盛岡 「家屋」
目を覚ますとすっかり日は上がっていた。世界は昨日と変わらず青々とした空を見せ、涼しい風を吹かせている。
そんなことを呆然と考え呑気に干し肉をかじっていると、私は手帳をほったらかしにして寝ていたことに気がついた。干し肉をポケットにしまいながら、昨日手帳をどこに置いたか、風で飛んで行ったのではないか、と気が気でなかった。上着のポケットの中や、クワバラゴケの茂った地べたを探し回る。
すると、今にも屋上から身を投げそうにした手帳が、少し離れた辺りにあったのである。手帳はすでに半身を宙に投げ出していたが、貧弱な雑草に絡まっており、ページをペラペラとめくりながらくつろいでいるようだった。
それでも瞬時に焦りを覚えた私はそれを睨む。すると怖気づきでもしたのか風が止んだので、私は無闇に振動を起こさないようぬるぬると歩き、鋭い手つきで手帳を捕まえた。安心した私は干し肉をもう一枚かじり、水を飲みながら涼しい風を感じていた。
ところで私はクワバラゴケを少しこそぎ取ることにした。手帳によるとスカイフィッシュがこのコケを好むらしい。私は手袋をしながら、そこらにへばついている粘土質の土を集め、丸く固めた。そこに、こそいだクワバラゴケを載せる。そしてポケットから量の減ったテグスをとりだし、それでコケを固定した。これで餌を兼ねた苔玉の完成である。
これを四つ作り、ズボンのポケットに左右それぞれ二つずつ入れる。そして後ろを振り向くと、そこに何かがいた。ビクッとした後それをよく見ると、宙に浮く歯車だった。
今日はさまざまなことを試す日である。手帳に書かれたことが真実なのか確かめなければならないし、この歯車の使い方も練習しなければならない。そんなことを考えながら階段を降り、ビルの外へ出た。
そこには、昨日まではなかった巨大な塹壕のようなものがあった。よく見ると、鹿野座通りに沿うようにして、遥か先にまで穿たれた道が伸びている。コンクリートはめくれ、廃車や植物は端っこに追いやられて絡まり合っている。
私はその隙間を縫って塹壕の淵を滑り降りた。さまざまな土色が露出した道はきれいにならされており、なんとも歩きやすかった。そのため、私はそこをずっと歩いていくことにした。
昨夜ここを何かが通ったのだろう。地面を掘りながら進むような生き物だと推測できるが、そんな特徴の生き物は手帳にも書かれていなかったし、無論私も知らなかった。そんなことを考えながら歩いていると、顔を出した配管に足を取られることも多々あった。
五時間ほどが経ったであろうか、道はまだまだ先へと続いていた。そろそろ歩き疲れた私は塹壕から這い上がり、どこか休める場所がないか探す。すると、廃墟と化した一軒家やハイツなどの上から、赤い鉄塔が天をついて伸びていたのである。
それを見た私は、鹿野座通りから脱し、横道に入る。そして、自転車屑や瓦礫をジャラジャラと踏み鳴らしながら、緑のフェンスが囲む鉄塔の真下へとやってきた。
今にも崩れそうなのは屋上から見た時と変わらない。しかし近くで見るとそれはなかなかに立派な建物に見えた。複雑に組み上げられた無骨な鉄塔の麓には何もなく、ただただ灰色のコンクリートが広がるだけだった。もちろんこんな場所では休憩できず、私はその付近にあった一軒家にお邪魔することにした。
道に面する玄関扉の横、門灯が乗っかった部分に灰色がかった表札があり、そこには「伊丹」とあった。そういえば私の師範も伊丹と言う名前であったのを思い出す。
師範は私にさまざまなことを教えてくれた。戦闘のことや異形の知識、そして人外のことも。
人外とは、崩壊の影響を受けた人がおぞましい力を持ったものであるらしい。身長や体躯の異常な発達や、それに伴う身体機能の暴走が特徴的であり、要塞壁の外に出る寸前まで、奴らに出会ってしまった場合は必ず逃げること、と念を押されていた。今思えばあの時の人骨は人外の成れの果てだったのかもしれない。
私は薄い引き戸に手をかける。やはり立て付けが悪く、力づくでなんとか開けようとしていると扉が外れてしまった。尻餅をついてしまった私はそれをそっと壁に立てかけ、低い玄関を潜っていった。
日のあたりが悪いのか家の中は薄暗く、私好みの寂しげな様子だった。玄関から直線に廊下が伸びており、そこには空き缶やポリ袋、用途不明の金属部品が所狭しと散りばめられている。玄関からすぐ左手には二階に続く比較的綺麗な階段があった。廊下を挟んでその階段と向かい合ったところには、これまた木製の引き戸があった。
意外にもその引き戸は滑らかに開いたが、中は廊下の延長だった。ただ、ここは洗面所であるらしい。私の姿が真っ正面に映っているのはガラスがあるからで、その下には洗面台が備え付けられていた。部屋に入ると更に右手には折れ戸があった。そこを開けると風呂場に入ることができるらしい。いずれにしても本来汚れが多いはずの水場が埃を被る程度であると言うことは、この家の家主は存外常識的な人だったのかもしれない。あるいは時間が綺麗にしてくれたのか。
であればこの廊下の荒れようは一体なんなのだろうかと考えながら、そして足の裏を痛めながら、廊下をジャリジャリ鳴らしながら歩いていった。
進行方向には長方形のすりガラスが二つ嵌められた木製の引き戸があった。と思えば、その寸前左手にはノブがついた引き戸がある。そこを開こうとすると、廊下のある金属部品がジャムってしまい、中途半端にしか開かなかった。仕方ないのでその隙間に首を入れ中を見る。
そこはトイレだった。シミ一つない綺麗なトイレであり、廊下で繰り広げられている惨劇もここまでは及ばなかったらしい。まさに聖域といえよう。そんなことを考えていると、右手でパリンというガラスが割れる音と共に、私の首がガクンと扉に挟まれた。何者かがガラスを割ってトイレの扉に突進したのか。冷静に分析しながらも、首が圧迫された勢いで息ができない。即座に首を危険な場所から引き抜く。そのまま玄関方面へ振り向いて逃げた。
すりガラスが一枚見事に割れており、そこから次々に小さな何かがウジャウジャと出てきていた。猿のような見た目をしながら、その背には昆虫の羽のようなものが四枚ついている。それを羽ばたかせ、小虫の如き音を上げながら飛んでいる。体躯は極めて小さいが俊敏である様子を見るに、あれはピクシルであろう。
ピクシルは狭くて暗い場所を寝床とする異形であり、集団行動をする。よって、一匹のピクシルを起こした私は、少なくとも十から十五匹ほどのピクシルに追われることになるのだ。そしてピクシルに目をつけられたら最後、こちらが死ぬか、相手を全滅させるかしなければ逃れられない。
決意を決めた私は、右手を前に突き出した。
豪速球で歯車が放たれるものだと思っていた私は、少し目を瞑る。しかし、いくら待ってもそれが放たれる気配がなかった。背後を見ると、二つの歯車は重なり合って地面にくたばっていた。中心にはまった赤い球体に生気がない。
そんなこんなで、全身をピクシルに晒すことになった。瞬時にたかられ腕や足、首元を突かれる。確実に人間の急所を知っている動きであったが、私はなんとか玄関から転がり出る。急いで立てかけていた玄関扉を倒し、ピクシルの通り道を防いだ。しかし、いずれ突破されることは目に見えている。そこになけなしの、最後の毒瓶を投げた。
紫色の霧が玄関を覆うようにして立ち込める。扉が倒れる音がするが、途端に現れたピクシルは次々と羽虫のように落ちていった。霧を突破した僅かなピクシルも、私の元に辿り着くことはなかった。やはり獣が人類に勝つことはできないのだ。無論、毒瓶を失った私は例外であるが。
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