第1話

「あれ?どうやって入ってきたの?」

 ドアが開いて男性が入ってきた。その顔を見て声を聞いて遥の恐怖心は薄れた、だがその変わりに混乱が押し寄せてくる。

 ……どうして?


 会った事はないけれど、よく知っている。助けられたと一方的にそう思う事もある相手。

「ファンの人かな?入ってこられないよね」

 テーブルに鍵を置きながらその人が言った。

「あの、あの吹雪の桜井さんですよね?」

「そうだよ、知らないで入って来ちゃった?」

 桜井はソファーに腰を下ろす。ずいぶんと疲れた顔をしている。

「入って来ちゃったというか、なんというか」

 遥は言葉を探した、だが見つける事が出来ない。自分自身がどうしてここに居るのかがわからない、もうそうなればありのままに話をするしかない、他に言える事がないから。

「少し前、気がついたらここに居たんです。その前にどこに居て何をしていたのかも全くわからないんです、こんなことを言っても信じてもらえないと思うし、なんの事やらわからないと思うんですけど私も本当にわからなくて」

「うん、わかった。あなたもわからないんだね」

 TVで聞く声と同じだ。

 芸人コンビ『吹雪』のツッコミを担当している桜井貴博。遥はここ数年、TVの出演番組を追い、彼等が担当する深夜ラジオを毎週欠かさずに聴いている。40才もいくつか過ぎて使うには少し恥ずかしいが桜井は遥の『推し』である。

「よかったら適当に座って、クッションとか使ってくれてかまわないからね。あと、名前とかって覚えているもんなの」

 クッションを使うのは申し訳なく思えて遥は床にそのまま腰を下ろした。

「見延です、見延遥です」

「遥さんだね、僕のこと知っててくれてるんだよね。さっき僕の名前言ってた」

「はい、いつも見てます」

「あー、ありがとう」

 桜井は嬉しそうに笑った。その笑顔に励まされた気持ちになって遥は少し心に過っていたことを言ってみた。

「私、本当はもうこの世にいないような気がしてるんです。最初は私の夢かなって思ったけど」

「うん、遥さんの夢じゃないね。僕も共有しているし、僕も夢見ているのかなって思ったし。

 もうこの世にって、何か思い当たる事があるの?何かを思い出せた?」

「こんな感じ、幽霊にでもなってないと説明出来ないなと思うし。でも本当に幽霊ならスッと消えちゃえば迷惑もかけないのにやり方もわからなくて」

「いいよ、明日は急遽休みになったんだ。ゆっくり思い出しなよ」

 一昨年の大きな賞レースで惜しくも優勝は逃したがバカバカしくもセンスのある漫才は世の中の注目を一気に集めコンビ『吹雪』はTVで見ない日はなく、劇場でのお笑いライブへの出演も減らす事なく続けている。

 その多忙さは、本人達もインタビューで口にしたり、TV番組で1日のスケジュールを特集されたりもしていた。そんな彼らの急遽の休みというのが遥には不思議に思えた。それが表情に出たのだろうか、桜井が言う。

「急遽の休みって気になる?もしかして僕たちの結構ファンだったりする?」

「出演してる番組はほとんど見てます」

 押さえに押さえた言葉。もっと若ければ自分よりいくつか年下の桜井に無邪気に『推しなんです』とそう言えただろうに。

 桜井からは意外な言葉が返ってきた。

「やっぱり、川田のファン?あっちの方が目立つし、女性で僕たちのファンって言ってくれる人はみんな川田のファンなんじゃない?」

「お二人とも好きです、でもどちらかといえば桜井さんが好きです」

「気を使ってくれているって感じでもないから本心なんだね。ありがとう」

 いつも見ているそのままの、力の抜けた言葉に柔らかい表情。そこにとてもひかれたのだ。

 確かに桜井が言った様に主にボケを担当している川田の方が目立つ場面が多い、整った顔立ちで番組出演後にはSNSでも『カッコいい』『可愛い』といった言葉が並ぶ。

「私、もう40歳も越えているんですよ。見た目とか、それだけ見てるわけじゃないです」

 せっかくだからと、どうせもう自分は…そんな思いが重なって先ほど感じた恥ずかしさを押し殺して続けた。

「桜井さんのファンなんです」

「そっか、それは嬉しいな。遥さん、貴重だよ」

 朗らかに気持ち良さそうに笑う。TVで見ているだけでも何度も見た笑い方。相方の川田が何かをした時に誰よりも楽しそうに笑う、自分よりも川田を見てくれというように笑う。目立つ事を好まずに、そもそも目立てる部分などなかった遥には桜井のその姿が好ましく、ついつい桜井ばかりを目で追って、その言葉を聞き逃さない様にしていた。自分をあまり出さない、小さな事は気にしない様に見える桜井、それにしてもこの異常な状態でもメディアで見せる顔と同じ事を見せている事が遥には不思議だった。

「あの、見ず知らずの、もしかしたら幽霊かもしれない人間が急に部屋に現れて気持ち悪くないですか?よくある事だったりするんですか?」

「ううん、初めて。でも」

一旦言葉を切り、煙草を吸って良いかと遥に訪ねる。もちろん、という答えを聞きカバンから取り出したペットボトルの水を一口飲み煙草に火をつけて桜井が言った。

「もし、幽霊だとしたら足があるんだなぁって。そこが不思議かな」







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