第2話 セックスレスでも情は有る。


 中学校と小学校に通う子供を送り出した後、那智は腕まくりして寝室へ向かった。

「お父さんっ!起きて。会社に遅刻するわよ。子供たちももう学校へ出たんだから、早く起きて!」

 お気に入りの羽毛布団に包まって惰眠を貪る夫の前で仁王立ちし、小さくはない声で怒鳴る。

「もうそんな時間なのか・・・。仕方ない、会社行くか・・・。」

 ぼそぼそと言いながら上半身を起こした雅は、大きく口を開けて欠伸をした。

 初めて一緒に過ごした朝は、この人でも欠伸をするんだなと感心したものだが、今は慣れてしまって屁とも思わない。その整った顔にバスタオルと着替えを投げつける。

「ほら、シャワー浴びて!ご飯よそっとくから。」

「はーい・・・」

 部屋のカーテンを開けて朝日を部屋に入れ、肌寒いのを堪えて窓を開ける。

「寒っ、お母さん、寒いよ。急に開けないで。」

「目が覚めていいでしょ、早く行った行った。」

 投げつけられた着替えとタオルを手に立ち上がり、渋々部屋を出て行く。廊下でつめてー、と声が上がる。裸足には板の間は冷たいのだろう。

 部屋のドアを閉めもしない夫を見て、嘆息する。あの様子では今朝の事など覚えたはいまい。

 なんだか自分だけが一人で盛り上がって落ち込んでいるような気がして、嫌になる。

 あんな思わせぶりな事をした夫を、呪いたい気分だった。



 子供や夫が出かけている間には、那智も出勤する。翻訳の打ち合わせのために会社へ出向くのだ。

 洗濯を済ませて着替えているとスマホが鳴った。

『今日、暇?』

 雅からのラインだった。

『暇じゃないです。これから打ち合わせに会社に行くだけだけど。』

『迎えに来て。』

『どうしたの。』

『体調悪いから早退する。なっちゃんの打ち合わせ終わったらライン入れて。会社の裏門に迎えに来て。』

 那智はため息をついた。

 短く『わかった』とだけラインを返す。

 こんなことはよくあることだ。夫の雅は虚弱体質なのか、こんな風に昼間から連絡が来ては迎えに来いと催促する。会社を早退する程体調が悪いのなら医者に行け、というのだが、本人は寝てれば治るの一点張りで、悪化しない限りは通院しない。

 そして、雅が早く帰ってきてくれると言う事がなんとなく嬉しい那智は、ブツブツ文句を言いながらも迎えに行くのだ。


 産後も変わらず仕事をくれる有り難い会社に辿り着くと、エントランスにはなじみの顔がいた。

「なっちゃーん。久しぶり。今日は打ち合わせ?」

「ちとせ。うん、そうなの。」

 同僚だった新川ちとせが手を振って歩み寄ってくる。彼女は現在は営業事務のはずだ。

「あの綺麗な旦那様元気?」

 泣きぼくろが色っぽいと言われている彼女は、どことなくアンニュイな雰囲気がある。

「ははは、あんまり元気じゃないみたいよ。これから会社まで迎えに行かなくちゃならないの。」

「どうしたの、早退?」

「うん、体調悪いんだって。いっつもあんなこと言ってるの。」

「そうねぇ、身体弱そうだもんね。」

 ちとせはこめかみに解れてきた前髪を直して、ピンで止める。

「最初見た時は、今にも折れそうって感じだったもんね。正直よく二人も子供が出来たなあと。」

「ちょおっと、ちとせ」

「いや、その、見た目ね、見た目。」

「どうせ、男女逆転って言いたいんでしょ。」

「そこまでは言ってないわよ。」

 友人にも両親にもさんざん言われてきたことである。

 どうみても、雅よりも那智の方が逞しい。頼りがいがありそうだと。

 雅は綺麗だが弱々しい外見だ。身長こそ人並み以上に175センチもあるが、体重は那智よりも少ないだろう。性格も穏やかで優しい。

 しかし、那智はそうではない。美貌とは言い難いし、目が釣り目で、えらの張ったごつい面相である。身長こそ雅に及ばないけれどソフトボールで鍛えた体は筋肉質だし、実際に雅を御姫様抱っこして見せたこともあるくらいだ。

 親戚では気の弱そうなダンナを尻に敷いている鬼嫁だって言われているらしい。そんなことはわかっている。

 彼の両親に初対面した時だって、

『強そうで頼もしい嫁さんをつれてきたもんだな。』

と言われた。褒めたつもりなのかどうかは知らないが、一生根に持ってやる、と心に誓ったものだ。

 那智だって自分よりも逞しい男と結婚した方が良かったと思うことは有る。雅よりもガタイが良くて男らしい男性に惹かれたことだってあった。

 けれども何故かうまくいかなかった。

 結局三年も付き合ったのは雅だけだった。細くて華奢で弱々しい、自分よりもずっと綺麗な男だけが、那智に求婚してくれたのだ。

 雅にはどうみても不釣り合い、というかほとんど正反対とまで言える那智の、一体どこが好きだと言うのか聞いてみたい、そう思いながら一度も尋ねたことは無い。

「でも、それじゃあ、ランチも一緒に出来ないわね。」

「ごめんね。また今度ね、ちとせ。」

 かつての同僚がエントランスから外へ出て行くのを見送る。

 彼女も那智と同じように既婚で子供が一人いるので、立場としては近い。ちとせの旦那様は同じ会社の品質保証部にいるそうだが、那智は顔を見たことが無かった。いつか機会があったらちとせにも聞いてみたいと思っている。

 子供が出来た後、どのくらいしているのか。レスになったりはしないのか、と。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る