その優しい目を見逃さない
「ひろ ゼリー……」
ひろにりんごのゼリーを買って行くと、病室で笑う奈々がプリンを片手にひろに食べさせようとしていた。弾んだボブ頭が嫌味の塊に見えてしまう。
「帆乃花ちゃん、ゼリー?ありがとう。気分的にゼリーだなあ。」とひろが小さく呟いた。帆乃花さんから、帆乃花ちゃんになった事が少し嬉しいのをこらえつつ、ベッドに近づく。
奈々はこちらをギッと睨む。
「奈々ちゃんごめん。僕、帆乃花ちゃんと話したいんだけど……いいかな?」
「わかったわよ……」
しょんぼりと奈々が部屋を出る。それを見届けるとひろが口を開いた。その目はとっても穏やかで吸い込まれそうに澄んでいる気がする。そしてゼリーなどそっちのけで、真面目な眼差しに切り替わるのを肌で感じた。
「帆乃花ちゃん……昌宏に聞いた。信じられないけどそういうことなんだね……?」
「そういうこと?あ、私がひろと……」
「そう。僕が想いを寄せていたのは君だって……信じられないよ」
「信じられない?」
信じられないと言われ不安を隠しきれない私にひろは笑いながら帽子の縁をカリカリとかいた。
「だって……君は可愛いから」
「…………」
この人は何も変わらない……記憶がない分、よりひろらしさが滲み出るような言葉にこの心はじんと熱くなった。
「……僕は、この先記憶が戻るか分からない。言葉や好きな食べものは分かるのに……。命はラッキーなことに戻ったらしいけど……だから、無理に元通りにそばにいて欲しいなんて言わないよ」
「…………私は居たい」
「あ、でも……無理しないでね。それから……」
ひろは考え込んだみたいに止まる。こちらを見たままじっと、どうしたのかこちらも不安になる。
「たぶん、僕は君に片思いを……してきたんじゃないかな」
「……それは」
ひろが以前私に言った『君に片思いするから』って言葉が頭を巡る。たしかに私はひろだけを見てこなかった……だけど
「じゃ、私も片思いする」
「なんだそれっあははは」
笑ったひろ、その優しい目、優しい声、すべてをこの胸に焼き付けた。これから先こうやってひとつひとつ見逃さずに生きていきたい……。
「帆乃花!!」
突き刺すような遠慮のない聞き覚えのある声に背筋が凍る。病室のドアに立つのは元夫の卓也だった。
「なに してるの」
「誰?」
ひろはやっぱり分からないよう。それを見た卓也は私を呼ぶ。病室を閉めデイルームへ行くと奈々も居た。
腕組みをし鼻から深いため息をついた卓也は奇妙な笑顔をむける。
「帆乃花……やめとけ」
「……何が?」
「お前、苦労するぞ。あいつ、記憶は無いし、人格だって変わったかもしれないぞ。まあ元から何考えてるか分かんねえ奴だけど。この先何があるかわかんないだろ、あいつが生きられるかだって……。帆乃花、仕事だって見つかってないんだろ?…………戻ってこい。俺なら、お前を一生不自由させない」
「そうよ……帆乃花、ひろのことは、弟さんや私に任せて。ご両親はなかなか日本に来れないから、私がちゃんと……」
「私は絶対に……絶対にひろのそばにいる。…………二人とも悪いけど、もう放っておいて……」
「なあ、帆乃花……お前はさ、すぐ流される。あいつのあんな姿見たから同情したんなら」
「同情なんかじゃない。私にはひろしかいない……ひろがいないと駄目なの」
「はあ……いないと駄目……か。俺にはそんな風に思った事も無いんだろな」
卓也は呆れたように言い捨てた。
目の前に座る二人の事は私にはもう関係ない。何を言われようが、もう私の人生に関係ない。
「帆乃花、あんたは一回ひろじゃなくて卓也さんを選んだんでしょ?酷いよね……自分の気持ちだけで切り捨てて。」
奈々とは疎遠だったとはいえ、学生時代友達だった。友達だと思っていた……。ひろは『楽しくなさそ〜』って私達を見て言っていたけど。
「帆乃花さん」
昌宏さんが、血相を変えてやってきた。
「
「あ、弟さん……」
「はい。あなたがあの駅で昔の友人らに頼んで兄を突き落としたのを知ってます。兄が忘れても私は知ってます。」
「はあ?また人聞きの悪いことを…………。奈々ちゃん帰ろっか」
卓也はバツが悪そうに奈々を連れて去る。本当にひろを消そうとしていたなんて……黙り込んだ昌宏さんの強く握った拳を見て本当だと思った。そんな男と家庭を築いて行こうとしたかつての自分に……震えた。
◇
ひろの退院日が決まる。私達は高良塚に戻り新しい暮らしを始めることにする。宿泊していたホテルで夜、また何度も卓也から着信があった。出なかったらLINEで
『苦しくなったらいつでも言えよ』
と入る。私が苦しかったのは卓也、あなたと居た頃なのに。人の苦しみって伝わらないんだ……私だってひろの苦しみを知らなかったのだから。
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