第7話 カグヤのいえ


──窓を開けると、空には一面青の空が広がっていた。じつに良い天気。


 私の住む44街の朝が歪み始めたのは、ちょっとまえ。

あちこちで過疎化が進み労働力の確保が難しくなり始めていたことを受けて、超恋愛世代の生き残り…………私より、前の前の前の前の前の前の……とにかくちょっと昔の世代の大人が決めてしまったのが『市民は全員恋愛をしなくてはならない』というものだった。

 昔、私は『椅子』に恋をした。

しかし、当初、44街はそれを恋愛として認めなかった。理不尽な迫害にあって条例違反とまで言われた。条例を守ろうにも、相手が人でなければ無いも同然だったのだ。

 最初は殺されかけたり、役場に笑われたり、周りの人にも、相手が人間じゃないってだけで笑われたり差別されてきたけれど、今では良い思い出。

人と物も通じあえるってことを、世界は今、ようやく理解している。


■■■■■年、

 椅子だけじゃなく、すべての物に対して恋愛が正式に認められ、パートナー制度がようやく確立された。



──今日も椅子と私の幸せな日が始まる。



「ねぇ椅子さん、何処に行く?」


──ガタッ!


まだ寝ぼけている椅子さんを起こしに部屋に行くと、椅子さんが照れくさそうにベッドから起き上がり、返事をした。寝ぼけているらしく少し慌てているような返事が愛しい。


──ガタッ!


「おはよう」


──ガタッ。


寝癖がついていると椅子さんに言われて、慌てて頭をおさえると、ぴょんぴょんと髪が跳ねていた。


「わ、ほんとだ! って、そんな笑うことないじゃない!」


 思わず椅子から目を逸らす。

ざらついた木の肌が、白いシーツに映えてなんだか眩しい。


「……なんか、変だな、いつも通りの朝で、いつも通りに椅子さんが居るのに、何か大事なことを、忘れている気がするの」


──ガタッ。


「ううん、なんでもない!」


扇風機が首を回す。風が肌に当たる。

「あー、すずしい。今日も、暑いね!」

誤魔化すように風を受けて、私は苦笑いする。何でだろう。こんなに幸せなのに、変なことを考えてしまった。



 44街にある私の家。三重の鍵を開ける先にある私の部屋。

ごちゃごちゃと壊れたラジコンとか謎の人形とかが本棚に乗っかり、くたびれてあちこち継ぎ接ぎされたソファーがあって、はだか電球風のライトがついている落ち着く空間。


──ガタッ?


椅子さんが心配そうに見上げてくる。


「──本当になんでもないから……ただ……ちょっと昔を思いだしちゃって。ほら、二人で街を歩いていたら、

爆笑した、とかって指をさされたやつ……椅子と人間が居たらそんなにおかしいのかって椅子さんが怒ってさ」


あれは信じられないよね、とべらべら話す私を見透かしたように、そっ、と触手が伸びてきて目元に触れる。

心配そうな椅子さんと目が合う。


──ガタッ?


「ありがとう、大丈夫だよ……」


自分の好きなものを、自由に好きに、嫌いなものを自由に嫌いになることが、こんなに大変だなんて……あの頃は思いもしなかった。


「私は、人間じゃない、人間じゃなくて、椅子のことが、好きなのに……って、なんでだろ、なんか、今、急に……言いたくなっちゃった」


朝ごはんはパンとご飯どちらが良いか聞きながら、台所へ向かう。椅子さんもガタッと言いながらついてくる。


「あ、だめだよ、まず顔を洗って来ないと……!」


──ガタッ。


「椅子さん……」


椅子さんが洗面所に向かう。

気にかけてくれている、早くいつも通りに振る舞わなくては、と服の裾を腕まくりして朝食準備にとりかかる。

 直後、バターン! と倒れる音がして廊下に飛び出た。

そういえば、椅子さん用に靴下を縫おうとして買ってきた布類を出しっぱなしだった……

「椅子さああん!」




 椅子さんは幸いにも軽く転んだだけで、無事だった。それだけなのになぜだかひどく怖かったし、安心した。


「椅子さん……」


椅子さんが、クスクス笑う。


──ガタッ。


「し、心配に決まってるじゃない!」


──ガタッ。ありがとう。


「どこか、痛く、ないの?」


──平気。


人間にはない、ひんやりした感覚の肌に触れる。傷は、無さそうだ。


「じ、じゃあ、朝ごはんの準備に戻るから!」

少し恥ずかしくなりながらも、台所に戻る。相手は椅子、わかっていても、椅子は椅子として素晴らしい表情を見せていて、私には人間以上に魅力的だった。

 再びなにかを誤魔化すように冷蔵庫を開け、まな板にのせた野菜を刻む。


「椅子──椅子──椅子さん……」



家が炎上したとき、身を呈して私を連れ出して、説得していたことがあったっけ。


人間との対話が辛いなら、椅子でいいじゃないかと、励ましてくれたりもした。

あれは何よりの支えだった。

出会ってすぐに、椅子さんは誰よりも大事な人になっていた。


 椅子さんと私に割って入ろうとしたヨウさんも、対物性愛者だったから過去の自分と重ねてしまったと言っていたっけ。

トントントントントン。

野菜を刻む音が辺りに響く。


「人間以外に好かれて、椅子さんと会えて、私初めてこんなに幸せになれたよ──」


トントントントントントントントントントン。包丁がリズムを刻む。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 そーっと廊下に出て聞き耳を立てる椅子に、市長の挨拶が聞こえてくる。

ウォール作戦は知っている。

総合化学会や一部の権力者が失敗『させた』作戦だ。

「残念ながら、大樹を伐採し直接街に用いても、なんの効果も得られなかったことは悔やまれますが……あのときは助かりました」

「壁ごときでは、人類が大樹の防壁の内部に立ち入るくらい出来たこと。元から守れなかったのよ


「…………」


 キラキラしたクリスタルの粒子が、椅子の周りで輝く。

市庁舎の周りにクラスターを発生させるべく、それは大気を漂って外へ向かう。



(──どうか……


この、非道で理不尽な接触禁止令のことを──)






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「ハハハハ! お前が生き残る唯一の方法は! 私に愛されることだ!」


 椅子のなかに、在りし日の情景が過る。

椅子が椅子になるよりも昔──まだ大樹だった頃だ。

 小高い丘の上に佇んで街を見下ろしていると、街の門の入り口で男が一人、ある女に絡んでいたのが見えた。


「もはや家も領地も指先ひとつで我が物。

お前が生き残る唯一の方法は! 私に愛されることだ!」


 いかにもそれが格好のいい言葉であるかのように卑劣で残忍な台詞を吐き捨てている。

 状況はどうやら、彼がどうしても欲しがった『宝石』が彼女のなかにしかないもので、その輝きを奪い取ることに目が眩んでいるということのようだった。

 スキダが視認されるこの世界において、

自分のクリスタルと、相手のクリスタルとのつり合い、輝きを見せびらかし権威にすることを考えるものも多く居るのである。

目が眩む、というのも自分にはない輝きをその権威に変えたいという欲求からだった。

 男はなかなかの領家の出で、ごく平民の彼女との身分は大きく違って居た。身に付けている服にもなかなかの勲章のようなものがつけてあった。

しかし彼女はそれを名誉には感じず、ただ屈辱のようにとらえると彼を睨み付けた。


「私は、そこまでしてあなたに愛されたくはありません。 あなたは人を見下している。生きるという権利が、俗物に劣るようなことをよくもぬけぬけと」


 彼女の『宝石』であるスキダというのもまた、その男個人に向けられて輝く類いのものではなかった。淡く澄んだ水色に輝いていて、他の結晶には大抵見られる、重く淀む(よどむ)ような濁りというものを感じさせない。

 しかし他とは違うということは、他とは違う感情を持ち得て初めて輝きを増すということである。

「お前のスキダは、他とは違う! だから、お前しかいない!」


 と言われたところで、それはあまりにも当然のことであり、他と並んで特別にされることがこれに限ってはありがたくないというものだ。


「そう感じられるのなら、『あなたと私は異なる生き物』という意味です! 自分自身に憧れの輝きを見いだす人はほとんど居ませんからね!」


 彼には、彼女が激昂する理由も、言葉の意味もよく理解出来なかった。

 特別とは素晴らしいことであり、自らがそれを認めて誉めているのだ、それを否定するなどと彼のなかにはあってはならなかった。


「どうしてもならぬのか……? 良いのか、家が、土地が、どのようになっても」


「それも困りますね。そういえば、月でしか取れない鉱石があるというわ……それを使うととても美しい耳飾りになると思いますの。まあ月まで向かう方が居るとは思わないけれど、せめて、それさえ見ることが出来れば」

 

 まだ宇宙どころか、ほとんど航空技術の少ない時代にも関わらず、男はわかった、と言って一度帰っていった。

 条件をつけているように見えるが、実際のところは断るところでプライドを傷付け、むきになられるのを遠ざけるためという判断だろう。


「……はぁ、空はこんなに広いというのに、人は皆、心が狭いですね」


 自分自身を含めて皮肉るように彼の背中に呟き、彼女は門の外に抜ける。

 背中まである淡く桃色の長い髪を靡かせ、一目散に丘の方に向かって走ってくると、壁を抜け、大樹の根元に座り込んだ。



「落ち着く──あなたの周りの空気は、なんて清々しく、透き通っているの」


──………………


「良いの。言葉などなくても。私は、ただ、スキダに本当は、美しさ以外の価値があるのではと、そう思います……あなたはその真価のようだわ」



──…………



「ふふ、そう思いますか?

本当は私、あの月から来ましたの」


──………………


「えぇ。本当ですとも。いつもあなたを照らし、守っている────何よりも大きな宝石。誰の浮かべたものだと思います?


人間は皆、あの星たちの、ほんのクラスターに過ぎない」








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『カグヤ』







 祖母が死んだ。


──今は、ただ、それしかわからないけれど、とにかく、死んだんだ、と思う。

 面会だけはしたけれど、本当に眠っているみたいだった。

ベッドにのせられた祖母の体は眠っているみたいだけれど、祖母の背中についている黒いキカイが、ごうごうと音を立てて死体を清潔に保っているから──やっぱり死んだんだと思う。そういえば、近付くとかすかに、死体の特有の臭いがする。


 死体を見たのは、ずいぶん久しぶりだ。


 数日置いてから葬儀のために色々とあるらしい、けれど、とにかく、なんだかわからない疲れとかで、病院を抜けた私はただ呆然としていた


「──おばあちゃんは、熱心な信者だった、なのに……」


 急に様態が変わるような持病はなかったような気がするのだが、確かに歳とは言え、こんな不安定なタイミングで亡くなるのが信じられない。

すっかり日が沈み始めた道は暗くて、私の不安を煽っていた。


「急に、いろんなことが起こるなんて、私が──リア充撲滅運動をしていたからなのかな……邪魔に、なった?」


 これであの家には家具屋の祖父と私だけになった。祖父ももうかなり高齢者だし、祖父を支えていた祖母が居ない今となると、家具屋のほうも祖父もなんだか心配だ。

 心配、と言うより、危惧というべきなのか……?

なぜだろう。

なんだか、いやな予感がする。



 病院を抜け、坂道を下り、道なりにふらふら歩いていると、近くの電気屋のビルに人だかりが出来ているのに気付いた。

「なんの騒ぎだろ?」


 遠くから伺ってみたところ、テレビモニターに大写しになった市長が、異常性癖の持ち主の住所や名前を勝手に発表している。

 集まった人々は勝手に決めるなとか許可なく個人情報を公開してまで訴えることかとか口々に批難する。

確かにこんな無理矢理に個人情報を晒すなんて正義でもなんでもない。

相手は善良な一般市民だ。多くは犯罪をしたわけでも国民の税金で雇われた連中じゃないのに。


「え? え?」


人を、誰かを、愛しましょう、それは思いやり、幸せを享受する為ではないのか、なぜ、こんな風に──


 途中で速報が流れた。

歩道に溢れる人だかりに近づいて、近くの歩道のブロックの上に乗って背伸びをすると、ギリギリ人々の頭越しに速報が見えた。


『きこさんが殺害された事件で、馬路容疑者は『恋人にしたいからやった』と容疑を認めており、異常性癖の持ち主と見られています』



 私が祖母と別れている間に、何が起こったのだろう。

寒気がする。おぞましい何かが背後に見える。やっぱりいやな予感がする。速報が次々に流れたが、どれも事件に異常性癖が絡んで居た。


『増える異常者、この課題に44街はどう取り組むか──この時間から討論していきたいと……』


どうして、こんなものを平然と映して居るのか。テレビが訴える国民って誰のことなのだろう。

わからない、なにも、わからない。

こわい、こわい、こわい、なんだこれ。どうしてこんなことになっているのか。

 走って家に向かう。


 途中、サングラスをかけた大柄の男とすれ違った。喪服にも見える黒いスーツを着て腕に数珠を巻いている。片腕が特殊な義手らしく、金属のような固い音がしていた。


「お嬢さん、この度は、残念でしたね。御悔やみを申し上げます」


「あの──」


「私、カグヤのお祖母さまには、お世話になったものでしてね……」


サングラスで表情 はわからないけれど、少し目元が赤い、ような……泣いているのだろうか。

でも──


「どうして──まだ、何も知らせを出していないはずなのに」


「おっと。これはこれは。先ほどお祖父さんにお聞きしたんです」


「祖父が?」


「では、失礼します」


男は一礼すると足早に横断歩道を渡っていく。咄嗟にあの、とか待って、とか呼び止めそうになったけれど、そのあとなんて言えばいいかわからなくて、ただ、立ち尽くしていた間に、距離だけが開いていった。



 なにを確かめたいのだろう?

なにか、なにか大事なことが──

 引き返して病院の方に向かった。




中に入ると、走らずに急いであちこちの受付を探す。

「……お祖父ちゃん」

ただ、聞きたい。

あの男は誰──

さっき、此処に来たってこと?

なんだか、いやな感じがする。

 トイレにでも行っているのか、パッと見た限り祖父の姿は見つからない。



 廊下の向こう側に、担ぎ込まれる誰かが見えた。

 体に数ヶ所穴が空いて血が出ている男性が止血を施されながらどこかに向かっていく。まるで映画かなにかで見た、爆発か銃撃でもあったときの怪我人みたいだ。


 背後で待合室のテレビが、速報を流す。

『44街で爆発がありました』

『恋人届をまだ提出していない44街の女性が行方不明になっています』


ニュースが異常性癖の持ち主に集中している。こういうときは、何か裏がある……気がする。

 ぽよぽよと歩いてくる患者とすれ違う。病室で着せられる服を着たまだ幼いスライム。


「いけませんねぇ、実にいけませんねぇ」ぶつぶつ呟きながら、車椅子に座ったゴブリンが付き添いの人と会話をしている。咳き込む人間、熱を測る人間。


「さっき、爆破があったらしいよ」

「どこら辺?」

「すぐ近く」

誰かが噂を始めると、たちまち広がる噂。


「思ったより異常性癖を持つ人や、恋愛を望まない人が居たんで、やけを起こしとるな」

新聞を広げながら、どこかの老人が呟く。強制恋愛政策は表向き高い支持を得ていたけれど、いくらかの人々はどうしたって気持ちに嘘をつけない。仕方がないことで、これが真実だった。


 (この不穏な空気に触れていたら、叫び出してしまいそうだ。めぐめぐ……みずち……みんなに、会いたい……)


 祖父が見つからないし、だったら降りて、家に向かおうと改めて玄関の方に向かっていると、祖父の声がした。

「おぉ、そっちに居たか。トイレに行ってたんだ」


 少し悲しげではあるが、落ち着いた声で話す祖父。

私は単刀直入に質問した。


「ねぇ、さっき、サングラスをかけた義手の人とすれ違ったんだけど」


「あぁ、幹部の……」


「え?」


「お前、それは学会の幹部だぞ、婆さんが亡くなったって、どこから聞いたんだか挨拶に来ていた」


「お祖父ちゃんが、幹部の人に言ったんじゃないの?」


「さあ知らん。救急車とか来てたから、なんか目立ってたんじゃないか?」

「そうなんだ」


(お嬢さん、なんて、まるで私を把握していると、遠回しに圧を かけているみたいだった……)

胸騒ぎを誤魔化すように、手続きが終わったかを聞く。祖父は大体はなと言った。


(わざわざ圧をかけに来たことが、何か意味を持つのだろうか、それに……めぐめぐは、接触禁止令をかけられそうになっていた、まるで誰かが後ろから手を回して居るみたいに、不自然なことが起きてる……)


 そっとポケットから出した端末を開く。みずちと何回かやりとりしたメールの返信が来ていた。接触禁止令は回避したらしいがまだまだ不安があるのだという。

 ひとまずは良かった、けれど、確かにこんな速報やニュースを見せられている44街の人々に平穏はまだ戻らない。


圧をかける理由があるとすれば、私が学会に反対してることや、あの子たち──悪魔と呼ばれて偽物を用意されて迫害されていたあの子たちの真実……学会やカルトがのさばる裏では罪のない子たちがあんな扱いを受けていたと私たちが知ってしまっていること、それとも恋人届を出さないこと、いろいろなことが脳裏に浮かんでくる。


 私まで、口封じする気なのだろうか……けれど、あの日を後悔したことはない。

迫害が起きていて、誰かが裏で消されている。誰かが戦っている。

 関わってしまったからかもしれないけれど、目の前にその現実があってもなお、見て見ぬふりをするだなんて、きっと私には出来ないだろう。

だったら、最後まで戦う。



「ごめんお祖父ちゃん、ちょっと友達んとこ行って来る!」


 会話を切り上げて、とにかく外へと急いだ。





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「俺のスキダは────あいつと共にある。だから、発現しない」


「どういうこと?」


「誘拐、されたんだ……行方不明だが、犯人はわかる」


「誰なの?」

私が聞くとアサヒは少し悲しそうに答えた。


「恋愛総合化学会」


驚き、はしなかった。

他の人もそうだったのかもしれない。


「まだ、ハクナの活動をそんなに力入れてなかった頃に、嫁市場って闇市場が出回ってて、それがハクナが隣国と手を組んでるってずっと言われてた」


カグヤが真剣な顔つきになる。


 それにしても目から鱗が落ちる。スキダ、発現しない要因は、相手が行方不明ということ。好きな相手の存在がわからない場合に、うまく現れないことがあるだなんて。

「誘拐に、手を回してたってこと?」カグヤが聞く。

学会員が、とは彼女は言わなかった。

「なんで、関係あるみたいに言うのよ」

「彼女は、44街に、突如恋愛総合化学会みたいなのが政治のバックにつく前から、強制恋愛に、反対していたんだ──

そして、対外的な要因で恋愛的判断に狂いや乱れが生じる、今でいう恋愛性ショックが、

病気である可能性について論文を発表していた。

やつらが動く動機は充分あった」

「私の、病気だ……」

女の子が、目を丸くする。

「その人って」

「マカロニって名前だったかな」

 女の子の瞳から、雫がぽたぽたとこぼれた。

「お──おかあさ、ん……おかあさん……」


「おかあさん、マカロニさんなの?」


カグヤが聞くと、女の子は首を横にふる。昔っていってたから確かに時系列があわない。

「でも──わかる……おかあさんは、たぶん、そこにいる……」


 あの日、爆発した家の瓦礫の下から、彼女の家族は見つからなかった。だけど彼女は直感したのだろう。彼女の母親も活動家で、同じ病気の話をしていて、ハクナに目を付けられていたのだから。

 爆破された家、さらには観察屋があそこまで執拗に、私の家を見張り、探り続けていることも含めて、そこまでするハクナに可能性が充分あることを感じ取っている。

「なんで? その論文がなぜ狙われるの」

カグヤが首を傾げる。

「恋愛総合化学会が、

恋愛を感情論だけで謳っているからだ」 









──速報です。

椅子との届けを出しにきた女性に対して全国に向けた画面の前で笑ったことについて、市長が謝罪しました。


 目が覚めたときに見たのは、視界の、遠いところで起きている火災と、なにやら騒がしく出動してる消防車。

さらにビルの大きなモニターにそんなニュースが映っている、不思議な光景だった。

……いや、意味がわからない。そもそもどうして自分が眠って居たのかもわからないし、あの速報もわからないし、なにもわからなかった。


「……うぅ」


身体を起こそうとして頭痛に呻いた俺に、誰かが声をかける。


「あ、気がついた」


「ゆっくりでいいんだよ、ゆっくり、起きて……」


複数の、人の声。

 この声は確か……改めて意識を覚醒させると、目の前を歩いているみずちと、めぐめぐが目を覚ました! とはしゃいだ。おはよう、とそれぞれが挨拶してくる。


「あぁ……おはよう」

そこで再び、ハッと気が付く。

「そうだ、あいつは!? 俺は、どうして、こんな……」


「いったい誰に謝罪してるのかしらね?」 

急に、自分のすぐ下から声がして、思わずうわああああと情けない声をあげる。


「あら、私が担いであげたのに。おはよう、アサヒ」


「お、おは……よう、ございます」


万本屋の背中から降りて、改めて目の前の44街を見る。


「あのニュースはね、今、恋人届けを出さなかった人を対象に、異常な性癖を持っていたり、種族が変わってる人々を市長直々にさらしあげてるの」

「はあ!? なんでいきなりそんな──民の反感をかうようなまねを」 


椅子との届けを出しにきた女性に対して全国に向けた画面の前で笑ったことについて、市長が謝罪しました、という速報を改めて思い返す。


「あいつ、44街と、和解できたのか?」


「勝手に騒いで勝手に謝罪してるだけ。だってあの子──まだあのなかに居るんだよ、市長に会うなんて出来るわけないじゃない」


めぐめぐが少し怒ったように答えた。

……あのなか、ぼんやりと記憶が戻ってくる。

そうだ、確かに、俺が意識を失ったのもあの市庁舎の前に向かったあたりからだ……


「さらしあげて、今度はちょっと度が過ぎたものは形だけ謝ってるとこ。あっきれた……」


 よく見るとちらほら画面に集まって来ている民の輪の中心や、視線の先──44街の恋人届担当職員、そして44街の恋愛推進委員会とかいうなぞの委員会の人たち数名がテーブルを囲む姿が映し出されていた。

『 緊急事態宣言です。

今後、恋人届けを出していない者は理由を問わずに発表していきます。

異常性癖や嗜好があっても、

44街の担当審査員によって、社会的影響が出ることが認められるほどのハードさである、と認めなければ

公表していきます! 強制恋愛条例ですので、恋人届けが3ヶ月以内に出されない場合はこちらから強制的に相手を指定させてもらいます!』



「しばらくは、謝罪ラッシュが続くかな……まあ、最初から今に至るまで、茶番しかやってないわけだけど」


みずちが苦笑しながら言う。

続けて、端末を見せてきた。

「……ところで今、さっきからこそこそと連絡を取り合っていたカグヤから連絡が来た。学会幹部と見られる義手の男と接触したらしい」



「……義手の、男──」


何故だか、胸騒ぎがする。

幹部。義手の男。

それだけじゃないか、まだ、奴だとは決まっていない。なのになんだこの落ち着かない気持ちは。

_



 もしも、もしもその義手が『キムの手』だとしたら――!!

この暴動も『あいつら』が扇動してたのだろうか?

 カグヤの祖母のことも、もしかすると――椅子や俺たちのことを嗅ぎ付けて、情報を知るものを減らすために……?

ありえない話ではない。

だが、そうだとしても、カグヤに接触するのは何故だろう。俺達をかばったから?

カグヤに何かあるのか。それとも、学会への抗議活動が目をつけられているというのも有り得るし……


 黙り込んで居ると、せつのあの悲痛な声を思い出した。


――痛みだけでも!!痛みだけでも刻んでやる!!彼女のなかに!!私を刻んでやる!!!

痛みだけでも!!!私を見なさい!!忌ま忌ましい悪魔!!


 それは狂気だった。まるで彼女に成り代わることに生涯をかけているかのようにあまりにも強い執着。

孤独が彼女に与えたのは、それほどまでの虚無感だったのだろうか。

けれど、同情するほどにせつに、いや、アーチに関わることなど知る由もない。

そしておそらく、そのほうが良いのだろう。無駄な情は結局誰のためにもならないのだから。



「あ、そういえば、せつは」


「居なくなったよ。でも、たぶん、悪魔、を諦めていないと思う……」

ぼそっ、と呟いたのはみずちだった。

「悪魔の子――」

万本屋北香が続けて言う。そういえば彼女は悪魔の子、について何か知っている様子だった。

「なぁ、気になっていたんだが、悪魔の子のことを知っているのか? あれって、ほとんど表に情報が出ていない――」

「えぇ、知っている」

 万本屋は間髪入れずに答えた。外で、またけが人が出たらしい。近くの商店から、腹を抱えた男性が担架に乗せられて運ばれていくのが見える。パトカーが数台側をすり抜けていく。

「悪魔のことも、薬のことも。だって、私も抽選に応募したことがあるから」


「抽選……? 何を、言っている」

いきなり福引か何かの話題だろうか?

 ぽかんとしていると、警戒するように辺りを見渡しながら、万本屋は小声でこぼした。


「抽選は、希望者が多いときね。普通は、面接、そして採用」

だから、何の、と言おうとしたとき、彼女は周りを気にしながらも続きを話した。


「今は、あるか分からないけど、学会関係に、スパイ組織であるネオ・コピーキャットっていう会社があって私もそこの企業に応募したことがあるの。その、お金が欲しかったから」


「……」


「隣国を中心に集まった人々が、オーディションによって選ばれて、成り代わりの偽者として指導され、多くの著名人になっていった。悪魔の子の代わり、つまり時期の影武者――代理と言っていたっけ、それとして日本に送られる子も居た。

するのは勿論潜入と、情報操作。保険会社もそこの伝に過ぎない。

そのバイトのときに、聞いたのよ。あの家の子は代々悪魔が生まれるって」


「成る程な。密かに潜入して情報を操作し、首を切って成り代わると地位や名誉をリサイクルしていた……それが、本当の、クロだったのか」

脳裏に過ぎるのは、彼女、の家族だった。彼女の家族はクロによっておそらく成り代わり、居なくなったのだという。


「さぁ。一体化しているところもあるし。信じるかは貴方たち次第。」

万本屋北香は、ふうっと長いため息を吐いて言う。

「ただそのバイト、私は不合格だったんだけど」


「そうか……」


「演技にコケて成り代わりに失敗した私に、しばらく、恥をかかせないようにっていって、必死に人を動員して、評価を集めてくれたり、推薦署名を作ってくれた、採用担当の西尾さん達が……懐かしい。もういい私が悪かったから、成りすましなんかもともと向いてないんだから、って大泣きして断ったな。それでもしばらく万本屋北香の悪魔を推してくれていたんだけど」


今でも、せつになにかあれば万本屋に召集がかかるかもね、と彼女は朗らかに言う。アーチがやけに彼女のことにこだわっているのは体感した通りの事実だが、その会社としてはひとまず、彼女本人に成り代われさえすれば良いという部分もあるのか。


「でも、どうしてそんなことを教えてくれるんだ」


「……わからないの」


「え?」


万本屋は悲痛な笑顔を向けた。めぐめぐたちも黙っているが、聞き耳を立てているらしい。けれど、万本屋に視線が集中しないようにしているのか、背を向けて、車を背にモニターを眺めるようなしぐさを続けていた。

「もう、わからないの、あの場所がどこに向かおうとしているのか。学会は、恋愛総合化をいつしか盾にして、私欲に走るようになった。もう、私が知る頃の、あの学会じゃない……私を、みずちを、のけ者にした、あの日のクラスと、おんなじ……何もかもわからなくなってしまった。だったら、わずかにでも、自分の中の良心を問い直すしかない気がした」


みずちが少し離れたところから切なそうに彼女を見つめる。

「誰かを、想うことがいつからこんなに、崇高なものになってしまったんだろう……」

 恋愛を感情論だけで謳った世界が生んだ、彼女たちの劣等感や社会から隔絶されるような孤独。

それはほんのひとときの触れ合いで簡単に埋まるものではない。

 ある者は救済と理解を求め他者を殺害し続けた。ある者はすべての感情を投げ出し感情そのものを消した。何かを想う度に孤独な病に苦しみ続ける者も、自我を問われる苦しみから自ら命を絶った者もいる。今も、押し付けられる答えに苦しんでいる者もいる。本当に感情論だけで解決するようなものなら、両思いなどさほど重要ではないし、側にいる必要もない。番などと呼ばれる仕組みもそもそもさほど意味を持た無いだろう。


 アサヒが何か言おうとしていると、めぐめぐが近寄ってきて言った。

「あれ? 確か、あの人44街の神様は自分に近い孤独に触れられる者にしか心を開かない。『あの家』を、学会や街の連中が隠したのはその為だ。悪魔だなんて言って、掲示板や至るところにお触れを出してまで、って言ったじゃん?」


「……あの人?」


「あー、アサヒはあのときちょうど寝てたか……」


 めぐめぐはぽん、と手のひらを打って、カフェに居たときの話を簡単にした。

確かにそのときハクナの指揮の男が入ってきた、辺りまでは記憶にある。

コクったかとか聞かれたあと……確か、寝てたのか。

あの話って、なんのことだったんだろう。


「なるほどな――クロと、そのための、観察屋と、ハクナか。あの家に、代々昔から悪魔と呼ばせて張り付いている。なんとなく繋がりが見えてきた」


そこまで言ってから、すぐに、『彼女たち』のことを思い出す。


「おい! あいつらは……」


「だから、あの場所に居るままだってば」


めぐめぐがそのときの話とアサヒが倒れたことを改めて言う。

 そうだった、けれど、それって……

脳裏に浮かぶロボットは、どこか見覚えがあった。どこで見たものなのか、うまく思い出せないけれど、ずっと観察屋をしていた自分の記憶にあるってことは、おそらく学会関係の……雑誌か何かの撮影のときの記憶だろうか。

とにかくあんな兵器を、堂々と動かせるのは幹部クラスしかいない。なんとなく、だけれど、そんな気がする。

『キムの手』かはわからないが、義手の男はカグヤの方に居るとして――

他の、誰か幹部クラスの者が『彼女』に目を付けた? 冷静になって考えるととんでもなくまずい状況だ。

兵器、兵器……何かで見たぞ、何か……


「アサヒ、カグヤのところに行こう」


万本屋がぐいっと俺の腕を引こうとするのを振り払って、額に手を当てる。

「待ってくれ、もう少しで思い出せそうなんだ」

なんだっけ、なにか、やばいものだった気がする。


「そうだ、雑誌記者の南川の……」


 何年か前の雑誌のことを思い出す。

総合化学会は『呪いが出来上がる現象』を再現することに関心を持っている、というものだ。度重なる非人道的な実験を行い、現場再現をする装置を作っている噂があったのだ。

それで、全身にフィットさせて微弱な電磁波? みたいなのを発生させるスーツになるという話までは聞いた気がするが、それが完成するんだかしないんだかで、圧力がかかったのかぱったりと雑誌に載る話が途絶えていた。


(彼女達が心配だが、今の自分にはその再現空間?に入るすべがない……)


はっ、と顔を上げるときには、めぐめぐたちはさっさと車に乗り込んでいた。クラクションが鳴り、あわてて返事をした。

「今行くってば」



義手の男――!

 

 キムの手かどうか、確かめてやる。



(2021.0514.2215加筆)





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『器と人形』







「ふざけないで! おねえちゃんに何をしたの」


《交渉していただけだ》


「交渉?」


 《あの力は、本当に彼女の持ち物なのか?

違ったらもらい受けたい。

 すごく気になったから、孤独が生れた一番濃い空間を再現したまでだ。

これは私のものであるということを、彼女が示せなければ幹部の勝ち》


それは脅迫だ。


「力が欲しいから、嫌な空間を外から強引に開いて

無理矢理入らせたっていうの!?

それじゃあ、ここは……おねえちゃんの……」


《殺人事件の現場だ。

ここに、俺にあの力が彼女のものだとわかるような、そうだな、血のついた凶器じゃなくてもいいが、

ここから直接持ち出してくれればここを奪うのをやめる……かもしれないな!》


遠くからそっと壁越しにリビングの方を見る。

床のあちこちから根が伸ばされ、部屋の中ではどたどたと複数人の暴れる音がしている。相変わらずの荒れようだった。

時折、幼い子供じみた声が笑ったりはしゃいだりしている声もする。

「だーるまさん」「だーるまさん」


 リビングに近付くと、何かがどたばたと動き回る音が大きくなる。

やっぱり少し怖い、不安だ。

あのだるまさんも、わけがわからない。わけがわからないものは恐ろしい。あれらはなんのためにあそこに居る?

どうして、あれが居る?再現される空間にこんなものが普通閉じ込められるものだろうか?

 それでもポケットから顔を覗かせている人形は、無邪気に部屋を眺めているようだった。

人形……姫、と呼ばれていた彼女の。

 彼女の願い。それは、この空間でもまっすぐに輝いている。

 素直にすごいと思った。

彼女の願いが、彼女の力が与えたものは、過去から今にまでずっと生き続けている。背中を押している。

誰にも汚されない祈りの具現。

それは嫌いを否定し、嫌いと憎しみが溢れ変えるこの世界における神様に等しい。


「……なんだか、勇気が沸いてくる」


 そう。力はやっぱり、彼女のものだ。

 関わる相手の怪物化によって頼れる人が極端に居なかった彼女は、願いを紡ぐことでずっと呪縛から逃れて居るのだろう。


「──すこし、違うよ」


「──すこし、違うよ」


人形が、会話らしいものを始めたのでわたしはすこし、驚いた。


「違う?」


なにが、なのか、どこまで、なのか、わからずに聞き返す。


「祟りだとか、憎しみじゃなくて」

「そう、憎しみじゃなくて」


「……よく、わからないよ」


頭のなかで、それぞれがいっぺんに話す言葉を反芻する。


「怪物だらけで、彼女が人間としてまともに対話ができる人はほとんど居なかった」


「肉親もそう、誰も居なかったから」


肉親も──クロに消された、彼女の家族。家族、といっても彼女は、怪物と戦うことばかりだったのならどんな気持ちだったのか。


「でも生まれたときから、一緒に居るのよ」

「生まれたときから一緒に居るの」



──何を好きになっても、嫌いになっても良いんだよ。


「ああ、そっか」


何を違うと言われたかやっとわかった。わたしも、車さんが居なかったらパパの我儘な態度に耐えられなかっただろう。ママと──おかあさんと同じ病気を抱えて、ずっと生きてゆくことすら、耐えられなかった。

「じゃあ、あなたちが、彼女にとっての大事な人なんだね」


道具でも使役された式でもなく、

生まれた頃からずっと一緒に居る大事な人なんだ。だから願いに利用している道具のような言い方を否定した。



 今、に彼ら?のいる様子が見えて無いのは何故なのだろう。それも、何か意味があるのだろうか?



 わたしが何をしようと、恩なんか本当はなくたって、わたしを嫌いになっても、良い。

今度は、救ってみせる。おかあさんは救えなかったけど、せめて彼女は、わたしが。

 暗がりであまり足元が見えていなかったが、ふと下を向くと足元に投げられていた廊下を歩く為のスリッパが目についた。

──わぁっ!

愉快そうな声をあげて黒い影が飛び出してきて思わず悲鳴をあげそうになった。リビングに集中しているだけで、あれは何処からでも生れているらしい。


「び──っくりした……」


人形たちはポケットに居るまま静かに微笑んでいる。用事があるときくらいしか話さないタイプなのか。

 部屋の真ん中にどたばた走り回るのは男の子のような影だった。時折少年のような声が「……ぁ!」「だぁあ……」というように何やら話しているのかいないのか所々で聞こえるがあまり意味のない羅列にも思える。彼?の視線の先には一回り小さな影があり、彼から逃げるようにぐるぐると回り続けている。鬼ごっこをしてるんだろうか。キャハハハハと甲高い声が響く。

部屋中に張り巡らされた根を感じさせないほど、なにかを避ける様子はなく、まるで、すり抜けているかのように走り回るので、ぼんやり見ていると遠近感がわからなくなりそうだ。

 背後で、包丁?を振り回す男のような体格の影がが何かを叫び続けている。頭上のだるまさんたちはいつの間にか伸ばされた根によって釣り上げられ、首を絞めた状態になって浮いていた。

 代わりに、雨のように家庭用の刃渡り15センチほどの包丁が上から降っては消え、降っては消え、を繰り返している。

半狂乱になった髪の長い女の影が、引き出しのそばで「ない!」 「ない!」と泣き叫びながら暴れている。走り回る子どもの影が、時折降ってきた包丁で歪んで、顔を切り落とされて溶け、また生まれてを繰り返す。

「ない!」「ない!」

女の影が暴れている。走り回る子どもの影が、次第に血まみれになってあちこちに手形や形をつけていく。

頭上から包丁が降り注いでいる。

 だるまさんたちが首を吊られて天井にぶらさがって揺れる。

「ない!」「ない!」

「だーるまさん♪」「だーるまさん♪」


 部屋に──入ったまま、入り口で立ち尽くした。


「……っ!」


 《あの力は、本当に彼女の持ち物なのか?

違ったらもらい受けたい》


もらい受けたい、だって?

これを──?


《すごく気になったから、孤独が生れた一番濃い空間を再現したまでだ。

これは私のものであるということを、彼女が示せなければ幹部の勝ち》


「この家から──ここから、直接……」


これを、示せるかと、本気でそんな提案をしているのか。


走り回る黒い子どもと、目が、合う。 影、なのに、そんな感じがした。じっ、とわたしを見て、動きを止めたのだ。彼らはどこからか、小型のハンマー……トンカチのようなものを取り出して、にたっと笑った。


「ぁ───だぁあああ……ぁ!」


何かを言っているが、よくわからないが、殴りかかって来たことは理解した。

 わたしは咄嗟に背後に車さんをつかせる。

走りだそうとした瞬間、それがスイッチになったのか、いきなり包丁が実体を持ったかのような形に変わり、降り注いできた。

キャハハハハと高い声が響く。


「うわぁっ!」

 子どもに詰め寄られ刃物が床に突き刺さっていくなかでは、咄嗟に後ろに下がるしか出来ない。

子どもの影は包丁を気にすることはなく一緒に遊ぼうというように手招きしているが、入り口から外には近付いてこない。

「どうしようさっきまでと違う……!」


けど──



《殺人事件の現場だ。

ここに、俺にあの力が彼女のものだとわかるような、そうだな、血のついた凶器じゃなくてもいいが、

ここから直接持ち出してくれればここを奪うのをやめる……かもしれないな!》

血のついた凶器──もしかしたら包丁が、鍵なのだろうか。


「でも、こんなに降り注ぐなんて……」


──包丁、なら、台所か?

でもここはいうなら事件の後の場所だ。台所から包丁を持ってきても血はついていないだろうし、正解ではないかもしれない。

 部屋の奥には、ほとんど根に取り込まれている彼女の姿があった。

虚ろな目が宙を見ている。


「こ……わい……」


怖い、戦うと決心しても、守りたいものがあっても、何度決意しても、怖いものは怖い。


「怖い……」


 震えが再発しそうだ。からだが動かない。シミュレーションと違う。

自分の弱さに目が回りそうだ。


──好きになっても、

好きにならなくても、


「でもそれと、今と、どう関係があるの? 動かなきゃ、って思ってるのに──」


 ここまでの苦痛を強いてまで彼の決めた勝手で一方的な基準を満たさないとならないのか?

彼はこの痛みを背負うことすら出来ない、トモミからさえ逃げていて救えないのに、力だけが、結果だけが手に入ると思っている。


「うぅ…………」


痛い。悲しい。怖い。

あれと──対峙しなきゃならないのか。本当に、倒せるのだろうか。


『あ、姫だ!』


『久しぶり!』


ポケットから顔を覗かせている人形は、のんきにも遠くから挨拶なんてしている。


「無理! 近付けない! うぅ……」


思わず部屋のなかから目を背けてしまう。なんであんなに沢山いるんだ。いっぺんにあれと戦うなんて、嫌だ。怖い。こんな、自分が、一番。

  振り向くと、トンカチを手にしている男の子が女の子の影の頭を叩きつけている。

《お前なんか、死んでしまえー!》




「……なにを──やめて!!」



 好きなものなんか──なくなってしまえばいいのよ。

 男の子の影が、次第に根の形に変わっていく。

女の子の影も口からおびただしく血を吐きながら根の形になっていく。

 様子を見ているうちに、再び形を変えだした根は長く細くなり、首を吊れそうな頑丈な紐に変わると辺りに振り回すように揺れ始めた。

 あの影は幻だった。

けれど、どの程度までが幻?

本物みたいに見えるうちは、本物?

おいで、おいで、と子どものような声がする。

 あの紐が幻で誘っているのか。


《好きなものなんか──なくなってしまえばいいのよ》



 いや。最初から──この空間に強引に捕らわれた彼女を助けないと意味がないんだ。

でも……でも……遠い……

「ない!」「ない!」

引き出しに張り付いた女が、半狂乱になりながら何か探している。

「ない!」


「ない!」


女が引き出しを探し続ける横で、『医療保険・devil』とかかれたチラシがひらりと舞い、足元に落ちてくる。床で散乱していたチラシ類のひとつらしい。

「これ──このときから、ハクナは居た……そっか、そうか! わかった!」


 一目散に部屋を出るとわたしは玄関の方に向かう。人形たちはポケットから顔を覗かせているままなにも言わなかったが、どこか微笑んでいるみたいだった。

 玄関には乱心するヨウに戸惑う、二人のクラスターが居た。


《……イカナイノか?》

右側に居た一人が聞いてくる。

いくらか落ち着いていた。

《イカナイノカ》

左側に居た一人も聞いてくる。


「うん。わかったの、わたし。帰る

から外に行かせて」


《ダケド──!》


 クラスターたちは何か言おうとしたが、ポケットの人形を見た途端になぜか黙った。


《──そう……》


わたしは、恐る恐る玄関から外へと向かう。倒されたプランターや植木、綿がはみ出た人形が置いてある。

 部屋に充満していた肉と油の濃い空気が少し薄まるだけで、すごく気分がすっきりする。ロボットがまだトモミと言い争っているうちに、わたしは走った。なるべく捕まらないように走って、走って、家の裏側に回る。


 そう、リビングのすぐ裏側の壁だ。一番、彼女に近い場所。

バカだなぁ。どうして気付かなかったんだろう。

すぐそばに行くことなんて、こんなに簡単だったのに。

 受け入れたくないものを無理に受け入れてまで、自分に合わない道を無理に使ってまで前に進むことばかり考えていた。

怖さから逃げないことだけに、プライドにとらわれていた。



 「お姉ちゃん!! お姉ちゃん、起きて!」


窓ガラスを叩いて、わたしは叫んだ。ガラスを叩いて、ガラスを叩いて……たら、らちがあかない。


「車さん、いい?」


車さんはなにも言わなかったが黙ってエンジンをかけている。

纏ったオーラの輝きが強まる。

「行くよ!」


腕を振り上げて合図すると、車さんは勢いよくガラスに飛び込んだ。

ガラスが散る。こうして見るとなんて脆弱なのだろう。

 根に捕らわれたお姉ちゃんにも、ここからなら、声が届く。


『目を覚まして!』

ポケットから人形が浮き上がり、

彼女に叫んだ。わたしも、叫んでいた。


「おねえちゃん!」


 何故か、ここにきて、抑えていた感情が溢れた。何度も涙をぬぐいながら、リビングに向かって話しかける。ロボットが何かやっている声がする。

 改めて見ると、根はほとんど部屋中に溢れていて、そのうち空間がわたしごとのまれるのもあながちあり得なくはないと思った。


「あのね。この子たちと……迎えに来たんだよ。

なにを、どれだけ嫌いになっても、わたしを嫌いになっても!

それは、悪いことじゃない!

わたしはとがめたりしない!

だから!」


なにを、言えば良いんだろう。

改めて考えたら言葉が出てこない。

虚ろな目が、彼女の痛みを、悲しみを伝える。


「うぅ……おねえちゃん、あのね……あの……ね、わたし……」


 うまく言えなくて言葉につまる。

ポケットから、ひらりと紙飛行機が舞って部屋の中に入っていく。


「あ──」


紙飛行機はふわりと広がって

根の側に降りると紙となり、宙に浮いた。その中から目映い光が漏れると、中で騒いでいた影たちがおとなしくなる。




ご無事でしょうか。

 辛い思いをさせてしまい、

何故わたしが来てくれないのかと責められているかもしれない、申し訳ありません。本当は直接伺いたいのです。

 しかしどうしてもどうにもならない事情があって、このような形で、人を通してしか空間に触れられぬ椅子をお許しください。

この紙はわたしの身体から出来ていますので、わたしの存在の一部です。


 空間に接触出来る形のわたしというのが、どうにか譲歩してこのような形というので精一杯でした。



 椅子は椅子として──あなたの愛する人として、誰が何を言おうとも、ずっと側に居ります。』











『ご無事でしょうか。

 辛い思いをさせてしまい、

何故わたしが来てくれないのかと責められているかもしれない、申し訳ありません。本当は直接伺いたいのです。

 しかしどうしてもどうにもならない事情があって、このような形で、人を通してしか空間に触れられぬ椅子をお許しください。

この紙はわたしの身体から出来ていますので、わたしの存在の一部です。

 空間に接触出来る形のわたしというのが、どうにか譲歩してこのような形というので精一杯でした。



 椅子は椅子として──あなたの愛する人として、誰が何を言おうとも、ずっと側に居ります。』


「あなたの……すきなもの、なんて──」


なくなって  ────


 自分の声で、ハッと気が付いた。

そういえば、朝ごはんのあとから何をしてたんだっけ。


「すきなものが、なくなってしまったら、椅子さんに会えない……」


無意識に声が震える。


「わたし──」


 椅子さんと、それから、アサヒや、女の子と、カグヤたちと……

短い間にもいろんな体験をした。

いろんな暖かい思い出があったはずだ。

 そうだった、私はいじめられてる椅子さんを追いかけて来たんだっけ。後悔はしてないけれど、せっかく来たのに椅子さんに会えなくなるのは嫌だなと思う。

今まで何をしていたんだろう?


「椅子さん……」


周りを見る。真っ暗な空間、見慣れたリビングが広がっている。

でも、あちこちに根が張られていてなんだか不気味だ。油や血みたいな匂いが濃くて、吐きそうになる。


「おねえちゃん!」


 身体が、足が動かず顔だけで振り向くと、傷だらけの女の子が、立っていた。

私は首を横に振る。


「その呼び方は、家族を思い出すから、あまり好きじゃなかったの」


 目を丸くしている彼女に、私は繰り返した。


「私は、ノハナ。月と大樹の血を引く母と人間の父のが交わった子よ」


「月と大樹の──え? っていうか、これもお姉ちゃんなの?」


「うん。月の光と大樹が子どもを作ったのが母なんだって。あまり信じてなかったけど、この身体を見る限りそうみたいだね」


「……」


女の子はぽかんと口を開けて唖然としている。


 「ごめんね……こんなことになるから、いつも笑ってなくちゃいけなかったのに」


私は苦笑と、本気での謝罪を込めて

謝る。

しかし女の子は初めて、私の前で声を荒げた。


「……いつも笑ってる必要なんかないよ!」


「え?」


「わたしこそ、ごめんなさい──戦いが、こんなに辛いなんて、思ってもいなかった、痛くて、痛くて……こんなに痛いのに、弱いからって、目をそらしていた、いつもこんなことばっかり、してたんだね、背負わせて、ずっと……」


 こんな不気味なところに一人で来るなんて、なんて勇敢な子だろう。

さすがはグラタンさんの家の娘というべきだろうか。でも家族の話が好きじゃない私は、どう声をかけていいかわからなかった。


「ありがとう。きっと、すごく、大変な想いをして迎えに来てくれたんだね、それだけで、うれしい」


「わたし、いつも見ているだけだったから」


「当たり前だよ。私は私の家の使命があるけど、あなたはまだ、学校に行ったり、遊んだりしなくちゃいけない」


「でも、決めたの、

これからは……わたしも、戦う!」


 あまり危ないことはしてほしくないけれど、そのまっすぐな目を見て、本気なのだと確信した。

止めたところで無意味だろう。


「ありがとう」


 感謝を述べて、改めて自分の身体を見た。身体中から根が張られている。別に痛くはないけれど、動けないのは動けない。


「ところで──なんだか、空間に耐えようとした身体が、随分と同化してしまって……るみたいで。

しばらくしたらもとに戻る、気がするんだけど……あなたも、私にされないうちに、此処からでたほうが良いよ。私、こんなだから」


「私にされる、って、どういう意味?」


女の子は悲しそうに顔を歪めた。

そんなに不安がるなんて、よほどこの先に何か恐ろしいものがあるのだろうか。彼女は、なかなか一人で先に行こうとはしなかった。


「そのままだよ。せっかく来てくれたところ、うれしいけど、ずっと此処にいたら、じきにあなたも私になってしまうよ──私なら平気。すぐ追い付くから、先に行って。

送ってあげられなくて、ごめんなさい」


「でも! この先も、あいつが……」


「そっか、そういえば、そとにはあのロボットさんが居たんだったね……まだ暴れてるんだ、不安だよね、わかった、じゃあ、しばらく此処で待っててくれる?」


不気味な場所ではあるけど、私がそだった場所だ。そこに、独りじゃない。なんだか変な気分になる。


「うん。その間、少しでいい、何か聞かせてほしい……」


「わかった」


なんの話がいいかな、と考えていると、女の子の服のポケットから人形が飛び出してきた。


──久しぶり!


──会いたかった!


「わぁ! 久しぶりだね!」


根元に降り立った人形たちは、相変わらず記憶のままの愛しい姿をしていた。

「まだ私のこと、覚えててくれてたんだ……感激だなぁ。物も、記憶力が様々だからさ」


「その子たち、此処に来るまで、魔除けというか──わたしを守ってくれてたの。たぶん居なかったらもっと酷い悪夢を見ていたと思う」

と女の子が頬笑む。


「そっか──良かった……この子たち、あの日を思い出すのが辛くて、タンスの奥にずっとしまって居たんだけど、やっぱり、再会も良いものだね」


「殺人事件、って聞いた。

これがあのロボットさんが──学会の幹部たちが、脅迫してまで、入りたかった事件なの?」


「──そう、そっか、幹部なんだ……

そっか…………どうしようかな、

どこから話せば良いんだろう。

前提として、私は、普通の子じゃないのよ。それは、母も同じで、その前もそうだと思う」


「うん……」


「──人を、愛する苦しみ、嫉妬、寄ってくる醜い穢れに耐えられなくなった先祖が、一度、か何度か、樹と結ばれた、うまく言えないけど、そこから血が別れていったのかな……そう、その前に、えっと……」


すうはあと深呼吸する。

なんだか、これから言うことを思うと、胸が痛くなった。


「私になる、って言ったけど──これも、うちの、変わったところで──ね……あの、昔話、でたぶん、そうじゃないかって思ったりしたんだけど、私は、神様と、対話しながら、ずっと、紡がれてきたの。これって、私の意識と神様が同時に居るのね」


ここまで言って、既に、話すのをやめようかと考えた。べつに無理をする必要はない。けど……


「だから……うちはずっと、男性が短命なんだ。結婚したってすぐに死んじゃう、それか、器が破壊されて終わり」


「器? えっと、だから、って、ことは──」


はっ、と女の子は察した顔をする。


「まさか……器っていうのは」


泣かないように、私はせめて、笑った。

「私、アサヒを巻き込みたくなんかない……アサヒが器になったって、きっと、耐えられなくなったら、また、殺しあいになってしまう……」


笑って、居たのか、わからない。やっぱり視界がぼやけてきて、気が付くと泣いていた。女の子が私を抱きしめる。あたたかい。木だけど。ぬくもりはなんとなく伝わる。


「器って、対話のための器よ! 

アサヒの精神を犠牲にして、死ぬまで、私が、ずっと、縛ってしまう。


──昔、私の母にも力が手にはいると勘違いした人が何人も言い寄って来たんだって……

今もその座を、狙ってる人が居るらしいけど、全部、死んだか、病んでおかしくなった。

修業でも積んだか、適正がないと無理よ。じゃなきゃ身体を乗っ取られて、精神が破壊されるのがオチだわ。

 バカみたいだよね、力だ力だって言って、みんな何にも知らないで寄ってくるけど、本当は、こんな──残酷な。たぶん、44街が悪魔だ、っていうのも……本当は──」


「違う。おねえちゃんは、人間だよ!」


「ふふ。殺人事件に、なってても?」


「え……」


「お父さんとお母さんはいつも喧嘩してた。俺が好きなのか、神様が好きなのか。俺は俺自身だ、って」


「……」


「当たり前よね……人を、愛するとはきっとそういうことだもの」


物心ついたときには、嫉妬にかられてほとんど怪物になりかかった父と、母の争いが、全てに及んだ。着るもの、見るもの、食べ物に至るまで──


「普通の家じゃ考えられないね、疑心暗鬼で、父の世界は、きっと、すごく歪んでしまった。

母もまた、そうだった。

自分が愛するもの全てを責められて、おかしくなっていった。

おかしくなっていったということは、どちらにも愛情があったのね。


──母が神様を責めることはなかった。

 神様って不思議なのよ、本当にあたたかくて、やさしくて……一目見るだけでスッと疲れなんて吹き飛んじゃうような……ずっと、守って居たくなるような、命に変えても、って人が居ても頷けてしまう。

 人間の感情じゃ言い表せないけど、私も、神様のこと、すごく好き。どうしても憎んだり出来ない。

神様はただそこに在るだけで、悪いことをしようとしてるわけじゃない。先祖が命がけで守って、一緒に暮らしたのも、尊いことだと思う」


「そっか……」


「でも、父はただの人間。選ばれただけで、他の価値はなかった。

案外周りの妬みや根回しがあったかもしれないね。

そして母の愛だけじゃとても父の孤独も補えない。神様はそういうものだから、だから──父は母を殺そうとしたのかな。

 此処はそれを見ていた私と、私以外の記憶が混じった場所……」


足元の人形たちと目が合う。

暗闇のなかでも、明るく励ましてくれている。少し気が紛れた。


「人形さんたちは、崩壊しそうな家の中でもずっと、私を気遣ってくれた。私は人間が怖かった。

 自分が一番に愛されようとしたり、それのために醜く争って、見るものも食べ物もさわるものも全てがその争いの元になって──そういう煩わしいのがないのよ、木や物や、死んでる相手だと、考えかたが違うし……神様が身を落ち着かせやすい身体でもある」


「えっと、わからないことと、わかったことが、沢山あるけど、幹部の話は」


「──あぁ、そう、幹部。

昔はきっと、あの44街の昔話が今よりは知られていたのだと思う。

 母は昔話の家の子として学会に目をつけられてもいた。どうにか取り入ろうと、器になろうと母に付きまとっていたのかもしれない。けど、母はもともと誰とも付き合う気がなかった。関わる人間を器にしてしまうことを自覚していた母は、

それがどんな意味を持つか知って居たから。家うちは、ただ取り入れば良いなんて生易しいものじゃなかった」


「でも、結婚したって」


女の子がきょとんとする。こんな愉快でもない話を真面目に聞いてくれるなんてちょっと変わった子だと思う。


「──そう。誰とも付き合う気がなかった母が、何度断っても、学会がいろんな手を使えば、外堀から埋まっていく。小さい頃はよくわからなかったけど今はなんだかわかる気がする。

偉大な力を手にしようとして、それがどんな代償を払うかまでは彼らは理解出来なかった。宗教家のくせに」














・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








『薬』



 その話を聞きながら、わたしは、ぼんやりと思い出していた。

それはうちに伝わるお話で、ママが小さい頃に読み聞かせてくれたものだ。



 ××××年のある医院ともないささやかな規模の診療施設の診察室に、ある女性の姿があった。その患者、薄い水色の髪の女性は今日で、何度目かの問いかけをする。


「あのぉ、経過は──どうでしょうか?」

彼女はある病気から具合がよくなく、ずっと勝手に体が暴れだしたり魘されたりに苦しんでいた。

 それは恋という難病──今で言う恋愛性ショックだったのだが、当時はみんな気の持ちようだと言って笑うのでなかなか病気として認められることすら珍しい。

 しかし彼女の知人に変り者の医者が居た。この話を聞いた知人の医者というのが、この話に興味を示し、やがて小さな製薬会社のツテで研究手伝いと治験を頼んだのだ。

何度も何度も治療と称してあらゆる薬の成分を試して数年の月日が流れたその日、彼女の体に良い変化が訪れていた。

「良好です。素晴らしい回復力ですよ」

 医者、と呼ばれる白衣の老男性はびっしりと患者の脳の写真の貼られたモニタからくるりと椅子を回転させて向き直る。そしていつになく目尻にしわを寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。


「本当ですか!」

彼女は、座っていた椅子から立ち上がり歓喜の声を上げる。

「ニギさんたちの──あのお薬のお陰です!」

「こちらこそ、協力をしていただいて、なんと感謝して良いか……」


治療がうまくいきそうだということから、薬に携わる医者と、彼女の被験者としての日々はまさに終わろうとしている。少しもの寂しくも、明るい毎日が待っている予感があったので互いに喜んだ。


「この研究がうまく運べば、世界中の病に苦しむ人間が救われるでしょうね」


「だとすれば、とても素晴らしい! 私も、こんなに健康的な気持ちは随分と久しぶりなのです。あぁ……なんだか、涙が……」



しかし、争い、マウントの取り合いというのは何処にでも存在するのである。


 難病を治す、それはときに偉大な功績として歴史に刻まれる重大なテーマだ。

製薬会社や、彼女の周り、医者にはどこから嗅ぎ付けたのか普段は表に出ないくせに、びっしりとマークしている組織があった。

 研究がうまくいくかには関わらず、病院のこと、研究のことというのを常日頃に盗聴する、いわばスパイ行為を常に行って居たのだ。

当時の44街のあちこちに存在していたその組織は、あらゆる会社に手を伸ばし、裏で操っていたと言われている。

現代でもひそかにクロと呼ばれているのもその残党だ。

隣国、カルト組織がその母体とも噂されるが詳しいことはわかっていない。


 薬は、彼女の健康状態をもってようやく成分がわかってきたという段階だったが、まだ様子見しなければならず、認可が降りる段階にいっていなかった。アレルギーなどが見つかる可能性、副作用を彼女以外からもよく検証しなくてはならない。


「うまく、いったようです!

」 

 そんな話はお構い無しに、木の上から医院を見守っていた一人が、双眼鏡から目を離して無線に呼び掛けると、「難病を治せる薬か──ふふふ。これがあれば、今よりもっと我が血筋が立派な病院を建てることが出来る」

と、ボス、は喜び、たちまち上空にヘリが飛んだ。

無線に答えた男が、証拠を撮影するために寄越したまだ若い観察屋が乗っている。


 研究や発明は戦いだ。

誰より早く、そしてしっかりと名を売ることで生き残る会社とそうでない会社が生まれていく。

 この段階からでもとにかく早く申請をしよう、先に特許をとったが勝ちと動き出した組織は、次の日には一人、医者めいた男を医院に尋ねさせた。


「こ・ん・に・ち・はー!」


「おや……? 今日の診察は終了したのですが」


時間外に来たその男は、明るくはつらつと挨拶するまだ若い男だった。がたいが良く、品の良いスーツを着込んでいる。

普段受付嬢が追い払うはずなのにな、と不思議に思いはしたが、受付嬢が1、2くらいしか居ない田舎の小さな施設のこと。のんびりとした場所柄だったので、こんなこともあるかと医者は彼にとりあった。


「いえいえェ~、わたくし、診察してもらいたいんじゃありませんよホォ! ただね、ちょっと小耳に挟んだんですけれどねェ~? あの、お嬢さんのお薬のこと……」


「はぁ、ええと? と言いますのは」


「あぁ、わたくし、こゆものなんですが……」


スーツの胸ポケットから名刺を出すと、男はある製薬会社の懇意にしている研究所の名前の名刺を見せた。


「お薬のことで、力になれたらと思って~、小林ちゃんとかからすごいすごーいっていう話を伺ってェ~それで、ウチからも支援させて欲しいなってことでして」


キャッ、と体をくねらせ、両手をぎゅっと握りながら乙女のような目で医者を見つめて頬笑む。


「はぁ……」

医者は勝手に話が漏れていることに驚き、呆れ、嘆いた。しかし、小林は口の軽い男だからな等と恨み言を思いながら、彼に向き直る。

「支援、というのは」


「特許申請を早めてあげるし、あと、口座に振り込ませて欲しいのホォ。うち、すごい気に入ってて~、他に取られるわけにはいかないじゃない?」


はい、これ、と

彼は手にしていた四角い鞄から今度はなにやら書類を取り出す。椅子に座っているままの医者のデスクにその紙を並べた。

「これは推薦書、これは支援の申請書。ここに、お名前と、口座番号、あと押印ね」


確かに、大企業の後押しがあれば宣伝効果も見込める。

販売するための研究となれば、費用だってばかにならないのだから、支援があるならそれに越したことはない。

 医者は少し悩んだが、小林も言うことだと思って、何より民のためを考えてみて書類にサインをし、印を押した。


「そのあと、だった……聞いたこともない会社が、治療薬を世に出した。けれど、ニギさんの名前は何処にもなかった……なにも、見つからなかった」


 ──某有名会社は、そうして生れて今日に至っている。けれどこれは、44街の民が知る必要はない。闇に葬られた、優しく悲しい物語。


「彼が、突然に病気を悪化させ死んだことだけが、明らかになった。医院は無くなり、どこに聞いても、誰に聞いても、真実はわからないまま。


 けれど、お前は、せめて覚えておいて──歴史に載るものが正しいとは限らないって、声を、上げられなかった人、声を上げようとした人が、本当はその裏に何人も居たんだということを」


ママ──おかあさんが、わたしに言い聞かせていたそれをぼんやりと、思い出して、思い出して彼女を見上げる。

いつも真実は痛くて、辛く、悲しい。


 力を──得ようとして、他のものを殺して、蹂躙し、支配して、それでも、変わらないものが、確かに残るものがあって、それはずっと続いていくのだと、そう思った。


「殺人事件なんか、関係ないよ、それは、あなたのせいじゃないから」

──

「そ……て」


説得のようなものを試みるみたいに、そんな言葉をかけるわたしの耳に彼女の、微かな呟きが聞こえた。よく、聞こえない。

近付いて、静かに聞き耳を立てる。

「なに?」


「あはは、そうやって……そうやって、私だけ助ける気なんだ。その手には乗らないわよ」


「え──」


「お願いだから早く、此処から出て行ってよ!!」


彼女が叫ぶ。

悲痛な声だった。


「私だけが助かったって意味ないの!! 私は、まだ……えっと……ごめん……」


彼女は顔を覆うことすらままならないまま俯く。


「……」


「あなたの心配をしているだけよ。

私自身は別に、何にも思っちゃいない。

悪役だって罵倒だってどうでもいい、その程度は安いものだわ……どう思われたところで今更失くすものなんかとっくにない、だって生まれたときから何も無いんだから。


そうじゃないの……

ただ、私が、嫌われなくなる世界が、恐ろしい、それだけ……だから……もう少し、あぁ、そっか、えっと…………うーん、そうだな」

 

彼女はぶつぶつと呟くとそのまましばらく考え込んだ。

 そうか、彼女はただ単に、自分が嫌われなくなる世界が恐ろしいから聞いたのだ。

そんな世界が存在することが信じられないのだろう。

 畏怖するか、軽蔑するか、単にそのために心配という名目で問いかけた。

話しかけないくせに、椅子さんだけ笑った、この街と同じことをするところだった。


「どちらみち、此処から動くにはまだ時間がかかるし、やっぱり、髪飾りや包丁を代わりに持って行ってもらうしかないのかしら……」

「ねえ、私だけ、って、言ったけれど──他に誰か、来ているの?」

聞いてみると、彼女はきょとんとして言った。

「ううん、最初から居るよ」


「最初から?


「そう、少し、お願いしてみるね……」


彼女はなにか祈り始めたまま黙ってしまったので、わたしはひとまず、会話を思い出していた。

包丁。髪飾り。


「あのロボットさんの脅迫に乗るっていうことなの?  自分の好奇心の実験のためにこんなことをしている人なのに……」 


足下を小さな足取りで人形さんたちがついてくる。


「さぁ、行きましょう!

まずは、虐待のあった凶器探しです!」


「次は、殺人の凶器探しです!」


「…………」


「早く、行きましょう!」


「ゴーゴー!」


「…………」


「やっぱりどんなふうに死んだか想像するのがいいのかな」

「どんなことがあったのか、想像するのもいいかもね」


「それって──ロボットさんに、納得するまで説明させて、理解してもらって、それで……そうやって、好奇心なんかのために晒し者になって───」


「大丈夫。国の認可くらい降りるんだよ」

「そうそう、このまま戻らないと、44街が被害に合うとき、誰も戦わなくなる」


 急いで急いで、とせかされ、わたしは歩く。

動悸が激しい。

目が回りそうだ。

急いで急いで、急いで、誰のため?

なんのため?



(5/2917:50加筆)



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