9.ネムノキ


 造血植物研究所の内部植物園は、ジオデシック・ドームに覆われていた。三角形のガラスを貼り合わせて作られた半球状の天蓋。1947年に考案された建築様式は、昔の科学雑誌のためにアナログの画材で描かれた挿絵の中の、火星でジャガイモを作るための耐圧ドームという感じがする。

 流子はそこを、凪沙に案内されて見物していた。凪沙は自分の役職について説明した。

「研究補助員っていう雑用みたいなもの。でも、たまに助手の人の手伝いをさせられる」

「まだ学部一年で?そういうのって四年とか院生の人とかがやるものじゃないの?」流子は理系の研究室について疎い上に、今は例外が多すぎて何が普通かわからない。

「多分、〝人〟手不足だから。なぜ人間の助手が欲しいかっていうと、吸血鬼はやりたがらないから――光合成をする植物を世話してサンプルを採取するっていう仕事を。たとえ遮光ドームの中でも」

「ふーん」そういうものなのだろうか?吸血鬼が大して日光を恐れないことは、朝焼けの悪ふざけでみたとおりだ。それでも、不快であることに変わりはないと聞く。しかし、それだけで凪沙の異例な扱いを説明できるだろうか?何か別の理由がある気がする。たとえば、流子と同様に眷属になったとか。そしてそれを隠しているとか。でも、そんな下世話な勘ぐりはよくない。

 温室の一画を占拠する低木の一群を見て、流子は訊いた。

「これが〈ネムノキ〉?」

「そう」凪沙は答えた。「外の試験圃場よりも次世代の、算素採掘用の苗木。既存のネムノキ*をベースに、生物工学的に色々と改変された新種」


* ネムノキ(合歓木、合歓の木、Albizia julibrissin):マメ科ネムノキ亜科の落葉高木。別名、ネム、ネブ。


「夜になると小葉が閉じて眠っているように見える、就眠運動を行うことで有名。

 この小さな葉っぱがたくさんついているように見える房全体が一つの葉で、こういうのを複葉と言う。それが二回分岐するから二回羽状複葉。シダ植物の中には三回分岐する物もいる。フラクタル構造みたいに。シダ植物と種子植物は共通の祖先から種分化した後に独自に葉を獲得したから、形が似ているのは収斂進化のはずだけど、葉の形成は共通の遺伝子によって制御されていることが明らかになった。

 一回目の分岐の枝を蝶番として、左右の小葉の群れを重ね合わせて閉じる」

 滴り落ちる光をこぼさないように水平に並べた掌を、祈るときだけは合わせるように、その器官は変形する。

 ネムノキ、眠る木、眠ることができる木、夢を見ることができる木。植物である彼らは夢の中で広告を見ないのだろうか?あるいは、広告に埋め込まれた夢を。

 見ないのだろう。植物は独立栄養生物で、太陽と地表の軽元素以外と取引をしたりしないから。何かを購入しないから。でも、するかもしれない。花は花粉の取引相手である送粉者に対する広告だし、各種のアルカロイドは捕食者に対する自身の味に関するネガティブキャンペーン。ほかの苗に毒を盛る植物もいる。植物も嗜血主義と無縁ではないのかも。

 和名の漢字の注釈も表示されている。合歓――よろこびを共にすること。いっしょに喜ぶこと。同衾。〝男女が〟同衾することと書いてある。とても古い辞書だ。いつからアップデートされていないのだろう。このように辞書が現在の意味を取り逃していることはよくある。辞書は言語を捕まえてきてピン止めする標本図鑑に過ぎないのだから。

〝私のアルビジア、私の喜び〟――タユタが血を吸うとき、そう言っていたことがある気がする。あれは、血に染まったような淡紅色の花をつけるその植物の学名の一部のことだったのだ。相手を〝喜び〟と呼ぶ部分については、海外小説の影響のようだが、原文で〝delight〟〝pleasure〟〝joy〟のどれだったのかはわからない。網膜字幕にはそのような遡行機能は無いから。〝delight〟はlightを含むので吸血鬼っぽくないと思うが、語源は意外にも光とは関係ないらしい。

 いや、あれは最初に吸われたときに言われたのだっただろうか。錆付いたエレベーターの中で。流子はあれから何度か吸血されている。

「いつかタユタが、私に似てるって言った植物……」

「またあの子の話?」

「うん、ごめん……。会話デッキが貧弱で」

「ほかに友達いないの?」

 学科の子とは眷属であることを隠しながらだと気を使ってうまく話せない。サークルも入っていない。バイトはやめてしまった。数回出勤した後、タユタによって本社が血の海にされた後破壊されてしまったから。今はほとんどタユタの部屋に住んでいて、下宿には帰っていない。

「もう大学来てる意味ないんじゃない?眷属になりたかったんだったら。それが叶ったなら」

「いや、なりたかったわけじゃないし」

「否定しないんだ」

「あっ……」

 引っかかってしまった、簡単な罠に。でも凪沙は意地悪で鎌をかけたわけではなく、どんな秘密だろうと相談に乗ってくれるという意思表示なのだろう。そんな必要ないのに。

「いつごろから気づいてた?」

「隠す気ないじゃん。匂わせてるし」

「あー……。私はバレてもいいんだけど、タユタはどう思うかな」

「あんた自分ってものがないの?」

 凪沙は流子に詰め寄った。

「ないよ」

「ないんだ」

「ないよ。誰もくれなかったし。見つけたと思ってもそれより優れた物に奪われる。凪沙みたいな人は恵まれてるよ。人生を捧げて打ち込めることがあるんだから。じゃあやればって言うかもしれないけど、私が今からやっても形にならない」

「あんたね……」

 業を煮やした凪沙は流子を睨みつけた。その背後から声がした。

「リューコの不安は正しいわ、ナギサ」

 そこにはいつの間にかタユタが立っていたのだった。凪沙自身の影から現れたかのように、音もなく。

「ひっ?」

 ぞっとしたような声をあげた凪沙が後ずさると、タユタはさらに距離を詰め、首筋の匂いを嗅ぐようなしぐさをした。初めて流子に会ったときのように、品定めするように。

「ナギサ……あなたの血はなぜそんなに不味そうなの?何の匂いもしない」

 凪沙は耐えるように黙っていたが、流子は言った。

「酷いよ、そんな言い方」

「いいえ、これはナギサに対する称賛なの」タユタは再度凪沙に視線を戻して言った。「これは、あなたが夜に算素採掘をしていない、ということを意味する。あなたはヴァンパイアのための血を生産していない。報酬のBCや、血色評価スコアを犠牲にして。代わりに何をしているの?何を睡眠中に走らせているの?睡眠学習プログラム?」

〝睡眠学習〟という胡散臭い概念は20世紀初頭に生まれ、その効果を謳う各種商品も販売されたが、同世紀後半には効果が疑われ疑似科学とされた。しかし、酸素のフリをして脳血液関門を突破して夢に干渉するフェムトマシンが普及した現代ではその限りではない。鬼新世には夢内広告の効率的な記憶定着の研究に付随して効果が認められるものが再登場し始めた。

 しかし、凪沙の返答はそれを否定した。

「そんなの意味ないでしょ。学習ってのはそんな受動的な作業じゃないの。そんな時間があったら、眠らないあなたたち吸血鬼に追いつくために使う。私の脳活動を、くだらないマイニング資源として売るより、ずっと有意義な時間に」

「じゃあ、睡眠代行インプラントを使っているのね?」タユタが意を得たように目を丸くした。それは、睡眠時に行われる人間にとって必須な生化学的プロセスを、起きている間に代行してくれるブラッドウェア。タユタは興味深そうに首を傾げた。「あなたはこっそり一人で、この大学の片隅で、『ガタカ』をやってるの?時間的に有利な種族達に対して、人間の力を証明するために?」

「そういうあなたは『ベガーズ・イン・スペイン』を気取ってる?あなたみたいにあらかじめ全てをデザインされた存在が、弱者の救いになれると本当に思ってる?」凪沙は皮肉った。

 険悪な雰囲気の中、流子は呑気に、自分の人生も何かの映画や小説に準えられるような、〝ログライン〟がはっきりしたものだったらいいのに、と思った。主人公が確固たる目的と信念のために、他のあらゆるもの――自分の幸せや、他人のそれすらも破壊して突き進んでいく。なぜ私はそうでないのだろう。なぜ私は傍観者なのだろう。たくさんの字幕やオーバーレイによって、網膜というスクリーンの向こうと隔てられて。

 もちろんこれが鬼新世にありふれた症状だということは知っている。網膜に情報を投影すると――その眼球運動に追従する定義上最前面のスクリーンの存在を意識させてしまうと、人々は脳に閉じ込められているような閉所恐怖症を発症するという副作用(カルテジアン・シンドローム)が、近年になって報告されている。

「なぜ調整された生は弱者の救いになれないと思うの?」タユタが質問した。

「生は予測不可能で、その肯定はいつも事後的だから。不死で自己増殖に興味がないあなたは、未だに病と生殖のために苦しんでいる人に何と言う?人工子宮があるからいいとか、眷属になれば永久に若いままだとかいう、未来に関する甘言以外で。あなたは人間を人間ではなくすことによって救おうとしているけど、それは人間を救ったことにならない」

「人間を人間のまま救う?それって矛盾してるように思う。どんなに牢獄の中を快適にしても、囚人は囚人よ」

「あんたのそういうところが……」

「領主は領民に、この土地を出るともっと酷い目にあうと言い聞かせながら好きなように苦役を課す。あなたがたは生命に搾取されているわ。到底褒められるべきではない場当たり的な設計を肯定するように教え込まれて」

「たとえ話で煙に巻くのはやめて。アンタ、いつもそうやって流子を洗脳しているの?」

「いいえ。たとえではなく、私は字義どおりの意味で領主と言っているわ。その領主がちょうど今夜、ここに来る」

「一体何のこと?」

「レスタト。情報領主。中世から生きている、血の圧政者」

 レスタト・ド・リオンコート。その名に領地名を含む、長命の始祖氏族。現在はGloamのCEO。

 Gloamは数年前に、算素をブラッドウェアとして利用するためのファームウェアを販売している会社〈Myxthoma〉*を買収し、事実上の独占状態にある。


*Myxthoma(ミグゾマ):上記の通り、算素に命令する唯一のプログラム方法を開発したベンチャー企業。社名の由来は、Myth(神話)と、Myxomathosis(兎粘液腫症)を合成した造語。


 タユタはまるで言い争いなどしていなかったという風に、話題を変えた。

「会話を中断してごめんね、ナギサ。続けて?〈ネムノキ〉の動作原理についての説明を」

「なぜ?あなたはもう知っているでしょう。イミディエに上げてた写真を見る限り、こことコネがあるみたいだし」

「私達の共通の目標について確認しておく必要があるから。共通の敵と戦うために」

「そう?では錆禍版の『沈黙の春』を防ぐために、おさらいしておきましょう。流子への話が途中だったし」凪沙はそう言って、長い説明を始めた。「そもそも、人間の睡眠中の脳がどのように算素を吸血鬼が飲める状態にしているか――算素マイニングをしているかについて説明する必要があるでしょう。

 大気中の算素を吸血鬼が飲める状態にする有効化=算素マイニングの際に要求されるのは、巡回セールスマン問題に似た組合せ最適化問題。デジタルコンピュータにはこれが苦手、というか扱いやすい形式にするのが難しい。人間の睡眠中の脳はこのマイニングに適している、というか唯一のデバイスとされてきた。

 だがもう一つ自然界には候補があって、それが変形菌による経路探索能力。

 もちろん、経路計算がデジタルコンピュータに苦手というのは少し古い認識であって、組み合わせ最適化問題を、イジングモデル――格子模型、相互作用するスピンを格子点とする物理システムで最低エネルギーを求める問題に変換して解くイジング型計算機は実証段階にあった。それをデジタルコンピュータの中でエミュレートするということも出来るとされていた。でも、必要なのは常に咬錆に晒される自然環境下で生育する植物。咬錆の遮蔽が困難だったから、〝古典的〟な粘菌計算機を使うことにしたの。

 つまり〈ネムノキ〉のアイデアを簡単に言うと、マメ科植物が根粒菌と共生するときに合成するレグヘモグロビンを血液の代用とし、根粒菌を変形菌に置き換えて粘菌計算機として扱う。これで血液と脳、つまり人間が算素マイニングに使うデバイスを模倣しようということ」

 流子は黙っていたが、凪沙はそれを疑義と取った。

「聞いただけでたくさんの問題点が見つかるでしょう。まず根粒菌は真正細菌、つまりバクテリアだけど、変形菌は原生生物。同じ菌という文字がついてもドメインから違う、進化のごく初期に分岐していて系統樹における距離は人間とキノコより遠い。その二つを同一視するなんて。

 でも、さっき流子に言ったシダ植物と種子植物の間の葉の形成遺伝子の共有の例のような共通要素を手がかりに、二つの種の遺伝子を導入して組み合わせている」

 タユタが付け足した。「でもそれだけでは、空っぽな器が出来上がるだけ。だからここの研究チームは、自力で算素の有効化を成し遂げるアルゴリズムを開発して粘菌脳に書き込もうとしている。それは崇高な試みだわ。でも、レスタトはもっと拙速な方法を取ろうとしている」

「よくわからなかったけど、一つ気になることがあるんだけど」流子は言った。「これが出来たら、人間が要らなくなるってことにならない?吸血鬼にとって、私達がお払い箱になるってことに」

 様々な実務、サービス、芸術、すべてにおいて人間よりもAIのほうが優れていることを誰も否定しなくなった現代。それでも唯一残ったのが、算素の生産という特殊な機能だった。たとえそれが吸血鬼に奉仕することにしか役に立たないとしても、技能の占有はそれだけで人間の誇りになっていた。でもそれが奪われてしまったら?

 幼年期の終わりという小説では、結局のところ人間には銀河文明の仲間入りをする潜在的な超能力があった。でも、そんなファンタジーがない現実の人類に、吸血鬼という慈悲深いオーバーロードが興味を持ち続ける理由があるだろうか?

 かつて情報が人々の血管を流れる前の時代には、人間には精一杯誇張すれば超能力と呼べるような何かがあると、少なくともフィクションの中では信じられていた。脳の眠っている75%、ジャンクDNAにコードされた神秘、量子スピンの確率に干渉できる特権的観測者としての意識。実際はそんなものはなかった。それら神秘的な潜在能力の最新のバージョンとして登場したのが、脳という天然のニューラルネットワークが持つ、ノイマン計算機よりも優秀とされる経路計算機能だった。そしてそれは、特殊部隊を組むミュータントたちの能力と比べて見落とりしたものの、未だにオカルト雑誌送りになっていなかった。

 タユタは答えた。「これは、10年前に人工肉が実用化されたときに、商品としての家畜が、嗜血主義にとって必要なくなったという話とは違うの。人間は本来、血族にとっての商品ではないのだから。7年前に人間用の人工子宮が実用化されたとき、人間の女性が要らなくなると言った男性中心主義者がいた。実際はどうなった?むしろ逆に、女性は潜在的な負担からひとつ解放され、より多くの選択肢を手にした。もちろん依然として、人口をこれ以上増やさないという選択肢も。何かの生命にとって、ほかの生命が〝要らなくなる〟ことなんてない。それは、〝依存の対象ではなくなる〟と言い換えたほうがいい」

「じゃあ、血を作る植物が出来ても、吸血鬼は人間を必要としてくれるってこと?」

「人間が私達を必要としている限り。必要とされることは喜びなのだから」

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