第70話 ハンナの過去【side:テオ】

【テオ坊ちゃん……!】


 こちらに駆け寄ってきたハンナは、目尻に涙を浮かべて心の底から嬉しそうに微笑んでいた。

 

 優しい瞳と穏やかな表情は変わらず、記憶にあるより少しふっくらとした乳母の姿。

 

 ずっと会いたいと願いつつも、自分のせいで迷惑をかけた罪悪感から、今まで探すことをためらっていた人が今、目の前にいる。


 夢のようだった。



 色々な感情が渦巻いて、子供のようにうつむいて黙り込んでしまった自分の顔を、ハンナがのぞき込み目を細める。

 

 それは、泣くのを我慢していた子供のテオを見ていた時と同じ、昔となんら変わりない慈愛に満ちた眼差しだった。


【入り口は寒いでしょう?さぁさぁ、こちらに!】


 手をそっとすくい取られ、引かれる。

 記憶よりもずっとずっと、華奢な手だった。見れば、背丈も背中も自分よりはるかに小さい。



――子供の頃は、あんなに大きく見えていたのにな。



 過ぎた年月を実感する。

 老いた彼女に対して感じるのは、切なさと申し訳なさと、変わらぬ愛情だ。



 黙ってうつむいているテオに、ソフィアが控えめに声をかけてきた。


【積もる話もあると思いますので、終わるまで私達は向かいのカフェで待っていますね】


【いや、店内にいてくれて構わない。聞かれて困る話は、何もない】


 彼女は【分かりました】と頷くと、店の端っこにある席にアーサーとともに腰掛ける。

 

 ハンナに手を引かれ対面して椅子に座ったテオは、少しの沈黙の後で自分から口を開いた。



【すまなかった……】


 テオが頭を下げると、ハンナが不思議そうな顔をして首をかしげる。


【テオ坊ちゃん?顔を上げて下さいまし。何故あなたが謝るのですか】


【俺が、ハンナを不幸にした。俺が父の言いつけ通りに強い男にならなかったから、弱くて泣き虫な子供だったから、ハンナは屋敷を追われた。あの後、とても苦労したはずだ。大人になって、探そうとも思ったんだ。だが、もし俺が再び関わって不幸にしたら、と思うと出来なかった。……人生を滅茶苦茶にしてしまって……申し訳ない】


【ずっと、そんな風に思って苦しんでいたのね……】



 木目調のテーブルに置いたテオの拳の上に、小さな手が重なり、トントン――と安心させるように一定のリズムで軽く撫でられる。


 顔を上げると、ハンナは首を横に振った。


【テオ坊ちゃん、それは違います! 誤解ですよ。私は不幸になんかなっていない。むしろ、あなたと出会ったことで、私は今こうして生きて、幸せに暮らせているんですよ。もしあの時、あなたの乳母にならなかったら……私は世をはかなんで、自分の人生に終止符を打っていました】


【それは、死ぬということか……? 一体、何故だ、ハンナ】


【坊ちゃんの乳母になる、少し前のことです。私は生まれたばかりの息子を病で亡くしました】


 テオはごくりと唾を飲み込んだ。


 今まで知らなかった事実だ。


【子供を亡くしてから、当時の夫とも上手くいかなくなって。離縁され私はひとりぼっちでした。子供を産んだばかりの体からはお乳が出るのに、飲ませる息子がいない……。嫌でも、亡くなった事実を思い知らされた。虚しさと悲しさだけが募っていって……毎日、生き地獄でした。もう、何もかも終わりにしたかった私は、使用人を辞めようと思っていたんです】


 そんな時、テオの母が監視の目をかいくぐり、こっそりハンナの元を尋ねてきて、こう頼んだらしい。

 


 『生まれてくる、わたくしの子供の乳母になってちょうだい』――と。


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