第4話 初任給

 翌日、目を覚ますとベッドから起きて伸びをした。寝覚めの気分としては良い方だ。爽やかな朝日が窓から差し込んでおり、スズメの鳴き声が微かに聞こえてくる。気持ちの良い朝だった。昨日はぐっすり眠れたようで、疲労もほぼ完全回復だ。体調管理がばっちり出来たことに喜びを感じる。さて、今日も一日頑張ろう。


「母さん、ちょっと出かけてくる」


 僕は居間のこたつでせんべいを頬張りながら朝のテレビ番組を見ている母に告げた。


「どこにだい」


 母は、僕に顔を向けて聞き返してくる。


「ちょっと銀行に」


「そうかい」


 本日の予定はバイトを除けば銀行に給料が振り込まれているかの確認である。その後、幾らかの金額をおろして本屋で本を物色したい。本は好きだが月の小遣いが五千円の僕には、気楽に買えるものでもないので、図書館を多く利用していたが、これからは好きなだけ買える。ハードカバーの本だって買えてしまう。働くってすごい。

 僕は嬉しくなり、ほくそ笑む。


「じゃあ、行ってくるよ」


「気を付けて、いってらっしゃい」


 僕が立ち去ろうと背を向けて歩き始めたところで再び思い出したように母が言った。


「そうそう、銀行から帰ってきたら昨日のバイトがどんな感じだったのか、聞かせておくれよ」


 僕はすぐ立ち止まり振り返る。

 母は少し心配そうな表情を浮かべている。


「分かったよ」


 家族への報告も大事だろう。僕は母にバイトの様子を話すことを約束する。


「じゃあ、今度こそいくから」


 僕は踵を返し、部屋を出て玄関へ向かう。スニーカーに足を突っ込んで僕は玄関から外へ出た。


  ☆


 自転車で最寄り駅の周辺にある銀行まで来た。自動ドアをくぐりATMの前まで来てタッチパネルで操作をする。通帳記入を選択して通帳を機械に入れた。じーこじーこと機械が記入する音を聞きながら終わるのを待つ。そして、ついに通帳記入されたものが出てきた。通帳に手を伸ばしさっそく中身を確認する。通帳には本日の日付で5065円の入金を示す記述があった。研修中のバイトの時給1013円が5時間で合計5065円である。入金を確認できで、頬が緩む。たった一日働いただけで自分のこれまでの月のお小遣いの額を超えてしまった。すごく嬉しくなる。働くってすごい。お金を手にしたことで、今日からまた頑張って働こうという意欲が湧いてくる。


 とりあえず五千円を引き出して財布に入れた。お金を貯める必要はあるが、初任給くらいは自分のために使ってもいいような気がした。なんだか凄いリッチな気分になる。テンションが上がる。調子に乗って使いすぎないよう注意しよう。


 僕は銀行を出て近くの大きい本屋へ向かう。普段よく使う本屋で週に一回は足を運んでいる。頻繁に本を買うことはないけれど、たまに文庫本などを購入する。雑誌の立ち読みもよくさせてもらっている。しかし今日のお目当てはいつもなら高くて手が出ないハードカバーの本だ。今なら心に余裕をもって買うことが出来る。少し大人になった気分だ。ちょっと嬉しい。


 僕はハードカバーの本が平積みされているコーナーに向かい、本の表紙を眺めてどれにしようかと悩む。何冊か気になるものをパラパラと中身を確認していく。それだけでワクワクしてくる。本好きには至福の時だ。


 結局、10分ほど悩んで1冊に決めた。レジで精算を済ませ本屋を出ると、早く読みたいという衝動に駆られる。家に帰ってすぐ読もうと思うけれど、母がバイトの様子を聞かせてほしいといっていたのを思い出す。まずは母に昨日の報告だな。

 僕は自転車に乗って家に向けてこぎ出した。


  ☆


「母さん、ただいま」


 家に帰って居間に顔を出すと母がお気に入りの湯呑でお茶を飲んでいた。僕の声に気が付いてこたつに脚を入れたまま母がこちらに振り返る。


「おかえり武志。何を買ってきたんだい」


 僕は手に持つ袋を掲げて見せて、母の問いに答える。


「本屋さんに寄って来たんで、本を1冊買ってきたんだよ。給料が振り込まれてたから奮発してハードカバーの本を買ってきたんだ」


「そうかい。武志は本が好きだもんね。まあそこに座りなよ」


 母がこたつの反対側を勧めてくる。僕はこたつに脚を突っ込んで温まると、息を吐いた。

 それから母は昨日のバイトがどんな感じだったのかを聞いてきた。僕は昨日のバイトの内容を細かく丁寧に話していった。一通り昨日の流れを説明した後に、僕の教育係の先輩がとても優しくていい人なのだと力説していると、母は安心の表情を浮かべた。


「そうかい。それは良かったねえ」


 自分の事のように喜ぶ母を見ていると僕も嬉しくなってくる。

 母がお茶を一口飲むと、少し間をおいてから聞いてくる。


「仕事内容は辛くはないかい。続けていけそうかい。正直あたしは武志が接客に向いているとは思ってないんだけどね。でも経験すること自体は悪いことじゃないと思っているよ。ただ少し心配だけどね」


「うーん。辛いかどうかと聞かれると、辛くないと答えるけど。ただ自分が最初想像していたより大変だなとは思う。コンビニのバイトなんて簡単に出来ると思っていたけど。まだ一日しか働いてなくてレジしかしてないけど、緊張したり、焦って手が震えたり、大変だったよ。それに学校に行って勉強するのに比べて格段に疲れる。働くって大変なんだなと感じたよ」


「まあ、遊びじゃないからね」


「うん。でもそのかわり得られるものも大きいなと感じる」


「お給料を貰えたりね」


「お金が手に入るのは大きいよ。自由にできるお金が増えると、これまで買えなかったものが買えるから、すごく嬉しい。毎月のお小遣いだけだとすぐに無くなるのに、給料があると自分が読む本を買うなら何冊でも買えちゃうんじゃないかと思う」


 一日働くだけで月のお小遣いとほぼ同じ額なので、ひと月で約20倍くらいの金額差がある。まさに桁が違う額を手にするので、何だか世界が違って見える。しかも親元で暮らしている僕にとっては全額が遊ぶ金といっても過言ではない。まあその遊ぶ金で家族旅行を計画しているわけだけれど。


 そこまで考えてふと家にお金を入れる必要があるんじゃないかという考えが浮かんだ。正直、今までまったく考えていなかった。そもそも給料のほとんどは家族旅行に使う予定なので、さらに家にお金を入れるのは過剰なサービスだが、現時点で家族旅行の存在は秘密にしてある。お金が貯まって温泉宿の予約をするあたりで家族に知らせようと思っている。


 お金を貯めるのに挫折したり、温泉宿の予約がまったくとれないという最悪のケースを考慮してだ。先に期待だけさせて、やっぱり駄目でしたとはなりたくない。今、家にお金を入れなくても2か月後には家族旅行の件は判明しているので理解を示すかもしれない。しかしそれまでの間家族から、仕事をして稼いでいるのに家にお金を入れない、と思われるのも何か心が穏やかでない。少しでもいいから家に入れておくべきだろう。月に5千円か一万円くらいでいいだろう。それ以上入れると貯金の目標額の達成に響き、本末転倒になりかねない。一応念のため、2月と3月の残り出勤可能日数を調べて、月1万円を家に入れても貯金の目標額を達成できることを調べておくべきだろう。

 とりあえず今は家にお金を入れることを母に伝えておこう。


「月末にいくらか家にお金をいれるから楽しみにしてて」


「そうかい。ありがとうね。助かるよ」


 母は息子の成長を喜んで、どこか誇らしげだった。しかし急に真顔になって告げる。


「でも無理だけはするんじゃないよ」


「うん。わかった」


 僕はその言葉に素直に頷いて返すのだった。


  ☆


 自室に戻った僕はカレンダーをのぞき込み、2月と3月の残り出勤可能日数を調べてみる。

 ちなみに今日は2月18日なのでそれ以降では、2月が9日と3月が22日で合計31日の出勤が可能だった。

 全部に問題なく出勤したら、15万7千15円稼げる計算になる。

 とりあえずの目標金額の12万円を引いたら3万7千15円だ。

 2月と3月に1万円ずつ家に入れても1万7千15円が手元に残る。

 とりあえず僕は月1万円を家に入れることに決めた。

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