第61話 乳母

「急にお茶に誘って、ごめんなさいね。今、リベルタに帝国から使節団が来ているでしょう? 新聞で知ってから、何だか昔がすごく懐かしくなってしまってねぇ。あなたの姿を見つけたから、帝国のお話をしたくなっちゃったの」


「誘って下さって、ありがとうございます。私もハンナさんとお話しできて嬉しいです」


「ふふ、そう? ありがとう。ソフィアさんは、優しいお嬢さんねぇ」



 ハンナは朗らかに笑うと、メニューを手に取って「何にしようかしら」と目を落とした。



 喫茶店のウェイターに注文を告げると、ほどなくして、二人の目の前に飲み物が運ばれてくる。


 ハンナは紅茶、ソフィアはココアを飲みながら色々な事を語らった。

 

 最初は帝国の話だったが、話題は次第に彼女の昔話へと移り変わっていく。



「ハンナさんは、帝国貴族家のメイドさんだったのですか?」


「ええ、そうよ。侯爵家の坊ちゃまの乳母をやっていたの。もう十年以上も前の話だけどね」


「仕草がとても上品で素敵だと思っていましたが、そうだったのですね。ちなみに、どちらの侯爵家にお勤めだったのですか?」


「ブラスト侯爵家よ。今帝国使節団として来ているテオ・ブラスト侯爵子息、ご存じかしら?彼の乳母をしていたの」


「テオ……様の」


 あまりの驚きに思わずカップを取り落としそうになって、ソフィアは慌てて手元に意識を向けた。

 

 カップが勢いよくソーサーの上に着地して、カチャリと音が鳴る。


 こちらの動揺ぶりを見て、ハンナが「もしかして、テオ坊ちゃんとお知り合い?」と首をかしげる。



「はい。実は帝国にいた頃、何度かお手紙を貰ったことがありまして。今も、仕事の関係で毎日お話しさせて頂いております」


「そうだったのね! 坊ちゃんは、大きくなったでしょうね。お元気? もう体は弱くないのかしら? 昔はすごく細くて小さくて、毎日『テオ坊ちゃんが大きくなれますように』と神様に祈っていたわ」


「私が見る限り、テオ様は健康そのもの。背が高くて、がっしりとして強そうで、精悍な方です。『帝国男児たるもの鍛錬は欠かさない』と言っていました。あっ、でも少し猫舌のようですが」


「ふふ、そこは変わっていないのね。でも……そう……良かったわ。元気に育って。大きくなって。本当に……良かった」


 ハンナは隣の椅子に置いていた鞄からハンカチを取り出すと、目元を押さえて何度も何度も「よかった」と呟いた。


 仕草や表情の一つ一つから、彼女がテオに向ける溢れんばかりの愛情が伝わってくる。


「急に泣いてしまって、驚いたでしょ。ごめんなさいね」


「いいえ、お気になさらないで下さい」


「テオ坊ちゃんの話をもっと聞かせて下さる? あの子、今でも絵画や本は好きなの?昔は、『大人になったら、庶民も楽しめる素晴らしい美術館や、どんな家柄の子供でも勉強が出来る学校を建てるんだ!』って言っていたんだけど、夢は叶ったかしら?」


「テオ様はそんな夢を持っていたんですね」


「昔はね。……私が居なくなった後も、旦那様に厳しく叱られて一人で泣いていたのかしら……。奥様とのギクシャクした関係はどうなったんだろう? テオ坊ちゃんはお優しいけれど、気弱な所がある子だから……色々と心配だわ」


「あの方は、気弱……とは、一番ほど遠いような。むしろ人一倍強いというか、変な方向に振り切った、超ポジティブな鋼の精神をお持ちと言いますか……」


「あら、どうしてそんな微妙な顔をしているのかしら。えっと、今のテオ坊ちゃんは、一体どんな感じに成長してしまったの?」


 ソフィアは自分の言える範囲で、テオの様子を語った。


 常に『帝国男児たるもの相手を支配しなければ』と言って強さを追い求める姿勢。


 『お前は俺の物だ』と言って、女性を物扱いする傲慢な態度を取っていること。


 そして、人一倍、帝国の慣習やブラスト侯爵家から自由になりたいと願っているのに、全てを諦めようとしている現状。


「あらまぁ……。あの優しかったテオ坊ちゃんが、そんなことに……。きっと、旦那様のせいね……」


「テオ様は昔の夢も、これからの未来も、全てを見失っているご様子で。私の目には、あの方が酷く葛藤して、苦しんでいる様に見えてならないのです。何か私にも出来ることは無いかと、ずっと考えているのですが……良い方法が思いつかなくて。自分の無力さが悔しいです」


「そう……。テオ坊ちゃんは、ずっと旦那様に押さえつけられて、自分も周りも見えなくなってしまったのね。あの子が苦しんでいるのは、もしかしたら私にも原因があるのかもしれないわ」


「ハンナさんに原因、ですか?どういう事か、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「私、旦那様にある日突然、屋敷を追い出されてしまったのよ――」



 ハンナは紅茶のカップのふちをなぞりながら、自分とテオ、そしてブラスト侯爵家について語った。



 テオの父――アレフ・ブラスト侯爵は、強硬派の貴族家当主らしく、他人を力と恐怖で支配することを好んだ。


 逆らうものは容赦なく全て切り捨て、弱さを何よりも嫌う人だったらしい。



 自分が父親や祖父にされてきた支配的教育を、息子であるテオにも当たり前のように行った。

 

 ブラスト侯爵家の伝統的な思想を徹底的にたたき込み、意に沿わない行動や人らしい感情を一切排除しようとしたのだという。


 

「旦那様がいくら偏った教育をしても、坊ちゃんの人柄の良さは変わらなかったわ。もともと、根が思いやりのある優しい子なのよ。きっと、奥様に似たのね」


 カップのふちをなぞりながら、彼女は言葉を続ける。


「旦那様に行動を監視されているせいで、身動きがとれない奥様に頼まれて、私がずっとテオ坊ちゃんの母親代わりを務めていたわ。でも、ある日突然、私は旦那様に屋敷を追い出されてしまった」



 ハンナはテオが心配で、一目会うため何度も屋敷へ通ったという。


 遠くから姿を見守るだけでいい。


 声が聞こえなくても、話せなくても、二度と会えなくても。

 

 大切な子供が、怪我も病気もせず毎日笑っているのを確認出来れば、それ以上何も、望むことはなかった。



「でも駄目だった。私は完全に出入り禁止。しばらく帝都にとどまって会えるのを待っていたんだけど、無理だったわ。そのうち私は今の主人と出会って、貿易商の妻として色々な国に旅立つことになって……。結局あれから一度も、会えていない。別れの挨拶くらい……言いたかった。本当はもっとお側に……いたかった」


 両手を握りしめ、うつむきながら声を詰まらせて語るハンナの姿があまりにも辛そうで、こちらも切なくて悲しい気持ちになる。


 ソフィアは込み上げる涙を堪えながら話した。

 

「大切な人と別れるのは、とても寂しくて、辛いことです……。別れの挨拶も、ありがとうも、大好きだよという言葉も、何も伝えられなかったのなら……なおさら……すごく、すごく、悲しいです」



 耐えきれず、ぽたり、ぽたりと――白いテーブルクロスの上に、雫が落ちる。


 目を閉じて涙を拭くと、まぶたの裏に浮かぶのは、別れの朝の光景。


 住み慣れたクレーベルの屋敷の前に立ち、いつまでも手を振って自分を見送る家族の姿だ。


 

 テーブルの上で思わず握りしめていたソフィアの手の上に、そっと優しくハンナの手が重なった。


 水仕事で荒れて固くなった皮膚が、彼女の今までの波乱に満ちた人生と沢山の経験を物語っている。 

 温かな手だった。


 

 顔を上げると、穏やかな彼女のほほ笑みが視界に広がる。 



「ソフィアお嬢さん。あなたに一つ、お願いがあるの。テオ坊ちゃんに伝言を頼めないかしら」


「はい、もちろんです」


「じゃあ、こう伝えてね――」


 ハンナは目を閉じて、テオの姿を想像しながら言葉を紡いだ。


 それら一つ一つを紙に書き記し、ソフィアは大事に鞄にしまった。

 

「必ずテオ様に、お届けします」


「ありがとう。お願いね」



 ソフィアは少し考え込むと、「私も、テオ様のために、ハンナさんに協力してほしい事があるんです」と話を切り出した。


 彼女はこちらの提案に少し驚いた後、泣き笑いを浮かべて頷いた。




 二人揃って店を出ると、先ほどまで夕焼けに彩られていた空には、すっかり夜のとばりが下りていた。


「では、今日はこれで失礼いたします」


「お茶に付き合ってくれて、ありがとう。あなたに出会えて良かったわ」


「私も、ハンナさんとお話し出来て、本当に良かったです。それでは、おやすみなさい――」


「ええ、おやすみ」



 彼女に背を向けて数歩進んだ所で「ソフィアお嬢さん!」と名を呼ばれ、振り返る。


 ハンナは目尻を下げ、穏やかな眼差しと表情で言った。


「あなたは優しくて温かな人よ。決して無力なんかじゃないわ。人を思いやれる気持ちは、かけがえのない宝物。どうか、その綺麗な心をなくさないでね」


 澄んだ想いと言葉が、すっと心に沁み渡る。


 ソフィアは、ほほ笑んで「はい――」と頷くと、今度こそ二人は別々の帰路についた。


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