12.翼手
マンション高階の、タユタの部屋がある部分が火を噴いている。それを流子は地上の、グラファイトエンジンの駆動音だけが響く走行中のEVの中から見ていた。ヴァロの忠告があったおかげで、二人は襲撃前に脱出できたのだった。
複数回の爆発に伴い、数少ない家具が落下していく。建物の足元には残骸が散乱しているだろう。その光景は、『ファイト・クラブ』という前世紀末の映画を思い出させた。その作品も消費主義を批判するものだったが、焦点は環境保護ではなく個人の生活にあった。商品に取り囲まれた肉体を解放するためにクラブの会員は殴りあうのだった。しかし現代ではブラッドウェアは肉体に入り込んでいて、解放すべき対象は精神だけになってしまった。牢獄はどんどん縮小していって、解放すべき囚人はいなくなり、鉄格子から幽霊が外を覗き見るだけになってしまった。牢獄の外にはティッピング・ポイントを超えて回復不能な環境という生存不可能な砂漠しか広がっていなかった。脱出しても行く先は無く、牢獄を破壊することは自分を破壊することになった。あるいはその映画も、精神を救出するために肉体を破壊していたのかもしれなかった。
*
GEV――流子がそう呼ぶことにしたアンティーク車――は、鉄道上の高架立体インターチェンジの直線を進む間ずっと前方にレーザーを照射し続けた。その標的だったガードレールを破壊して、GEVはおそらく全速力で空中に飛び出した。そして、走行中の列車の最後尾の屋根に静かに着地した。各部の隙間からスラスターを噴射して衝撃を殺す念の入れようだった。
過去の列車の上には様々な架線があるはずだったが、錆禍時代の列車は電力を使用しないのでパンタグラフがない。内燃機関を使った気動車に牽引されている。
だからしばらくは、屋根の上に乗っていても何かにぶつかる心配はない。タユタは屋根についた出入口を破壊して侵入しようとしていた。
「私はここで待ってようか?」
流子は言った。列車の屋根に乗った透明な車と、武装した吸血鬼でいっぱいの列車内ではどちらが安全かはわからない。
「ついて来て。私のカメラになって」タユタは言った。「やつらをキャンセルする証拠を取るための。それは、先頭付近の貨物車両にある」
流子は恐る恐る列車内に降りた。地図上の、GEVがいる場所を示すマーカーは列車が次の高架下に潜る寸前に勝手に離れて行った。
カメラは目的地に着いたときに起動することにした。
「その貨物車両に何があるの?」
「レスタトがこの街から本国に持ち帰ろうとしている、なんらかの違法な算素採掘装置。たとえば、人体のあらゆるパーツを削減して算素採掘に必要な器官だけを残した、いわゆる造血臓器複合体とか」
「う……」流子は不快感を表明した。
そういった人間の尊厳を無視した造血方法は過去に考えられたものの、そこまで効率が良くなかったため、どんなに非人道的な吸血鬼権力も採用しなかった。造血効率は労働効率に似ていたから。
生産量を最大化させようとする架空の独裁者フナルグル、それが二体いた場合。完全な独占を目指す巨大企業が、世界に一つだけではなかった場合。
そもそも、研究の成果物そのものを物理的に運ぶのは馬鹿げたことだ。レシピを送信すれば、レスタトは日本支社でも、米国本社でも同じものを作れるはず。再現性があるのが科学なのだから。しかし、こうして実物を運んでいるということは、そうしなければならない理由が彼にはあるということだ。科学以外の理由が。例えば、競合他社の動向。
中国の四大吸血技術企業BATSのひとつTranscend社は、〈
だがもちろん、レスタトはそれを快く思わなかった。〈ネムノキ〉は疑似脳は完成していたが、そこに書き込まれるソフトウェアに問題があった。つまり、後れを取っていた。レスタトは〈蛭木〉より早く自分の商品を発表する必要があって、非倫理的で拙速な手段を選んだのだとタユタは言った。
もしそうなら、自分が同行しているこの破壊活動にも正当性がある。流子は少し安心した。
二人は無人の貨物車両を抜け、後ろから二両目の車両との連結部分に着いた。マップ上では複数の反応があり、それらは民間軍事会社の兵士を意味していた。入り口の扉の背後には一人、歩哨の兵士がいた。
タユタは鉄製の扉越しに敵の胴体を手刀で貫いて、そのままその脊椎を変性させる過程を開始した。今回は脊柱だけではなく敵の上半身全体が磁性流体のように、幾何学的な棘だらけの黒いオブジェクトになってから、圧縮されて大型の銃器になった。タユタが手前に引き抜いたのはその銃把だった。鋼鉄の扉を盾にしながら、そこから突き出た機銃で一方的に射撃する形になった。十数秒で、車両内から応戦してくる敵兵を一掃してしまった。
「えっ待って」
流子は言った。
「どうしたの?」
「今の
「そんなことを気にしていたら映画観れないでしょう?あと、今のは全員吸血鬼だったわ」
タユタの返事はそれだけだった。盾にしていた扉を蹴り倒して、血で滑る床を歩いて次の車両を目指した。
吸血鬼の様々な能力の源である算素は、彼らの骨髄に高濃度で蓄積されている。タユタが触れた敵の身体を武器にしてしまうのは、相手の支配下にある算素の制御を奪って限定的な元素変換の不可逆過程を引き起こすからだった。元素変換とは言っても自由な錬金術というわけではなく、人体の軽元素を安定でありきたりな重元素――たとえば鉄にすることしか出来ない。
それは地球の表面にまとわりついている軽元素の地殻から鉄で出来たコアという地獄まで元素の運命が堕落していくことに似ていた。
算素を作った冥王代文明はそのように前後で系全体の陽子・中性子の総量が不変かつ、比較的〝安全〟な原子核の変化しか許しておらず、危険な核反応を厳格に除外している。これは算素が恒星をダイソンスフィアで取り囲むための自己複製機械などではなく生物圏を想定してデザインされたものであることを示唆している。
次の車両の敵兵たちは最初の犠牲者たちよりは準備ができていた。彼らは扉の窓に映った人影に一斉に射撃したが、それはタユタによって脊髄に命令を書き込まれて、歩かされた瀕死の兵士だった。
タユタは敵のいる車両右側面の窓を割って侵入し、数秒の銃声と狂乱の後に流子がいる車両の左の窓から帰ってきた。その両手には敵の脊椎が二本、ヘルメットをつけた頭部を載せたまま握りしめられていた。首狩り族のトロフィーのように。その光景には、さすがの無感覚な流子も手すりにしがみついたまま身震いしてしまった。
再度、磁性流体のスパイク現象のような効果とともに、頭部は持ち手がついた菱形の釘打ち機のような道具に、背骨部分は刀剣に変化した。金属が擦れるような音は、発声のための肺のないはずの生首が悲鳴を上げるようだった。副産物による熱で蒸気が発生し、鉄が赤熱したので、タユタはその二つの武器を床に突き刺して冷めるのを待つことにしたようだ。
その奇妙な武器は網膜字幕の画像検索に該当せず、型式番号などは不明だった。ただ、最も類似しているものとしてカート・ウィマー監督の映画『ウルトラヴァイオレット』に登場したスクウェア・ガンが候補として表示された。ただ銃把から下向きに突き出たブレードはモチーフのそれよりも長かった。
タユタは鉄が冷めるまで縦列で並んだ座席の陰に隠れることにしたようだった。流子は座席の隙間で出来るだけ姿勢を低くしていた。
「彼らも乗ってるみたいね。前のほうの車両に」タユタは言った。
「誰?」流子はかろうじて聞き返した。
「ルイとカルラ」
「えっ……」
数秒思考を巡らせてから、流子はその場でへたり込んでしまった。「まって」
「どうかした?」
「これからルイやカルラとも戦わなきゃいけないってこと?それは無理」
「どうして?」
「どうしてって、あの子たち、いい子だし。殺さないで」
「彼らは変異した時期が早いから、強いよ。私が殺されるかもしれない」
「それも嫌」流子は懇願するように言った。「私、そもそもこれが正しいのかわからない。もし私を守るためだったら、やめて。私に守る価値なんてない」
タユタは無言で流子を見つめていた。床に突き立てられた奇妙な武器は、チリチリと冷却の音をたてていた。流子は続けた。
「私、本当はわかってなかったの。この戦いが正しいのかどうか。あなたが正しいのかどうか。まともに考えたことなかった。と言うか、興味がなかった。ただ、あなたに必要とされなくなるのが怖かっただけ。要らないって言われたくなくて。だからついてきただけ」
「そうなの?」タユタはべつに気を落とした風でもなく、穏やかに言った。
「そうだよ……」
「でも、誰があなたを不要だと言ったの?あなたの内なる声?いいえ、そうではない」
タユタは流子の頬に触れながら続けた。撫でるというより、今にも俯いてすべてを視界から締め出そうとしている流子の顔を支えるように。
「あなたの憂鬱は、あなたの無力感は、あなたの内から生れ出たものではない。あなたがいつも、自分が不要ではないかと思っている、社会のせいにしてはいけないと思っている、全部自分のせいだと思っている、世界を変えられないと思っている、いつも棄てられないか不安がっている、いつも自分を無価値だと思っている、それはあなたの内なる声ではまったくない。
それは、外部化されることを巧妙に回避して、あなたの血管の中で内部化された、外から来た規範。それは、あなたの声ではなく、嗜血主義の声なの」
流子はよく飲み込めなかった。
俄かに天井から複数の足音がした。特殊部隊さながら、兵士達は直接攻め込むことに決めたようだった。
タユタは立ち上がって、二丁の変則的な銃剣を床から引き抜いた。
「内面化された嗜血主義が、あなたの血の中から囁いて、あなたを抑鬱に誘っている。それは、あなたの魂ではなく血だけを欲している。世界を変えられると思うなと言っている。それより自分を変えろと言っている。大それたことを考えるなと言っている。身の程を知れと言っている。適応せよと言っている。病を定義して、その原因を私有化させられる。病の原因が、病を自己管理せよと言ってくる。
嗜血主義が、あなたを不要だと言っている。あなたの夢ではなく、その資源を使い潰して生産された物だけを欲している。
この傭兵たちや、高価な自律兵器や、ブラッドウェアに制御された奴隷や、誰のためにもならない虚業や、夢を僭称する広告や、多量の咬錆を排出する算素マイニングを、嗜血主義は必要だと言っている。でも、そんなものは私にとっては無価値なゴミ。だから殺すの」
敵兵達はタイミングを合わせて一斉に、何かの命綱に釣られながら窓の外側に逆さ吊りで現れた。アサルトライフルの射撃で窓を割って、突入してくるようだ。
タユタは両手を広げ、下向きの刃を持ったそれは皮膜を欠いた翼手のように見えた。全方位からの射撃が始まったとき、彼女は車両の壁や天井を無作為に反射しながら跳ね回る影となっていた。同時に、なぜか車内に無数の紫色の光で出来た蝙蝠が飛び回っているように見えた。その閃光は彼女の武器の銃口から放たれる、独特な形状と色をしたマズルフラッシュなのだった。その残像が黒い獣が跳ね回るのに追従して空間を満たしていった。
窓からの第二派に加えて、前後の車両に回り込んでいた兵士達も扉から突入してきたが、地を這うように軌道を変えた蝙蝠の群れが渦を巻くにつれて彼らは被弾し、刃に切り裂かれていった。弾が切れるとタユタはブレードを敵に突き刺すことで銃把の中のマガジンに給弾した。車両という四角柱の箱の中は攪拌器となって、肉は刻まれてすり潰されていった。そのようにして、彼らの小隊の構成人数はわからないが、ともかく3ダースほどいた兵士は全員倒された。
疲労したタユタの目とマスクの紋様は赤熱して、呼気は火の粉となっていた。
「きみはいつも戦う前に演説するのか?」
それはルイの声だった。彼は次に列車の進行方向側の車両の入口に立ってこちらを見物していた。後ろにはカルラもいて、二人はその辺の死体から生成した武器を持っていた。それらは鎌のようであったり拳銃のようであったり、見た目からは機能を特定しづらい武器だった。
タユタは荒い息をつきながら、逆に質問を返した。
「レスタトに私を売って、何が手に入るの?Gloamでの要職?」
「テロリストの情報提供に報酬は要らないだろ」
「ルイ、あなたはあの夜明けに言った通り、人間を救おうと思っている?その方法が私と違うだけ?」
「そうだよ。ただ
しばしの沈黙のあと、線路の先に短いトンネルが迫ってくるのが見えた。
「今!」突然、タユタはそう叫びながら床に突っ伏した。
流子も次の瞬間にそうした。なぜなら、直前にプライベートチャットでそうしろと送られてきたから。
「……?」
ルイとカルラは困惑した。
タユタは言った。「動かないで。今、あなたたちの身体とこの列車全体は、張り巡らされた不可視のワイヤーの柵を通過したわ。水平に張られたワイヤー間の距離は伏せた人間がやっと通り抜けられる程度。今動くと断面が顕在化して、輪切りの肉塊になってしまう」
「ふっ」ルイは笑った。「ナノ素材のワイヤー、単分子のブレード。何かのフィクションで見たことがある。そういったものが仮に存在していたとして、何の予兆も見せずに何かを切断できるだろうか?金属結合、分子間結合、どんな種類の結合であっても、それが断ち切る結合の数だけ反作用を受けるのに、それが十分に小さいということがあるだろうか」
「私が言っているのはナノ素材のワイヤーではないの。咬錆で出来た、フェムトマテリアルのワイヤー。それは分子や原子同士の結合を断ち切らない。空虚な電子雲の中を突っ切るの」
「それでは何も切断できない」
「ええ、最初のうちは。でも正の電荷を持ったそれは通過した平面上に存在する分子の熱運動を能動的に偏向して、その平面に属する分子のみによって増幅される波を残していく。それは共鳴して、数秒後に致命的な位相状態になる。それは動きをトリガーとして、破壊をもたらす」
「意味をなさないように聞こえるが、どう思う?カルラ」
「レスタトは咬錆を使った兵器を作る計画があると数年前にほのめかしていたけれど。それがどうなったかは知らない。咬錆に触れられた分子の挙動は奇妙で、予測できない」カルラは答えた。
「そもそもなぜレスタトはそんな罠を作動させたんだ?」
「警備兵が全滅した際、積み荷を無傷で残し、侵入者だけを排除するため。おそらく個々の積み荷は寝かされた状態で、ワイヤーはそれを避けて配置されているのでしょう」タユタは答えた。
「ふうむ」ルイは考え込むように言った。
「安心して。動かなければいいの。あなた方にできる最善の対策は、待つこと。死の波が少しずつ散逸し、熱となって無害化されるまで」
ルイは実際にどうなるのか、純粋な好奇心からブラッドウェアで計算し始めたようだった。その隙にタユタは流子の手を取った。
「リューコ、おいで」
流子は素直に従い、タユタと一緒に友人二人の横を通り抜けた。途中、カルラのそばを通るときには緊張した。捕まることにではなく、もしタユタの言ったことが本当なら、カルラに触って壊してしまわないかと心配だったからだ。
タユタは流子の手を引っ張って次の車両に飛び移ると、迷わず連結器に刀を振り下ろした。火花とともに連結部は切断されて、車両間の距離は少しずつ開いていった。
「全部うそ!」タユタはおどけたように大声で自白した。
切り離された後続車両はカーブに差し掛かったことで急速に離されていき、そこに乗ったままのルイとカルラはぽかんとこちらを見ていて、追いかけようとする気もないようだった。タユタが言ったことは、全てはったりだったのだ。不可視のワイヤーなどは存在しなかった。
「よかった……」流子は言った。「二人を逃がしてくれて。友達を殺さないでいてくれて」
「彼らが強すぎたから私が逃げただけ」タユタはそっけなく言った。「もしかしたら、向こうも戦いたくなかったのかも。それが彼らに、普段なら信じない嘘を信じさせた」
*
二人は無人の車両をひとつ抜けて、目的の貨物が積まれた車両に着いた。
予想されていたような、培養槽の中で脈動する、血液を生産する機能以外のすべてを奪われた、脳を含む臓器の複合体のようなグロテスクなものはなかった。代わりにあったのは、1ダース株ほどの見慣れた〈ネムノキ〉の苗だった。中央に通路を残して、両サイドに列をなしていた。
研究所で見た時との違いは、それらの根が、中継装置を経由して、床付近に寝かせられた人間の頭部とケーブルで接続されていることだった。
「これは、何?なんで人間とネムノキが繋がれているの?」
「撮ってる?流子」
「うん。配信もしてる」
「白紙状態の疑似神経系に、すでに算素採掘が可能であることがわかっているこの世で唯一のソフトウェアをコピーしているのでしょう。人間の精神というソフトウェアを」
流子はGloamによって検閲される心配のないサイトに、複数の匿名のアカウントで動画をアップした。それは、おそらく世界を変えるはずだった。
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