第8話 ひと月が経過
3月6日の卒業式がやってきて久しぶりに制服に袖を通し学校へやってきた。教室に足を踏み入れると多くのクラスメイトが既に来ており、談笑している。僕が自席に腰を下ろすと既に来ていた親友の山田がこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「よっ、中村。久しぶり」
「おう山田、久しぶり」
ちなみにラーメンを一緒に食べに行った2月23日以来なので、あれから2週間近く経過している。スマホで頻繁にやり取りはしているが顔を合わせるのは久しぶりだ。
「今日で高校生活も終わりだな。俺はまだ就職先が決まらないから先行き不安だぜ。こんちくしょー」
山田があまり不安を感じさせない口調で愚痴る。最近のスマホでのやりとりもずっとこんな調子なので多少は焦ってるのかもしれないが。
「就職活動頑張ってくれ」
僕からいえることはそれくらいだ。僕の進路は進学なので就職活動の苦労を共有することはできない。アルバイトと就職はまた違うだろうし。
「中村は偉いよな。第1志望の大学にきっちり合格して、コンビニのバイトを始めて、なんか順調に人生を進んでる感じで。それに比べて俺は思い切り人生足踏み状態だぜ」
「まあそう悲観するなよ。働くことに関して言えば僕よりも先に進んでるじゃないか。2年近くのバイト経験があるんだからさ。一生フリーターじゃなきゃ大丈夫だろ。その内就職できるって」
そういって山田をなだめる。
「そうだといいけどな。一生フリーターとか嫌すぎるぞ」
「ちなみにサラリーマンの生涯収入は2億から3億円らしいけど。フリーターの生涯収入は5千万から8千万円くらいらしいぞ」
「フリーター終わってるじゃねぇか」
「でもまあ若いうちは給料そんなに変わらないらしいから。フリーターをしつつ就職活動をしてなるべく早く就職したらいいんじゃないの」
「もうそうするしかねぇ」
山田は意欲を燃やしているようだった。
「まあ俺のことは置いといて、中村は高校を卒業することに対して何か感じることってあるのか?」
「僕かい。そうだな、やっぱりこれから先の大学生活が楽しみだね。バイトも始めたことだし自由にできるお金も増えて、生活がどのように変化するのか考えるのは楽しいよ。学業とバイトの両立がきっちりできるか不安もあるけど。不安より楽しみという感情の方が大きいよ」
「それはいいことだな。頑張って学業とバイトの両立を図ってくれ」
僕は大きく頷いて返す。
「なんとか頑張ってみるよ」
「それにしても、中村はまだ大学があるから分からないかもしれないけど。俺は高校卒業したら学校に縁がなくなるわけじゃん。なんか今まで当たり前のようにあった学校にもう今後行かなくていいとなると、なんか妙な感じだわ。別に高校生活に思い入れがあったわけじゃねーんだけど、それでも少し戸惑ってしまう自分がいる。自由な時間が増えてしまってどうしようって感じ。普通は学生より社会人の方が一般的に忙しいからなんか逆なこと考えてる気もするけど」
「山田は2年くらい前からバイトをしてるから社会人に半分足を突っ込んでる感じだからじゃないか、残り半分である学生の負担分がなくなって、楽になったんじゃないか」
「まあ俺の学生としての生活はかなり適当だったけどな」
その後は、近況を報告しあって卒業式の開始を待つのだった。
☆
日は流れて3月17日がやってきた。コンビニのバイトを開始したのが2月17日からなので一月が経過したことになる。朝の7時にスマホのアラームで目を覚まし、ベッドを出て窓際で朝日を浴びながら伸びをした。寝覚めは快調で、今日一日を元気に過ごせそうだ。バイトを一月続けて思うことは、体力的に慣れてきたと感じることだ。バイトを始めた最初の頃は、週末に近づくと疲労が徐々に蓄積して朝の寝覚めが悪くなり、起床時間が後ろによくずれたりした。けれど最近はそういったことがなくなってきて、元気に朝を迎えることが出来ている。良い兆候だ。正直最初はバイトだけでこんなに疲労してたら、大学が始まれば死んじゃうと思っていたけれど、今ではなんとかいけるんじゃないかと感じる。大学の開始まで日数があるので、さらに体力的に慣れることが出来ればと考えている。最終的に余裕を持って学業とバイトを両立させられるくらい体力がつけばいいが、それにはまだ長い時間がかかりそうだ。
服を着替えて自室を出た僕は居間へと向かい、こたつに居た母と朝の挨拶を元気に交わす。
「おはよう母さん」
「おはよう武志。最近調子よさそうだね」
「最近、仕事も体力的に慣れてきたんだ。なんか毎日が充実している感じがするよ」
「それはよかったじゃないか」
母が自分の事のように喜んでくれて、僕も嬉しくなる。
それから僕は居間を出て食堂へ向かい朝食の準備を始める。トーストをトースターにセットし、焼き上がるまでに冷蔵庫を物色して飲み物を探す。今日は野菜ジュースがあったのでコップに注ぎ、テーブルに座って少し待つ。チン、という音とともにトーストが焼き上がり、皿に載せて最後にマーガリンをトーストに塗れば完成だ。
いただきますと心の中で唱え、トーストをかじる。僕は朝食を取りながら、今日はバイトの時間までどう過ごそうかと考える。とりあえず一度銀行に行って預金残高の確認はしたい。バイトを始めて丸一月が経過したので今どれくらいお金が貯まっているのか気になる。銀行で残高の確認をした後はどうしよう。読書もいいが他の事もたまにはしたくなる。考えた末に温泉宿の調査をネットでそろそろ始めるのも良いと考えた。銀行から帰ってきたら調べてみようと思う。
トーストを食べ終え野菜ジュースを飲みほした僕は、居間にいる母に「少し、出掛けてくる」と声を掛けて玄関に向かい、靴を履いて家を出た。
自転車に乗って駅前の銀行に向かう。外の気候はずいぶんと寒さが和らいでいるようで、春の訪れを間近に感じる。天気は晴れ。雲一つない空を見ながら自転車で走るのはとても気持ちが良い。大学生活が始まるのももうすぐなんだなと実感が湧いてくる。
銀行に到着した僕は自転車を止めて入店し、さっそくATMで通帳記入を行う。じーこじーこ、という音を聞きながら大人しく待つと、やがて通帳が出てきた。預金残高を確認すると、9万円台が入っているのが分かった。10万円台に届かなかったか。いくらか引き出して使ったのでそれが原因だろう。本代に消えたり、家に納めたりだ。今月の残り出勤日を考えると目標金額までの達成には問題ない。それだけ確認すると僕は店を出て、家に帰ることにした。
☆
家に帰ると自室に戻りネットで温泉宿を調査する。沢山の温泉宿があるが正直どれが良いかまったく分からない。とりあえず口コミの評価値や感想を眺めていくとイメージが湧いてくるかもしれないと思い目を通す。おすすめ順で温泉宿が表示されていたためか、上の宿から順番に目を通しても、どこも評判が良さそうだった。次に日本の人気温泉地ランキングが分かるサイトにアクセスしてみた。それによると日本で一番人気の高い温泉地は静岡県の熱海温泉となっていた。熱海までは東京都内から新幹線で最短約35分と書かれており、交通のアクセスが良い。人気も高いことだし場所は熱海に決定しても良い気がする。大まかな場所が決まれば温泉宿を決めるのも大分楽になりそうだ。後は口コミの評価値や感想を再び眺め、旅館の写真を見たり予算と相談をしながら決めればいいだろう。おそらく電車で向かうので、宿代とは別に交通費の計算を忘れないようにしよう。今日の所はこれまでにして残りのバイトまでの時間を読書で過ごすことにするか。僕はパソコンの電源を落として最近買った小説を読み始めた。
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