4冊目 男と桜の精

 あるところに余命幾ばくもない男がいた。

 男は若い頃に主君の元で多くの武勲ぶくんを上げ、周囲からは名将と呼ばれていた。しかし、歳を取る毎に体が徐々に弱り始め、病に倒れたのをきっかけに戦に出る事を止め、主君から賜った屋敷で余生を過ごす事になった。

 男はその事を悲しみはせず、これもまた運命さだめだと受け止め、屋敷での生活を楽しむ事にしたが、男は戦で主君のために戦う事ばかりを考えていたため、妻をめとっていなかった。

 そのため、屋敷にいるのは自身と食事などの世話をする数人の男女のみで、話し相手も少なかった。男はその事を初めは気にしていなかったが、徐々に寂しさのような物を感じ始めていた。

 そんなある日、春らしい陽気の中で男が屋敷の庭を歩いていると、満開の桜の木の下で一人の女性が立っている事に気づいた。

 その桜色の着物姿の長い黒髪の女性が桜を見上げ、吹き抜けた風で髪がサラサラとなびく姿に見惚れた男は女性へと近づいて声をかけ、その日から男と女性は桜の木の下で話をするようになった。

 男は女性と話すのを楽しみに生き、徐々に女性と夫婦になりたいと思うようになったが、不思議な事に女性は男から屋敷の中に上がるように言われてもそれを拒み、話を終えると同時に強い風が吹いて桜の花弁が二人の間を通り抜ける間に姿を消していた。

 その事を不思議に思い、女性にいくら尋ねてもはぐらかされており、男は女性のそのミステリアスさに更に惹かれるようになった。

 そんなある日、男がいつものように桜の木へ向かうと、女性は桜の木の下に立っていたが、その表情がどこか哀しそうだったため、男はどうしたのかと尋ねた。

 すると、女性は哀しそうに微笑みながら自身の正体について語り始めた。女性は自分達がいつも話をしている桜の精であり、寂しさを感じていた男のために人間の姿を取って毎日話をしていたが、男が徐々に明るくなってきた事で自分の役目は終わったと感じ、今日で会うのを止めようとしているとの事だった。

 男はその事に驚くと、桜の精の手を取りながら涙を流し、自分が明るくなれたのは桜の精のおかげであり、去ってしまってはまた自分は寂しさを感じてしまう。だから、自分の元を去らないでくれと必死になって頼み込んだ。

 桜の精はその男の姿をジッと見つめた後、嬉しそうに微笑むと、来年になってもまだ男が自分と会う事を楽しみにしていたらまたここに来ると告げた。

 そして、風と共に桜の花弁が二人の間を通り抜けると、手を掴んでいたはずの女性はどこにもおらず、男は膝をつきながらしばらく悲しみの涙を流した。

 それから一月が経った頃、男は罹っていた病が酷くなり、そのままこの世を去った。しかし、亡くなる前に自分の亡骸なきがらは桜の木の下に埋めて欲しいと言い残していたため、その願い通りに男は桜の木の下に埋められ、役目を終えた男女が屋敷を離れた事で屋敷には誰一人いなくなった。

 そしてその日から、春にその近くを歩いていると、庭の方から楽しそうに話す男女の声が聞こえるという噂が流れ始めたが、その声がとても幸せそうな物だったため、その男女の邪魔をしようという者は出ず、今でもその屋敷には肩を寄せ合って桜を眺めながら会話を交わす男女の姿を見る事が出来るという。

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