11.負債


 流子はタユタの部屋のベッドで丸くなっていた。

 タユタはその部屋に置かれた数少ない家具である、配信機材の乗った机でYouVesselの配信している。画面に映ることのないカメラ側の機材――照明や鏡、大型防錆端末を見るのは、不思議な気持ちがする。配信を見る側、視聴者の一人だったころの自分は、あの機械の中に埋め込まれていたのでは。そしてその配信者は今、私の抜け殻に向かって熱心に喋っている。

 部屋自体が防音だからか、配信者がよく使う防音ブースを買ってないので、流子が静かにしていないと同居人の存在を匂わせてしまう可能性がある。ほとんど効果はないとわかっているが、シーツを頭から被ることで流子は気配を消そうとしている。 

 配信にはリアルタイムでコメントがつく。流子は寝転がったまま網膜字幕でそれをモデレーターとなって管理して、スパムや悪質なアカウントをBANしたりしている。配信自体の画面を見るのは目に負担が強いので、そのチャット欄だけを見ている。チャット欄は荒れていたが、比率としてはファン――いわゆる信者のほうが多かった。

 流子は出会った当初、タユタに対して出来ることといえば血をあげることくらいだと思っていたが、動画やテキスト記事のサムネイルにアドバイスを求められ、文字の色彩や構図について意見したことがあった。タユタがそれに従ったところアクセス数が増えた。七色覚の種族には三色覚の世界の住民が感じることが、わからないということもあるのだった。以後は動画編集も手伝うようになって、流子が感じていた無力感は薄まった。それでも、この作業は自分以外にもできるのではないかという不安は消え去らなかった。


 配信は終わったようだ。タユタは洗面所に行って、部屋に戻ってきたかと思うと突然ベッドに上り、シーツを剥がして流子の上半身を抱き起した。吸血されるのかと思って、鎖骨を差し出すように顔をそむけたが、その運動は顎をつかまれて反転させられた。彼女が狙っていたのは流子の口で、唇が舌でこじあけられて、生温かい液体が無理やり口移しで注ぎ込まれた。それは収益として導血線から届いたばかりの新鮮な血だった。

 吸血鬼の唾液には血液凝固を防ぐプラスミノーゲン・アクチベーターという因子が含まれており、文字通りプラスミノーゲンを活性化して繊維素(フィブリン)を分解する。また、シアロルフィンなどの麻酔成分も含み、正規ポートを経由しない場合はそれが人体に流れ込むことになる。舌がわずかに痺れるようで、甘く、清潔な匂いがする。(吸血鬼の口腔には通常のヒト常在菌が存在できない)

 全く予想していなかった逆吸血が終わると、流子は寄り目がちになって、その口を餌を待つ雛鳥のような形で開けたまま放心してしまった。

「今のうちに慣れておかないとね」タユタは膝立ちで、ぺたんと座って脱力した流子の頬を両掌で支えながら言った。「血の味に。吸血する側になることに」

「もう血族にするの?私を」流子は焦点が定まらない目で訊いた。「もう変えてしまうの?」

 流子は多幸感と恐怖が共存できるのだと知った。正式な吸血鬼になると眷属関係は解消されてしまう。それは心もとないし、一般的にはもっと遅いはずだ。それに、眷属とはいえ広義では人間であるということに未練がないわけではない。不死になると想像することは、死をそうすることに似ていた。

タユタは質問に答えずに言った。

「チスイコウモリって知ってる?」

「……?」

 GloamのAIが注釈を表示した。それは潤んだ視界でも見えるので、読んでしまう。

 チスイコウモリ。デスモダス(Desmodus rotundus)、あるいはディフィラ(Diphylla)というその近縁種。通称名はVampire Bat。南米に住んでいるコウモリで、ほかの動物の血液を吸うことで生きる唯一の哺乳類。吸血鬼のように血中算素に干渉することは出来ず、ただ単に養分として摂取する。ディフィラ(Diphylla)の語源は、ギリシャ語のPhllon=葉っぱに、接頭辞のdiはそれが二つという意味。鼻葉という、音波を集めるために葉のような形をした鼻の見た目から取られている。

 タユタは同じ注釈を見ながら、興味深そうに言った。「私は流子を植物みたいだと言ったけれど、吸血コウモリも植物の名前を持っているのね。私達みんな同じなのかも。光ではなく、音という波の受け皿としての葉。太陽からの光が、あなたたちの身体で濾過されるかどうかの違いはあるけれど、私も血液の形で滴り落ちる光を舐め取っている。エネルギーは化学結合、時空の歪み、どこに封じ込められていても、波の形を取るのだから」

 この時代の人々は、相手の目を見ることと共有したコンテンツを見ることを同時に出来る。相手を見ながら、相手と同じ物を見ることが出来る。

 流子はベッドに横になった。タユタは子供に絵本を読み聞かせるように話を続けた。

「チスイコウモリのメスは血の貸し借りをするの。さっき私がしたみたいに。コウモリは胃に溜めておいた血を、洞窟の天井に張り付いたお腹をすかせた仲間に分け与える。実験によると、以前に血を分け与えてくれた相手を覚えていて、信頼度の高いメスが困っていたらたくさんのメスが血を持ち寄った。逆に、自己中心的なメスには貸してくれるメスがほとんどいなかった。ここにはゲーム理論の協調としっぺ返し戦略が見て取れる。贈与と返礼がある。コウモリは、人間よりも早く*贈与経済を発明していたの」


* 最古のコウモリは5460万年前の地層から発見されたオーストラロニクテリス。

中央アメリカにいるデスモダスは真正の吸血コウモリで、化石の一部は3000年前から、どんなに新しく見積もっても300万年前からいることは判明している。つまり吸血コウモリは、ホモ・サピエンスよりも古い時代からいた。さらに、5000万年前の森林、3500万年前の洞窟にいたコウモリたちの中にも吸血種がいたとしたら、サピエンスだけではなく、すべてのホモ属よりもずっと先輩ということになる。


「でもコウモリの吸血市場は成長しないから、嗜血主義とまでは言えないんだけど。コウモリの高利貸しはいないし、コウモリ版検索アルゴリズムを書きそうな相手に対するベンチャーキャピタルもいない。コウモリは血を自分の胃袋以上には溜め込めないから、資本の蓄積や集中もごく限られた規模でしか発生しない。嗜血主義を特徴づけるのは余剰」

 流子はなんだかこの話を読んだことがある気がする。2018年に邦訳版が発売されてベストセラーになった『デウス・サングィニス』でかもしれない。(吸血鬼の学名はSanguinis Sapiens。あくまで人類と見做して〝Homo〟をつけるべきか議論になったが、保留されてる)

 しかし、次にタユタが言ったのはその本には書かれていないことだった。

「コウモリたちの小さな脳の、ニューロンの配線に刻み込まれた債務の記録。それが、貨幣の原始的な形と言っていいでしょう。最初に血を与えたコウモリは、特に見返りを期待していなかったかもしれない。でも、与えられたコウモリの脳内には一つ、負の貨幣ができる。贈り物をもらってしまった。返さなきゃいけない。

 人類史においても、債務の起源は貨幣よりも古く、古代メソポタミアに記録がある」

「貨幣の起源は債務?」

「そう、返さないといけないという気持ち」

 タユタはそう言うと、ようやく長話をやめてベッドに入った。眠ることはないが、筋肉には乳酸が溜まるので横になるのは有効らしい。人間から引き継いだ彼らの骨格は、立ったまま眠るようなテンセグリティ構造にはなっていない。

 横向きで寝ている流子は背中にタユタの息遣いを感じながら思った。タユタは私から血を吸うばかりではなく、返したかったのかもしれない。吸血鬼という種族全体もそうだ。人間から血という贈与を受け取って、なんとか返そうとしているのかもしれない。債務だと思っているのかもしれない。だから人間よりも上手く温暖化に対処して、戦争の原因を買収して、AIにも仕事を奪われないようにして、自分が最強のウイルス兼媒介者となることで他の病原体を駆逐して、そうやってユートピアを作ろうと頑張っているのかもしれない。嗜血主義というエンジンを使って。この世界は返礼なのだ。

 でも債務の返却は、貨幣は、取引の成立は、それで関係の終わりを意味する。貨幣の起源が債務の認識、〝後ろめたさ〟だと言うなら。恩返しが終わると、縁が切れてしまう。だから流子は思うのだ、返してくれなくていいと。不当に奪っていけばいいのに。その代わり、一緒にいてくれればいい。しかし彼らは律儀なので、すべてを取引にしてしまう。

 彼らは血によって不死を得て、そんなにも莫大な贈り物に対してどう報いようか考えあぐねている。

 だから、次に人間を不死にして貸し借りをチャラにし、血を返さなくていい〝虚無〟から湧き出てくるものにしようとしている。ネムノキを使って。

 そうなるのなら、それが一番いいに決まっている。種族間の依存や搾取がなくなって、対等になるのなら。


「私のこと嫌いになった?」タユタは言った。

「なんで?」

「人は他人の欲望を欲望するって言うし。クラスでも人気のある子を好きになるでしょう。今の私は前みたいに人気じゃない。キャンセルされようとしている」

「そんなに登録者は減ってないよ」チャット欄は荒れていたが、一度ファンになったらスキャンダルがあっても留まる人が多い。遠隔吸血されつづけた埋没費用効果かも。

 タユタは流子に馬乗りになって、頬を両手で包んだまま、また血液を流し込んだ。口の中には残っていないはずだったが、第一疑似胃から逆流したものだった。吸血鬼の胃には消化酵素や胃酸は無く、単なる血液貯蔵庫になっている。さらにその奥の臓器は形こそ人間の腸に似ているものの、算素代謝をする原生代の極限環境細菌の共生叢で、元素変換が行われていることからその代謝プロセスは素粒子生物学の対象になってしまう。

 親密な吸血鬼同士では、このような儀式をするらしい。

「やっぱり今、私を吸血鬼にするつもりなの?」敵と戦う戦力にするために?

「そんなつもりはないんだけど。ただ、さっきの流子の顔を思い出したら、こうしたくなって。まだ早いよね?」タユタは言い訳がましく言った。「でも、やっぱり今の内に慣れておくのは大事でしょう、血族としての魂を持つことにも」

 タユタは流子をゆっくりと、枕を頭に、横たえた。

「ああ……」流子は微睡むように言った。「汐里先輩が言ってた、思考様式が違うって。どういうこと?」

「自己認識の階層が違うだけ。高階、とは言ってもそれが優れているわけではなくて、単に言及システムが多重化して複雑になっただけ」

「よくわからない」

「一階の生命システムには意識がない。二階の意識システムは、神経系を持った動物の環世界のようなもの。それは自身を自身の〝身体〟と同一視していて、自身が〝意識〟だとは気づかない。三階の意識は、自己認識。二階の意識を表象として扱うことができる。自分が意識を持っていると気づいている。四階が、自己認識の自己認識。この四階が、吸血鬼の自己認識」

 それは人新世のシステム理論、オートポイエーシス論を吸血鬼が引き継いで厳密に定式化した理論だと表示された。自己嗜血論などと名前がついている。

「……」

 食物連鎖のピラミッドの頂点に吸血鬼を据えた中世の吸血鬼の宗教画は見たことがあるし、流子はそう考えたこともある。植物を最底辺にし、そのさらに下に太陽がある。吸血鬼の宇宙論では、太陽は大地のさらに下で踏みつけにされるものなのだ。空には星月しかない。そのように、生物の意識まで階梯で分けて良いものなのだろうか?

「四階の自己認識は、二階の意識が感じる苦痛を切り離すことができる」タユタは続けた。「それは苦しむことがない。だから私は、三階のシステムを守ることに決めたの。苦痛を感じずに済むほど単純ではなく、かといって自分で苦痛から逃れる術を持つほど複雑ではないシステムを」


 タユタは話し続けたが、流子にはほとんど頭に入ってこなかった。それに、理解してしまえば準備が整ったこととされ、血族に一歩近づいてしまう。

 だから、以降の説明も流子は聞き流した。それに、いつもと違い具体例や比喩による説明がほとんど出てこない。どこまで行っても文字どおり抽象的だ。

「これは強調すべきことだけど、この理論が言うシステムは複数の〝プロセス〟の閉鎖ネットワークなの。物質のネットワークですらない。だから、物理宇宙には存在しない。

 何かが自分自身の部品を生む働き、その部品ではなく、〝働き〟をノードと見做してそれ同士をリンクでつないで出来上がる、ネットワーク。だからそれは物質で出来たものではない。リンクの両端はすべて閉じていて、だから入力と出力が存在しない、自閉的な蠢く何か。それが生命や意識や社会に共通するシステム。

 その〝部品〟に代入出来るのは、細胞、器官、表象、コミュニケーション、取引、様々。でも、何にでも当てはまるわけではなく、機械的で決定論的な動作には当てはまらない。だから、ヴァンパイアがヴァイロセル構造体であることや、過去に想像されたAIが金属で出来ていることは、それらが意識を持てないことには全然ならない。

 でも注意すべきは、部品=構成素はシステムには属していない。システムの宿る身体である構造に属するのが構成素だけど、システムの一部であるのはあくまで産出プロセス。

 物質でも情報でもなく、動作が因果関係によって結ばれるような、あり方」

 それは重要なことなの?私に関係あることなの?流子はそう思いながら、微睡んでいった。



   ***



 流子の蝸牛コクリアフォンが鳴った。ヴァロからの呼び出しだ。

「何してる?ニュースを見てないのか?」

 流子と彼ら友人は、Dischromaという通話アプリのグループチャットのメンバーだった。しかし、その他のメンバーは沈黙している。

「さっき、レスタトはFatChewer上で、タユタが〈攪拌者〉だという証拠を掴んだと仄めかした」 

 タユタは面倒くさそうに起き上がった。

 ヴァロは続けた。「ルイとカルラが情報をレスタトに流していたんだ。正確には、ルイは最初からレスタトのスパイだった。カルラは後からそれに同調した」

「証拠自体は示されてないんでしょ?」流子は言った。

「まだ。それはルイたちがどの程度タユタの裏の顔について調べ上げていたかに依る」

 ヴァロはすでに知っていたのだった。タユタは彼が信頼できると、話すうちに確信したから。

「レスタトはタユタに奪われた知的財産を取り戻す権利によって、私兵を使って捜査することが出来る」

「企業の私設軍にそんな権限ないでしょ?」

「証拠を見つけた後で正当化できる。つまり、彼らは大手を振ってタユタを討伐できるということだ」ヴァロは深刻そうな声音で言った。

「ふーん」タユタは言った。「よかった、配信用のメイク落としてなくて」

 タユタは外出することを見越して実際にメイクしていたのだった。もしそうでなければ、リアルタイムで顔の立体情報を理解して映像を加工するソフトウェアを使えばよいだけなのだった。

 吸血鬼はほとんどメイクをした状態でしか公の場に出ない。男性型も同様だ。マスクをしているから口の部分は下地だけとはいえ、目のクマを消したり、逆に活かしたりするために。素の顔にほとんど価値を置かない。〝自然〟を称賛しない。それは、環境保護の姿勢にも反映されていると思う。

 エマ・マリスは、『自然という幻想』という著作で多自然ガーデニングという概念を提唱した。吸血鬼が人間文明を保全する際にも、それは参照された。自然を人工的な手が加わる前の〝手つかずの自然〟に戻すというのは、現実的ではないばかりか、不可能だ。大地のほとんど全域はすでに数万年前からサピエンスによって改変させられている――どんなに自然に見えても。人間によって運び入れられた外来種が、必ずしも常に生態系の破壊的な侵略者ではないということも指摘された。

 吸血鬼たちの中で人間を保護するべきと主張した一派が勝ったのは、そういった手つかずの、吸血鬼の干渉がない場合の自然な人間のあり方という考えを放棄したからだ。そして、人間がいかに吸血鬼にとって有用な〝サービス〟を提供するのかという嗜血主義的な観点で訴えたから。地球は、ガーデニングされるべき庭園なのだった。

 流子には、タユタが最初に言っていた〝倫理的な吸血〟が何なのかわからなくなっていた。でもそれは、〝自然〟な状態に戻ろうとするだけでは達成できないようだった。だから、彼女は様々な方法で外見を操作して武装するのだった。

 なぜなら彼女自身の身体も、彼女にとっては環境だから。

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