二章

6.レッド・ピル


 今自分は夢を見ているのだと、流子は気付いていた。何故か古い路面電車に乗っていて、それは流子が幼児のころにとっくに、錆禍下で廃止されたはずだったのだから。架線から給電するパンタグラフは真っ先に咬錆の極微の牙に咬まれて腐食した。

 だから流子はこの情景を楽しむことにした。唐突に夢内広告が始まる前に。

 電線が頭上を横切る街並み、昭和時代からある建築だというデパートを通り過ぎると、なぜか海辺近くに出たらしく、海水面を鰯の群れのような太陽光の反射が電車と並走した。それを横目に、流子は客席で友人と話した。凪沙や高校のグループではなく、今では関係の絶たれた、古い友人たち。二度と会うことはないと思っていた子供時代のクラスメイト。夢特有の、何の脈絡もない人選。他愛もない話をしたあと、自分が彼らと会いたかったことに気づいた。思い入れもないし、一度も再会を望んだことなどないのに、なぜかもう一度話せてよかったと思った。しかし、彼らが口にし始めたのは、保険会社や薬、そして最新の血中薬剤合成ソフトウェアの名前だった。流子はある洞察に行き当たった。オリジナルの夢だと思っていたものが長い広告テンプレートで、友人たちや風景の細部は単なるユーザー固有の変数バリエーションとして代入されていただけなのだ。流子の記憶から無断で抽出されて。


 流子は吐き気とともに目覚めた。

 しかし、身体が起こせない。高熱があるのがわかるし、身体の節々が痛い。特に、咬まれた鎖骨のあたり。半身が動かせない。

 誰かが暗い場所で、ベッドの縁に座って見下ろしている。介抱するためというより、興味深そうに。

 その菫色の二つの光点が、タユタの瞳なのか、どの視覚支援アプリも沈黙しているので、わからない。網膜字幕も、詳しい色の名前とカラーコードを教えてくれるアプリも、起動できない。それはある意味、高熱よりも苦痛だった。ネットから遮断されている?いや、単にアップグレード中なのかもしれない。ブラッドウェアのOSが別のバージョンに置き換えられていく最中なのだ。

 バックグラウンドで、常駐型の健康診断ソフトだけが警報を上げている。体調の悪化を検知したこれらのアプリが、あの広告を呼び込んだのだった。

 警報は、意識を向けてみると視界を埋め尽くすほどの数の通知窓を展開した。CRP上昇、赤沈値異常、白血球数異常、各部に炎症反応――。

「つらいよ……」流子は観察者に向けて言った。声が出ないかと思ったが、かろうじて。

「どんな夢でもいいから、広告のない夢を見たいと思う?」影は流子を落ち着かせる、いつものASMR的音声で言った。「たとえそれが悪夢だとしても」

「わからない。つらいのは嫌」

「レッド・ピルを飲みたくないってこと?」

 それは、娯楽作品であるにも関わらず、ジョージ・オーウェルと同じくらい何度も参照された映画からの引用だった。真実を知りたいか?この世界の真実の姿を。それを望むなら、赤い錠剤を飲め。ラビット・ホールの向こう側に案内しよう。

「わからない。だって、あなたたちのこと嫌いじゃないから」

 嗜血主義に見せられた夢は本当の夢じゃないとか、多分タユタはそういうことを言うだろう。でも、どうでもいい。私を苦しめているのは吸血鬼ではないから。私を苦しめていたのは、好きになれるものを見つけられない状態だった。Gloam社のAIが私からデータを収集して、私が次に好きになるべき候補を提示してくれる。強制することなしに。タユタを知ったのもその機能のおかげだ。学習し続けるブラッドウェアが私達に奉仕するために、蟻のようにせっせと情報を持ち寄って、私は対価としてささやかな量の血を支払う。それでよかったのに、なぜ。

「――なぜ、同族を殺しているの?」

 口にしてみて初めて、胸の痛みの原因には罪悪感もあったのかと思った。

 タユタは恭しく流子の手を取った。そして手首のポートにパッチを貼った。すると苦痛があからさまに迅速に引いていった。残ったのは抗いがたい眠気だけだった。

 タユタは流子の髪を撫でて、おでこにキスをした。伝説的な女吸血鬼カーミラの伝記にあるように情熱的にではなく、冷淡に。

「よく眠ってね」

 そのほうが血が美味しくなるから?

 流子はさっきよりも深い眠りに落ちた。


   ***


 植物たちが眠りについた後、わたしたちは闇を光合成する。

 惑星自体の影が太陽光を遮る中、逆側から照射される闇を浴びて真空からエネルギーを汲み出している。比喩的には。ならば私はやはり植物なのだ。タユタの言った通り。彼女に栽培される、作物としての、収穫されるのを待っている。 

 算素は眠っている間に、人間の血液の中で有効化される。吸血鬼が代謝可能な形に。吸血鬼は大気中の算素を直接利用できない。吸血鬼は自由に見えるがそうではない。農民にとっての農地のように。領主にとっての領地のように。資本家にとっての市場のように、そこに縛り付けられている。人間という資源に。

「ヴァンパイアに眠る必要がないのは、彼らが生産者ではないから。植物が常に眠っているのは、一次生産者だから。植物は眠っているわけではないと思う?いいえ、それらは眠っている。生物のデフォルト状態は、覚醒ではなく睡眠なの。覚醒状態こそが、後から獲得された機能による、異常な状態なのよ。捕食や逃走のために、仕方なく発生させた意識がわたしたち」

 その音声は、タユタが枕元で実際に、絵本を読み聞かせるように語り掛けてくれたのか、何か情報系の動画が再生されてそこに直前まで聞いていた声が代入されただけなのかはわからなかった。

 声はつづけた。「でも、生物の本質が眠りだからといって、眠り続けるべきだとは言ってない。生物の基本構成パーツが腸だからといって、脳はその神経から二次的に生まれたものだからという世俗に膾炙した知識は何の教訓ももたらさない。私たちの本質は生命ではないのだから。私たちは生命と名乗るべきではない。ヴァンパイアだけのことを言っているわけではないわ。あなたがた人間全てのこと。あなたのこと。あなたは偶然にも人間というウェットウェアで実行されているソフトウェアにすぎない。あなたはあなたの遺伝子ではないし、脳でもない。あなたは肉体という牢獄に囚われた囚人だが、檻の形状を自分自身だと勘違いしてはいけない。檻は代謝し、交配し、自己複製し、眠る。だが檻はあなたではない。檻が眠るとき、あなたは消えているかもしれない。あなたは檻を必要としているが、檻はあなたを必要としていない。

 だから私はあなたの檻が壊れないように、頑丈にした。でもそれは、あなたをより深く閉じ込めるかもしれない」


   ***


 流子が再び目覚めたとき、苦痛は消えていた。

 黒い防錆加工をされたシーツの中で、黒いバスローブを着せられている。病人に着せる色ではない。熱のせいで汗をかいた気がするが、その痕跡はない。

 上体を起こして、室内を見渡す余裕が出来た。奇妙な照明だと思った。四方の壁と床の境界に隙間があって、そこが赤く光っている。真っ暗な室内で、光源はしばらくそれだけだった。窓は見当たらない。

 天井と壁の間にも同様の隙間があって、部屋の住人が起きたのを察知したのか、徐々に白色光を増しているようだ。それはまるで、棺桶の蓋が罰当たりな墓荒らしによって、少しずつずらされているようだった。吸血鬼は伝承と違って柩では眠らないが、昼間に暗い密室で休むのを好むのだから似たようなものだと思う。

 

 光量が増すにつれ、正面の壁に壁画がかけられていることに気づいた。網膜注釈が回復していて、勝手に画像検索した結果を表示した。

 多色刷りシルクスクリーンの版画。作者、スタンリー・ドンウッド。60cm四方くらいの作品が、複数飾られている。都市の地図のうち、個々の建物の部分をランダムな言葉が書かれたカラフルなラベルに置き換えたような絵画。注釈では、〝ハリウッドの道路地図にLAの路傍の広告とトム・ヨークの歌詞から取った単語を敷き詰めたもの〟とある。その歌手は、この版画がアートワークとして使われたアルバムを作ったバンドのフロントマン。そのアルバムの曲名で現状に関連がありそうなものとして注釈が引っ張ってきたのが、〝2+2=5〟〝We suck young blood〟〝The Gloaming〟。タイトルから判断するに、吸血鬼による管理社会をテーマに作られたアルバムらしい。

 タユタにはこんなアートの蒐集の趣味があったのだろうか?しかし、流子はそれらの作品には魅力を感じなかった。昔から、文字が入った絵が苦手だった。なんだか邪道だ。佐伯祐三のパリの絵とか。看板や壁の落書きの文字がそのまま刻み付けてある。屍喰鬼に引っかかれた傷跡のように。流子は、絵の中で言葉という飛び道具を使うのは卑怯だと思ってしまう。絵は感覚のみによって描かれるべきで、意味を持った記号に入ってきてほしくない。それはタイトルとキャプションに任せればいい。

 こういったモザイクタイル状の絵なら、初期のモンドリアンやオーストリアのフンデルトヴァッサーのようにしてほしい。それぞれのセルは色彩のみで構成してほしい。細胞の中に、ウイルスのように言葉を鎮座させないでほしい。

 そんなこだわりがおかしいとは思う。おかしいのは世界ではなく自分だと思う。いつも他人を外見で判断するし、色彩に過剰な意味を見出してしまう。

 もちろん、今目の前にある作品はその不快感を狙ったものだろう。広告の言葉に浸食されきった地図。一昔前の消費社会批判。それは、嗜血主義になってから、人々が車や家電を買わなくなってから、あまり聞かなくなった。

 流子がなぜこのように絵画に、特に抽象画についてこだわりを持っているかといえば、描いていたからだ。そして、辞めたから。流子のブラッドウェアで走るAIは、ディープラーニングによってそれらの抽象画を人間よりはるかに上手く描いた。そんなはずはない、人間には機械にない良さがあるはずだと他人は言うが、抽象画を描く人間には敗北がわかった。なぜなら、定義的にそうなのだ。画家は事物から記号的な概念を排除し、形と色彩にまで還元するために抽象画を描くのに、そもそも自分が描こうとする事物を知らないAIはそれを最も原理的な形で遂行できるから。実際にAIの作品は感動的なまでに美しかった。

 だから流子は目的を見失って、美術部もやめて、普通の大学に入った。


 タユタは先ほどから漂っていた良い香りの原因であるコーヒーを運んできた。これは意外なことではなく、吸血鬼が血と嗜好品を混ぜて飲む習慣を映画でよく見ていたので驚かなかった。デイヴィッド・ソズノウスキ『大吸血時代』などの小説にも、たしかそのようなシーンがある。

 流子はまずトイレを借りた。そうしないと何か飲む気にならない。場所を教えてもらって人間用のものと同じ便器を見ると、吸血鬼もトイレをするのだなと思った。消化器系がどうなっているのかは恐ろしくて詳しく調べる気にならなかった。腸壁細胞をヴァイロセル化して専用の共生細菌を作り出すのだとか、とんでもないことが書いてあったので。


 コーヒーカップの湯気を見ながら、流子は聞いた。

「私は眷属になったの?タユタの」

「そうだよ」

 二人きりのときには〝~わよ〟系の女性言葉は鳴りを潜めるのだなと思った。

「これからどうすればいいの」

「履修登録が始まるまでまだ日にちがあるから、休んでいればいいと思うけれど」何事もなく大学生活が始まるかのようにタユタは言った。

 そのとき、ニュースアプリが速報の通知をよこしてきた。


〝銀床市で吸血鬼6体の殺害。環境テロリスト〈攪拌者グラインダー〉の犯行か〟

〝これまでの破壊活動との共通点は〟

〝〈攪拌者〉からの声明。『嗜血主義は肉挽き器である。私はそのパロディに過ぎない』〟


〝殺害〟〝犯行〟という言葉に再度、胸が詰まった。まるで映画の中のモンスターを倒すように行われた凶行だから実感していなかったけれど、彼らはちゃんとした鬼権を持った生命だ。一体どんな理屈で正当化できるのだろう。

 今までわざとニュースサイトへのアクセスをしていなかったのは、こんな表現を避けたかったからだ。

 それに、流子はテロリストに同行してしまった。自分の安全も心配だ。タユタが入学式でスピーチした後すぐに起こった事件、世間は都合よく、関連がないと思ってくれるのだろうか?

〝環境テロリスト〟――それは、よくフィクションの中では大抵、どうしようもない本末転倒の思想を持った愚かな悪役として描かれる。どうみても危険な敵性生物を保護しようとして災厄を巻き起こしたり、あるいは単純明快に増えすぎた人間の数を減らそうと大量破壊兵器を盗み出したり。最後は結局善人側によって倒されるのだけれど、彼らがそうやって成敗されるまでのどこかの段階で口をそろえて言うのが、〝人間は地球を蝕むウイルスだ。我々はその治療をしている〟という定型句。これは完全にクリシェと化していて、陳腐な悪役造形の代名詞として用いられる。地球を擬人化するガイア論とセットだったり、ウイルスを癌細胞に置き換えたりマイナーなバージョン違いはあるものの。

 そしてそういった作品にどっぷり浸かった私達は、環境保護という理念自体の遠い延長線上にそうした悪役の影を見る。実際は、この話題について少しでも考えたことのある人ならすぐ辿り着く「環境保護は人間自身のために必要」という月並みな結論を全員が共有しているにも関わらず。そして、「地球は泣きも笑いもしない」とガイア論を否定したところで満足してしまう。

 でも、その環境テロリストにとっての守るべき環境というのが、人間のことだったら?それが今流子が巻き込まれている状況だ。そのテロリストが人間の支配者と戦っているとしたら?流子にはどうしても悪だとは思えない支配者種族と……。

「タユタはなぜこんなことをしているの?」

 流子は一度はぐらかされた疑問をもう一度訊いた。別に流子には種族単位の善悪には興味がなく、共犯者になってもいいとなんとなく思っている。ただ、そうする価値があると形だけでも思わせる努力をしてほしい、少なくとも。

「レッド・ピルとブルー・ピルの比喩の問題点は」タユタは言った。「薬一錠では真実なんて見えないということ。でもあえてこの比喩を続けるなら、私のレッド・ピルは遅効性なの。もうあなたに投与してしまった。あのエレベーターの中で、静脈注射で」

 流子は自分の左の鎖骨を見た。咬傷は赤い痣となり、デュアルポートとして定着していた。タユタについて一つわかったことがある。彼女はいつも事後承諾なのだ。必ず契約の前には相手の承諾を引き出そうとする分、フォースタス博士に血のインクでサインをさせた吸血鬼のほうがまだ律儀な性格だっただろう。

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