛料で味付けした肉料理を中心に、旬の食材をふんだんに使い帝国風にアレンジしたスープ、かぼちゃや栗のパイなどテオの大好物ばかり。
ハンナのご主人は元貿易商にしては無口な人だったが、たまに紡ぐ言葉は穏やかさと誠実さに溢れており、好感の持てる紳士だった。
東の空が茜色に染まる頃――時間を確認したアーサーが「そろそろ……」とこちらに声をかけてきた。
テオは再び七三に髪型を整え、眼鏡をかけた。
【坊ちゃん、どうか、どうか……お元気で!】
【ハンナも、元気で幸せに暮らしてくれ】
ハンナとハンナのご主人と固く握手を交し、仲睦まじい夫妻に見送られながら、三人は店を後にした。
家路につく様々な人が自分の横を足早に通り過ぎてゆく。
七三髪の眼鏡姿に戻ったテオは、前を並んで歩くソフィアとアーサーの背中を見つめ、黄昏に彩られた街を歩きながら物思いにふけった。
考えているのは、ハンナが言った言葉――テオの母親のことだ。
【奥様はテオ様を心から愛していますよ。乳母の私でさえ貴方を愛おしく思うのです。自分がお腹を痛めて産んだ息子が可愛くないはずありません】
ハンナの言葉にテオがすかさず反論した。
【だが、母上は俺を遠ざけている。『テオ様』とよそよそしく呼んで、目も合わせようとしない。正直、愛されている実感がない】――と眉間にしわを寄せて言えば、彼女は言葉を続けた。
【奥様が距離を置いているのは、他でもない坊ちゃんを守るためなのです。旦那様は、幼い貴方が奥様を恋しがるたび殴りました。奥様は我が子を傷つけないため、遠くから見守り、陰日向に支える決心をしたのです。大切だからこそ近づけないという気持ちは、テオ坊ちゃんにも覚えがあるでしょう?】
確かに、大事な相手だからこそ側に行けないという気持ちは痛いほど良く分かった。
大人になったテオは人を使ってハンナを探し出すことも出来た。
ソフィアについてもそうだ。人を派遣して無理矢理にでも帝国に連れ去ることだって、しようと思えば出来たのだ。
だが、しなかった。いや、……出来なかった。
ソフィアのことも、ハンナのことも、形は違えどもそれぞれ愛しているからこそ、傷つけ嫌われる事はしたくなかった。
【あのかぼちゃのパイは、もともと奥様が徹夜で作り、レシピを私に教えて下さったものなのですよ。そして、旦那様が仕事で遅くなる日は、あなたが眠ったあと、奥様は必ずあなたの顔を見に来て、頭を撫でていました。旦那様にもテオ坊ちゃんにも気付かれない方法で、奥様はずっと我が子を慈しみ、守ってきたのです】
まどろみの中で心地よさを感じた優しい魔法の手の主は、母だった。
大好物の料理のレシピはみんな、もともと母が寝ずに作ったものだったのだ。
――そうか。ずっと気付かなかっただけで、俺はちゃんと母に愛されていたんだな。
再び広場の側を通りかかったテオは、中心にそびえ立つツリーを仰ぎ見る。
寒々とした空に、針葉樹の緑と色とりどりの飾りが映える。
木のてっぺんには、東方の『シュリケン』のような形をした物が付いていた。
――非効率で不経済で、不思議な祭りだな。
テオは、もう一度活気あるリベルタの街の風景を目に焼き付けると……。
足を止め、「オルランド」と名を呼んだ。
すぐさま前を歩いていたアーサーとソフィアが振り返る。
「明日の会談の際、お前が信頼できる一部のメディアを会場に入れろ。そして内容を余すところなく、国中に、いや世界中に発信してくれ」
「リベルタ側は良いが、帝国側は情報統制が厳しいだろう? 新聞記者を入れてもいいのかい?」
「帝国の責任者は俺だ。俺が良いと言ったら、良いのだ。それに、会談の内容は公式記録として歴史に残るが、人々の元には届きにくい。明日の内容は多くの人の目に触れ、世界中に知ってもらいたい事柄なのだ。――頼んだぞ」
アーサーは『君は何をしようとしているんだ?』という目線を向けてきたが、こちらの真剣な様子を見て、何も言わずに頷いた。
テオは「ありがとう」と言うと、両手を広げてソフィアとアーサーの間に割って入った。
二人の肩を抱きしめて、明るく前を向いて清々しく笑う。
「よし!レーゲルが待っているからな!帰るか!!」
広場の中央にそびえ立つツリーの後ろで、橙色の太陽が沈んでゆく――。
茜さす一日の終わりは、いつだって物悲しくて寂しい。
太陽が登っている間は不思議と孤独感が薄れるのに、あたりが夜闇に包まれた途端、自分がどうしようもなく独りぼっちに思え、寂しい気持ちになってしまう。
だから、感傷的な気分になる夕焼け空は大嫌いだった。
自分自身の弱さの象徴みたいで、いつも忌々しく睨んでいたものだ。
なのに、不思議なものだ……。
今日はとても……。
「綺麗な空だな。悪くない」
そう言えば、すぐさま両隣から応えが返ってくる。
「はい、とても綺麗です。ふふっ、目玉焼きの黄身みたいで美味しそうですね」
「ソフィアは食いしん坊だね。でも確かに、塩をかけて食べたら美味しそうな色だ」
「はぁ!? お前、目玉焼きはソースだろうが」
「私は何もかけずに、素材の味をそのまま頂くのが好きです」
「全員、好みが違うとはね……。これは、第一次目玉焼き戦争勃発だな」
他愛ない会話が楽しい。
なんてことない日常が愛おしい。
大切な人たちが幸せに生きていることが嬉しい。
今の自分の夢は、父の望んだ偉大な貴族になることでも、帝国で名誉と地位を得ることでもない。
名を呼べば振り返ってくれる。
大切な者達を守ることだ。
――俺は、真に強い帝国男児になる。
黄昏の空を見つめ、テオは己の
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