再来

 柊真たちが夏蝶のベッドを買い、家に戻るころにはすでに太陽が沈み始めていた。帰りの電車の中で夏蝶がすこしうとうとしていたので柊真が「肩かそうか?」と尋ねたところ、どうやらその一言で目が覚めたようで夏蝶はぶつぶつと言いながら扉をくぐって他の区画に行ってしまった。幸い降りる駅は間違えなかったようで、電車を降りたところで合流することが出来た。


「痴漢には会わなかったか?」

「会ったわね。それに今も私の目の前にいる」

「それは災難だったな」

「……あれは公共の場でするものじゃないわ」

「あれ?」

「何でもないっ!」


 夏蝶が少し声を張ると周りにいた、仕事帰りらしき人たちが数人こちらを向いた後、謎の笑みを浮かべてきた。


「春日さんが大きな声出すから笑われたじゃん」

「そのくらいで笑いが取れるなら、声量が大きい人は皆お笑い芸人よ」

「なるほど、春日さんはお笑い芸人志望だったのか」

「……いい加減にしないと、家入れないわよ」

「あれ俺の家」

「昔はね? 今は私たちの家、つまりあなたを追い出すのも家主の一人である私の勝手」

「うわ~。やっぱ断っとくべきだった」

「いまさら遅いわよ」


 最近夏蝶の表情が穏やかになっているような気がする。昨夜も意味は違えど笑みを見せていたし、今こうしている時も学校でのこわばった表情はあまり見られない。学校の外だからなのか、それとも柊真といるからなのか。


「今日中に送られてくるんだっけ?」

「そう言ってたけど、時間までは聞いてないな」

「夜までに来るといいけど」

「だな」


 今日の朝、夏蝶が使っていた客人用の布団を洗濯してしまったのでできれば夜までには来てほしいところではあった。


「───ただいま」


 以前まではこの家から聞こえるその言葉は一つだけだったが、今は二重になっていた。その後、リビングに向かった柊真がふと、時計を見てこんなことを言ってきた。


「もうこんな時間か、夜ご飯どうする?」

「冷蔵庫の盛り合わせでいいんじゃないかしら」

「了解。手伝ってくれ」

「ええ」


 当然とばかりに夏蝶はエプロンを装着し、ゴムを咥えて後ろ髪を束ねていた。

 そして、しばらくした後。夕食を作り終えた二人は食卓を囲んだ。

 さらに時が経つと今度はインターフォンが二人を呼んだ。


「お、来たか」


 柊真が外に出ると先ほどのホームセンターからベッドの配達が来た。

 夏蝶の様子が見えないと少し心配になったが、業者の人が夏蝶の部屋に行くときにはドアを開けて待っていた。おそらく部屋の片付けでもしていたのだろう、証拠に少し息を切らしていた。

 それからは何事もなく夜を過ごし、やがて沈んだ太陽が顔を出してきた。


「……よく寝れたみたいだな」

「おかげさまで」


 今までの慣れない家での慣れない布団がよほど寝心地が悪かったのだろう。今朝の夏蝶の顔はすがすがしそうで晴れやかな顔をしていた。

 そして二人そろったという事で朝食を食べ、学校へ行く準備をし、それが終わると家を出た。いつものように悟られぬよう、時間をずらして登校していた。

 しかし、学校に着いた頃、なにやらあたりが騒がしいと感じた。もちろん柊真からすればいつも騒がしいのだが、今日の『それ』は違うような気がしていた。SNSを見ながらこそこそと話している男子生徒、あれほんとなの? と話題作りに没頭している女子生徒。それらはまるで夏蝶を取り巻く噂と似たようなものだった。

 また信憑性のない物を目で見た情報だからと完全に信用しそれを信じる人を増やして巻き込もうとしているのだろう。その後もガヤが尽きぬまま時間が過ぎ、移動教室になった。


「理科室か……ここにはいい思い出がないな」


 鎌澄かますみ雛菊ひなぎくという女子に夏蝶との関係性を探られた事例があるため、あまりここには来たくない。どうせまたあの時遮られた話の続きをされるのだろうと。普段、雛菊とは話さないが、席が隣であのコミュニケーション能力なら話しかけてくる恐れがある。


「お願いだから、時間いっぱい授業してくれ」


 そんなことを心の中で思っていると、声がもれていたのか、それに反応するかのようにどこからかささやくような声が聞こえてきた。まだ移動している人数が少ないという事もあり、そんな小さな声もはっきりと聞き取ることが出来た。


「……随分と勤勉ね」


 その声、その口調、話す速度、彼女が発するものに柊真は聞き覚えがあった。そして、柊真は思う。雛菊が隣になるという事だけではなかったという事。後ろの席には夏蝶がいたという事に。


「やっぱり最悪だ……」


 しかし、雛菊の姿は見えないまま授業開始になってしまった。休みなのかと、安堵の息を吐いたのも束の間であの元気な笑顔で「えへへ。遅れました~!」と、先生すらも味方につけるオーラを放っていた。それに授業が始まってすぐに来たことでやれやれと思わせることが出来たのだろう。まるで世界は雛菊のためにあるかのような感覚に柊真はやはり苦手意識があった。

 授業中、何度か視線を感じたがそれは柊真の席の隣からではなく、体を黒板に向けた時の隣。すなわち後ろの席の方からだったが、結局見てくる理由は分からないままだった。以前それを聞こうと試みたが、話をそらされて終わってしまった。


「さて、今日はこんなもんでいいだろ」


 職歴はそう長くないだろうが、どこかベテラン教師の風格を見せている女性教師が本日の授業の終わりを告げる。この学校の授業時間は五十分。しかし、現在は授業が始まって四十分。つまり、この間と同じような状況だという事だ。それは最近経験したことと既視感を感じるもので……


「お~い」


 できればこうなることは避けたかった。後ろに夏蝶がいると分かった以上、下手なことを口にできない。かといって無視して悪い意味での注目を浴びるのも好ましくない。退路をふさがれている柊真はこの状況を打開できるような術を持っていない。だから柊真は開くしかない、これから始まろうとしている波乱を抑えている扉を。


「なに」

「あ、一回目で反応した! 何かいいこと起きるかも」

「人を運試しに使うな」

「えぇ~だって、あんまり話さないから新鮮なんだもん!」


 この明るさこそが学校でも人気を誇る雛菊の一番の理由なのだろう。後ろの誰かさんとは対を成しているかのような存在だ。


「だからこういう時にお話ししとかないとね! えへへ」

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