暗い病室で少年は怒鳴り泣く

 氷水の奥底に沈んでいくような、そんな感覚だった。

 呼吸器官が酸素を求めて大きく開く、悪い夢から覚める時のような苦しみと痛みに一瞬意識が押しつぶされそうになった。

 苦痛に大きく目を開く、見知らぬ天井が視界いっぱいに広がっていた。

 ここは、と小さく呟こうとして、口元に違和感。

 それと、身体がうまく動かない。

 海にいたはずだった、雪降る冷たい浜辺で、小学生の女の子と――

「…………ぁ!!!!!!」

 全て・・を思い出した私は勢いよく起き上がろうとして、痛みで呻いた。

 確か刺されたのだったか。

 腹を、何度も執拗に刺された事だけは覚えている。

 他も刺されたのだろうか、よくわからないけどどうでもいい。

 あのこは。

 あの子は、どうなった?

 逃げ切ってくれただろうか、そうならいい、それならいい、それならいいのだけれども。

 あの時、絶望に押し潰されかけた私は、唐突に思いついて海を見に行こうとした。

 それで家を飛び出したら、隣のボロアパートに住んでいる小学生の女の子が大柄な男に殺されそうになっているのを偶然見つけてしまって。

 とっさに飛び出して、腹を刺されて、それでも逃げて、と叫んで。

 何度も何度も、刺されて刺されて血を吐いて。

 その後どうなったのか、一切思い出せない。

 ただ、死んでもおかしくないくらい刺されたような覚えがあるので、ここはきっと病院だ。

「ぃ、たい…………」

 普段感じることのない痛みと混乱に思考が食い潰されそうだった、それでもどうすればいいのか考える。

 大声で叫んで誰かを呼べばいい、と思ったけれど声がうまく出ない。

 どうすればいいどうすればいいと涙が溢れてきたところで、私はナースコールのボタンを発見した。

 それを躊躇いなく押す、少しして看護師がやってきた。


 看護師さんに状況を聞いている間に、連絡を受けた姉さんが病室に駆け込んできた。

 海外出張中の両親は、私が生死の境を彷徨っていたことは知っていたらしいけど、帰国はしていないらしい。

 それはどーでもいいけど。

 看護師さんや、姉さんから私は事の顛末を聞いた。

 あの子を殺そうとしていたのは、あの子の父親であった事。

 私はあの子の父親に包丁で何度も腹を刺されたせいで瀕死の重傷に、病院に運ばれたあと一週間ほど目覚めなかったたらしい。

 そしてあの子は……あの子は、助からなかった。

 私が力及ばず倒れた後、顔と首、それから胴体を何度も執拗に滅多刺しにされて救急車が駆けつけた頃には、もう。

 犯人は逃亡したが、警察に追われている途中で信号無視してトラックに跳ねられ、即死。

 結局私には何もできなかったのだ。

 誰もいなくなった病室で、私は自分の掌を見下ろす。

 あの小さな女の子は、結局とても酷い方法で殺された。

 私だって刺されたからわかる、あれはあんな小さな女の子がうけていい苦痛じゃない、お腹だけでもあんなに痛かったのに、あの子は顔も、首も、胸も、腹も何度も何度も。

 私には何もできなかった、助けられなかった、逃してあげることすらできなかった。

 私がもっと強ければ、あの子を逃すことができただろうか。

 恐怖で動けなくなっていたあの子の背を押せただろうか、そもそも私にあの男を取り押さえたり撃退できる力があったのなら。

 壊れたものは戻らない、時間は巻き戻らない、死んだあの子は何があっても生き返らない。

 だからこそ、一人ではとても抱えきれないような後悔で死にそうだった。

 あまりにも、あまりにも重い。

 救えたかもしれない命は、私のせいで助からなかった。

 もっと強ければ、もしくはもっと早くのあの子のことを知っていれば、もっと、もっと。

 悲しみよりも、その後悔の重さのせいで涙すら出てこない。

 後悔に押し潰されながら、生死の間を彷徨っていた間に見た雪降る浜辺を思い出す。

 あれはきっとただの夢だったのだろう。

 だけど突き飛ばされたあの瞬間あの子に手を伸ばしていれば、その手をつかめていたのなら、あの子も助かったんじゃないだろうか、と。

 きっとあれはただの夢、それでも思ってしまう。

 あれは、死後の世界、もしくはあの世とこの世の境目だったんじゃないか、と。

「…………どうして」

 どうしてわたしはこんなにも無力で何もできない出来損ないなんだろうか。

 クラスメイト一人を笑わせることもできない、恐ろしい目にあっている子供一人すら助けられない。

「……私が、死ねばよかったのに」

 つい溢した言葉はただの逃避だった、自分でもそれがよくわかっているから、本当に、どうしようもないくらい嫌いだった自分がさらに嫌いになっていく。

 これ以上ないくらい嫌っていたつもりだったのだけど、まだまだ私は私自身を嫌えるらしい。

 窓の外を見る、あの日と同じように雪が降っている。

 一瞬、波の音が聞こえた気がした。

 もちろん、ただの気のせいだ。

 がらり、と大きな音が聞こえた。

 そちらはどうやら幻覚の類ではないような気がしたので音が聞こえた方に顔を向ける。

 病室のドアが開いていた、どうやら先程の音はそれが開く音であったらしい。

 ドアを開いたのは看護師さんやお医者様ではなかった。

 姉さんでもなかったし、ましてや海外にいる両親でもなかった。

 それでも実際にここにいるとすると違和感がありすぎる人だったので、自分の目を疑った。

 ひょっとしたらいつの間にか眠ってしまったのかもしれない。

 そうか、ならこれは夢か。

 ぼんやりとドアを開けたその人の顔を見る。

 その人は感情なんて一切感じられない顔で病室の中に入ってきた。

 そうして、まっすぐこちらに向かってくる。

「……白沢君?」

 夢だとしても互いに無言なのはなんとなく気まずかったので声をかけてみたけど、彼は何も答えてくれなかった。

 どうしたものかと思っていたら、すぐ近くまで来た彼に両肩を掴まれた。

 冷え切った掌に力一杯掴まれている、痛い。

 ぼんやりとしていた思考が少しだけクリアになる、痛くて冷たいということはこれってひょっとして夢ではないのだろうか?

 だとしたらなんでこんなところへ?

「…………ふざけんな」

 絞り出すような声で彼はそう言った。

 ふざけんなと言われても、ふざけた覚えはひとつもない。

 なんで私はこんなことを言われているんだろうか、心当たりが一つもない。

「えっと? あの……」

「ふっざけんなよお前……!!!! 何、勝手に死にかけて……!!」

 怒鳴られた。

 どうやら私が死にかけた事イコールふざけた事であるらしい。

 そんなことを言われてもどうしようもないのだけど。

 だってふざけてないし。

 それは私のせいじゃないし。

 あの子を助けられなかった事で怒鳴られるのは納得できる、だけど私が死にかけた事で怒られるのは理不尽だ。

 両親や姉さんならまだわかる、無駄な金をかけさせてしまっただろうから。

 だけど彼には別になんの迷惑もかけていない。

 なんで私が怒られなきゃならんの?

「なんで白沢君にどなられなきゃならないの」

「…………は?」

「めいわく、あなたにはかけてないでしょ」

 私は結構まいっているらしい、私は多分、言わなくてもいいことを言った。

 けど、なんかものすっごく疲れてしまった。

 もう放っておいてほしい、今は誰の顔も見たくない。

 もう、なにもかもどうでもいい。

 顔を伏せて、彼の顔を見ないようにする。

「……疲れた、もう帰って。もういいよ、もういい、もう何もかもどうでもいい。今までつきまとってごめんなさいね、もう二度あんなことしないから。どうせ無駄だし。どうせ何やっても無駄だし……今回のでよーくわかった、自分がここまで何もできない駄目人間だなんて思い知りたくはなかったけどね。うん、本当にもうダメだわ。だからもうどっか行って、今は誰の顔も見たくない」

 言葉を吐き出すごとに、自分の心が死んでいくのがわかった。

 黙れと思いつつも結局止められなかった、こんなのただの八つ当たりだ。

 彼に当たってどうする、ああもう本当にクズだな私は!!

 本当、なんでこんなクズが惨めに生き残って、未来ある小さな子供が死んじゃったんだろうか。

 私もクソだけど運命とか神様とか言う奴もきっとクソだ。

「ごめん帰って……私今ダメなの、本当にダメなの……何を口走るかわかんないの……言ったってどうしようもないのに、ましてやあなたは今回の件になんの関係もないのに、全部私のせいなのに……本当に酷いことを私が言う前にどっか行って……今、誰かの相手をする余裕ないの」

 これ以上ダメな自分を人に晒したくない、これは私一人で抱えるべきだし、知っているのも私だけでいい。

 だからどうか一人にしてほしい、もう二度と関わらないから、もう二度と目障りだと思われるようなことしないから、だからもう。

「……お前は本当に人の地雷を踏み抜く天才だな」

 肩を掴む手の力が強くなる、というか爪を立てられているらしく、痛い。

 どーでもいいけど。

 なに? 気に食わないなら殴るなり蹴るなり好きにすれば、と顔を上げて睨みつけようとして、ぎょっとした。

 白沢君の綺麗なお目々から、大粒の涙が溢れている。

「ふざけんな、てめぇの事情なんざ知るか」

 泣いた、泣いた? 泣いてる、白沢君、泣いちゃった。

 なんで??????????

 今世紀最大の謎に唐突に直面してしまったので、思考が完全に停止する。

 なんで? なんで泣く?? どうしたの白沢君。

 どうしよう……

 え? 本当にどうすればいい??? どうするのが正解??

「し、しろ……しろさわ……くん、なんで……ないて」

「うるせぇ!! 誰にせいだと、思って……!!」

 怒鳴られた。

 ひえぇ、と自分の口から情けない声が漏れる。

 どうしろっていうんだよ私に。

 というか本当に誰のせいで泣いてんの??

 白沢君はボロボロ涙を流しながら私の顔を睨む。

「全部てめぇのせいだろうが……」

「なんで???」

 私、なんもしてない、なんもできなかった。

 ひょっとしてあの女の子、白沢君の親戚かなんかだったりする? 私が助けられなかったから怒ってる? それで泣いてる?

「……お前が、オレの知らないところで勝手に死にかけたから……二度と目を覚まさない可能性もあるとか散々脅されたこっちの心境を」

 …………んん?

 なんだろうか、この違和感。

 これじゃあ私が死にかけたせいで白沢君がショックを受けて怒って泣いているように見える。

 けどそれはおかしい、絶対におかしい、ありえない。

「なんで? だって白沢君、私のことめっちゃ嫌いじゃん」

 嫌っている人間が死にかけた程度でなんでそんな風に泣きながら怒るのか。

 むしろ喜んで笑ってくれ、と自分の欲望まみれな感想を口にしようかどうか少し迷って、いくらなんでも流石に不謹慎かと呑み込んだ。

 白沢君は涙で濡れた目をまんまるに見開いて、私の顔を見る。

 綺麗だなと思ったけど、見たかったのはこれではないので喜びも充足感もない。

 本当にいい事ないな、ここ最近の私は。

 禍福は糾える縄の如しっていうじゃん? なんでこう連続で禍ばっかりくるかね、そろそろ福がこいよ。

 でもそういえば先々週にいろんなソシャゲでSSRがいっぱいきたんだった。

 なんだそれの反動か、なら仕方ない。

 ……いや、流石に禍の比率が高すぎるな。

 あの子の代わりに私が死んでたら辛うじてバランスが取れていたのだけど。

 なんて考えているうちに茫然自失といった感じだった白沢君の顔が怒り? で歪んでいく。

 最終的に憎くて憎くて仕方がない怨敵と対峙しているかのような恐ろしげな顔になったところで、彼は大声で怒鳴った。

「……っ!!!! お前のことなんざ、大っ嫌いだ!!!!!!!!!」

「うんうん。だから君が泣く必要なんてないじゃん?」

 情緒不安定だなあ、と思いながら諭すように言うと肩をギリギリと思い切り爪を立てて握られる、本当に痛いのだけど。

「ふざけ……お前本当にふざけんな……最悪、だ……本当に最悪だなんでお前みたいなクズを……!!」

「い、痛い痛い……骨、骨折れる……!!」

 というかたぶん肉は抉れてる、すごく痛い。

 刺された時に比べると屁でもないけど、痛いのはかわりない。

 離してくれと訴えようとしたところで、恨みがましさを感じる非常に恐ろしい目で睨まれた。

 思わずお口にチャックを、何も言えずに白沢君の顔を見ることしかできなくなった私に彼は口を開く。

「これ以上、オレを壊すな」

 なにを言ってるんだ白沢君は。

 壊してないし壊せるとも思ってないし、そもそも私は何にもやってない。

 冤罪だ。

 抗議の声を上げようとしたらギリギリギリギリ、と爪が肩の肉に深く突き刺さってなにも言えなくなる、どうしよう本当に痛い。

「これ以上オレから何も奪うな。もうたくさんだ、なんで……なんで、いつもいつも……なんで、どいつもこいつも」

 奪ってない奪ってない、白沢君にはなんもしてない。

 だってずっと寝てたもの、一週間くらい。

 その前に奪ったものも特にない、強いていうのなら時間は少しもらったけど。

「お前なんて嫌いだ、大嫌いだ……お前なんていなくなっちまえってずっと思ってた」

 なら何故怒る、なんで泣く。

 意味わからない。

 そして痛い。

 と思っていたら白沢君の手から力が抜けていく。

 それと比例するように白沢君の顔から怒りが消えていく、最終的に残ったのは痛みに耐えるような辛そうな表情だけだった。

「けど、死ぬな」

 言ってることが無茶苦茶だな、と思っていたら白沢君はとんでもないことを言ってきた。

「お前が死んだら、オレはもう二度と笑わない」

 脅しか?

 ねえそれ脅し? 脅しだよね?

 それ、私が喉から手が出るほど欲しいものなんだけど、死んだらくれないってワケ?

 なら死ねないじゃん、欲求のむしかないじゃん。

「なんでそういうこというの……」

「うるせぇもう黙ってろ」

 やけに弱々しげな声でそう言った後、白沢君は腕で顔を乱暴に拭った。

 それでも目から流れる涙は止まらなかった、壊れた蛇口みたいだと思ったけど、それは言わないことにした。

 ……この人には笑って欲しいのに、どうにもこうにもうまくいかない。

 本当に私は、どうしようもないくらい無能で、何をやっても失敗してばかりだし、何をやっても全部裏目に出る。

 ほんと、自分が嫌になる。

 自己嫌悪の海に沈んでいたら、いきててよかった、とかすれた小さな声が聞こえてくる。

 なんもよくないよ、とは流石に言えなかった。

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雪降る浜辺 朝霧 @asagiri

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