第71話 母の愛【side:テオ】

 テオの母は当時から父に行動を監視されており、『息子が生まれたら乳母と教育係のもと徹底した管理を行う。お前は一応母親だから、乳母を選ぶ権利はやろう』と言われていたそうだ。



【奥様は私に言いました。――『あなたはわたくしの代わりに、生まれてくるこの子を沢山愛してあげて。わたくしが夫の監視のせいで出来ない分。この子の一番の味方になって欲しいの』と】


 テオの母は、大きなお腹を愛おしそうに撫でて、何度もお願いしたそうだ。


 最初はお断りしようと思っていたハンナも、母のあまりの懇願に乳母の大役を引き受けることを決めたらしい。


【奥様のおかげで、私はあなたの乳母になれました。テオ坊ちゃん、覚えていますか? 私が息子を思い出して泣いていると、いつも絵を描いてくれたのよ】


【あぁ、なんとなく。昔の俺は、絵を描く事しか出来なかったから。でも、下手くそな子供の落書きなんて、今思えば何の慰めにもならないな……】


【そんなことないわ。私、今でも大事にとってあるの】


【え!? いや、恥ずかしいから捨ててくれよ】


【ふふっ、絶対に捨てませんよ。だってあれは、思い出が沢山詰まっているもの。それに、あれは私の大切な坊ちゃんがくれた優しさのかたち、捨てられるわけないわ。今でも辛いときに取り出して見ては、元気を貰っている。私の宝物よ】


 自分がガラクタだと思ったものを、ハンナは『優しさのかたち』だという。

 自分が捨てたいと願った弱さを、ハンナは宝物だという。


【坊ちゃん、あなたの存在が私を救ってくれたの。ありがとう。私を沢山愛してくれて、慕ってくれて。本当に、ありがとう。あなたのおかげで私は生きているの。屋敷を出てからも、いつかまた坊ちゃんに会える日まで、元気でいようと前向きに頑張れたわ。だから今の主人とも出会えて、こうして毎日幸せに過ごせているのよ】


 だから謝らないで。自分のことを責めないで。

 

 罪悪感より、誇りを持って。

 

 ハンナという一人の人間の命をつなぎ止めた自分自身の存在を、もっともっと大事にしてね――。



 彼女の語る言葉の一つ一つが、テオの空虚だった心の隙間を埋めてゆく。

 

 胸の奥が熱くなり、込み上げてくる涙に目を閉じて言葉を絞り出した。



【俺は一体、今まで何をしてきたんだろう……。自分を大事になんか、出来そうにない。父の理想にもなれず、母にも避けられて……。これから多くの未来を奪おうとしている。俺はもう、ハンナに優しさを向けてもらえるような人間じゃなくなってしまった。迷ってばかりで、昔の夢や自分の事すら満足に分からないんだ。情けない、本当に自分が情けない……】


 今まで誰にも打ち明けられなかった弱音を全部さらけ出す。


 大人のくせに、子供みたいに感情を吐き出す自分の姿が、あまりにも不甲斐なかった。


 自分はいつになったら、周囲から求められる理想の人間になれるのだろう?


 頑張っても頑張っても上手くいかない。

 

 努力の方法が間違っているのか、進むべき方向が不正解なのか。


【強い男になりたい。誰にも負けない、他人を傷つけても平気な顔をしていられる帝国の『普通の貴族』に……父と母の望む息子になりたい、なるべきだ……みんな、それを望んで求めている……】


 

 テオはハンナが渡してくれたハンカチで目頭を押えると、【だが……俺は……おれは……】と無様に言葉を詰まらせながら言った。


【どう頑張っても……なれない……! 人を傷つけて、踏みつけて、それでも笑いながら『愉快だ』なんて思えない。思いたくもないっ!!……俺はっ……沢山の泣き顔より笑顔が見たい。戦争より平和な日々を選びたい。強さより優しさを選びたい。いつだって憎しみより愛を……選びたい】


 

 今ようやく、自分の生きにくさの理由が分かった。


 世間から求められる理想の姿になるべきなのに、なれない。なりたくないと叫ぶ、我が儘な自分自身がいる。

 

 諦めろと言い聞かせても、諦めきれない想いがある。

 

 誰にも求められていなくても、不必要だと言われても、捨てがたく手放せない気持ちがある。 


 

【テオ坊ちゃん。あなたは何も変わっていないわ。他者を思いやる優しさと真の強さをもつ人】


 にじむ視界の中で、ハンナの優しい笑顔が涙でゆらゆら揺れている。


【テオ坊ちゃんの人生は、旦那様のものでも、奥様のものでもない。ましてや、顔も名前も知らない『みんな』のものでもありません。他の人のことは、どうだって良いじゃないですか。あなたの一度きりの人生、思いっきり我が儘に生きなさい。自分の好きなように泣いて、笑って、幸せを追い求めなさい】


【……いいの、だろうか。大人なのに、そんな我が儘をして良いのだろうか】


【大人も子供も、性別も、何も関係ありませんよ。過ぎた時は二度と戻りません。未来は絶えず過去になり、人は必ず年老いて終わりを迎える。後ろを振り返って『あれをすれば良かった』と後悔することほど、苦しいものはありません。あなたよりも長く生きてきた私が言うんだから、間違いありませんよ】


 ハンナは、がさついた掌でテオの手の甲を撫でる。 

 

 乾き傷つき厚くなった皮膚と沢山のしわが年輪のように、彼女の過ごしてきた時間の重みを表している。


【私はテオ坊ちゃんに笑顔になってほしい。今日より明日、明日より明後日――。あなたが少しでも明るく楽しいと思える日々を積み重ねてほしい。どうか、どうか……あなたが自分自身を愛せる未来を選んで、歩んでください。乳母として……育ての母親として、あなたの幸せをなにより、願っています】



 子供みたいに泣きじゃくる自分に語りかける声はいつだって温かくて、愛に溢れていて、自然と背中を押してくれる。

 

 未来に羽ばたきなさいと。

 あなたには、その翼があるのだと、教えてくれる――。


 

 覚悟は、決まった。


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