5.止血


 二人が地上に出ると、辺りは真っ暗だった。街灯は無く、見えるのは遠く市街地の灯火を反映する夜の雲だけ。

「ここに入る前にあらかじめ、私の無人運転車を呼んでおいたから。もう来てるはずだけど」タユタが言った。

「どこ?」流子には舗装されていない砂利道以外、何も見えない。

「網膜注釈によるとこのあたり」

 タユタが指定した場所に近づくと機械の動作音がして、地面近くから二人の鳩尾みぞおちまでの高さの空間が斜めにスライドして歪んだ矩形の入口が現れた。ステルス車両がこちらに側面を向けて停車していたのだった。続いて、各所のエアインテークのような隙間が展開した。全体としては、黒色の折り紙を貼り合わせて作ったが裏面も黒かったせいで残念ながら窓を表現できなかったという感じのデザインだ。

「安心して乗って」闇に空いた菱形の入口を見つめたまま立ちすくんでいる流子に、運転席側に回ったタユタが言った。「これは、導電性グラファイトエンジンを積んだEVだから。走行時に算素を消費しないし、製造過程のどのプロセスにおいても、咬錆の排出には関与していないわ」

「う、うん」流子はそもそも環境負荷については心配していなかったが、おおげさに同意した。「それなら安心だね」

 流子が低くて狭い助手席に乗り込むと、ドアが平行移動して閉まった。窓がないので、外界の様子は各所の映像皮膜を見るしかなかった。それ自体は吸血鬼の車両に共通する特徴なのでいまさら驚くことではなかったが、実際に乗るのは初めてだった。

 電動モーターという、博物館でしか見たことのないアンティークな動力によって車が静かに動き出してから、タユタは言った。

「ごめんね、リューコ」

「な、何が?全然だいじょうぶだよ」流子は前方を向いたまま明るく振舞った。

 実際に、流子は気にしていない。こんな事態に巻き込まれたことを。そして、自分がタユタにとってお弁当、つまり吸血鬼の夜会に侵入するための通行パス代わりに扱われたことを。それは友情と矛盾するものではない。むしろ四方から殺到する牙と爪から守ってくれたではないか。いや、問題はもっと別のところにある気がする。例えば殺戮自体とか。

「いいえ、本当にごめんなさい。服を少し汚してしまって。もっと綺麗に済ませるつもりだったのだけれど」

「ああ、服?服ね!」 

 たしかに、レインコートで防ぎきれなかった血がシャツの襟に少し染みを作っている。スーツのジャケットはおそらく無事だろうけど、明るいところでよく見ないとわからない。

「うちに来てシャワーを浴びるといいわ。服もクリーニングに」

「シャ、シャワーくらいうちの下宿にもあるよ?」

「うーん……でも、吸血鬼の血の痕跡を処分する方法があるの?」

「それは無いけど……あの、あの、帰りはDUSKO《ダスコ》で買い物しようと思ってたし」流子は先ほどからブリキの人形のように硬直したままあたふたと会話している。「でも、ああ、この服じゃ行けないか」

 大型ショッピングモールDUSKOは大学がある山のふもとにあり、24時間開いている一階の食料品売場には夜な夜な学生達が虚ろな顔で彷徨うので吸血鬼との見分けはつかないらしい。

「夕食も買いに行けないでしょう?人間用の保存食もうちにあるから」

「そ、そうだね。そういえば、うちの冷蔵庫、買ったばっかりで、ほぼ空だし」

「じゃあ決まりね。うちにおいで」


 車は街灯のない僻地から、少し交通量のある通学路に合流した。それまでヘッドライトすらつけていなかったことに流子は気づいた。車は途中で民家すらない横道に入ると、ようやくステルスを解除し、ヘッドライトをつけて再度公道に合流した。監視カメラ対策だろう、これで監視する側にはこの車が突然現れたように見えるのだろうか?

 長い坂道を下りて町中に入ると、大通りに出た。視界が注釈で満たされる、眼が痛くなるほどに。電力ではなく燃焼と生物発光に彩られた看板が犇めく街。頭上は交錯し絡み合う導血腺で覆われ、タイヤが廃血溜まりを踏みつけた。

「でもね」タユタは信号で止まっている間に言った。

「今日みたいな個人単位で出来るゴミ掃除じゃ、もう間に合わないの。環境を咬錆から守るには、錆禍を止めるには。そして嗜血主義そのものを止めるには」

 個人単位?ゴミ掃除?流子は耳を疑った。

「エコバッグを買ったり、ゴミの分別をしたり、代替血液を飲んだり、増えすぎたノンネイティブのコロニーを殲滅する程度じゃ嗜血主義は止まらない。むしろ、その全ての行為が嗜血主義に取り込まれ、消費されていくの。それ自体をより一層肥え太らせるために」

 それは、入学式で聞いた演説とは違っていた。個人が出来る活動を称揚することも、嗜血主義を維持することにも、タユタは本心では価値を見出していないのだった。


 タユタのマンションは駅前の、人工筋肉を縒り合わせて作った鳥居のような奇妙なオブジェを見下ろす立地だった。その高いビルは流子から見ても下見に訪れたころから目立っていたが、一人暮らしの学生が住んでいるとは思い至らなかった。

 車はマンションの地下駐車場に乗り入れ、二人はエレベーターまで歩いた。タユタはパネルを非接触で操作した。高階層から籠が降りてくるまで、少し待たされるようだ。

「お腹すいた?」タユタが尋ねた。

「う、うん」

「わたしも……」

 タユタがそう言いながらボブヘアーを預けてしなだれかかって来たので、流子はなだめなければならない気がした。

「そうだね、あんなに動いたもんね」

 タユタの髪を撫でると、赤い絵の具を使ったあとの水彩筆を掃除するときを思い出した。

 廊下の壁の一部が大きな鏡になっていて、そこに二人の姿が映っている。吸血鬼の姿が鏡に映らないという迷信はもちろん19世紀には否定されていたが、今でも冗談として使われる。

「私だって内省reflectくらいする……」タユタがぽつりと言った。

 流子には正しい意味を取りかねた。やはりあんな破壊を繰り広げて、葛藤がないわけではないという意味だろうか?それとも、単に鏡に反射reflectするという意味で言ったのに、網膜字幕が違う漢字を充てた?このアプリは文脈まで理解しているわけではない。まして、流子にすら理解できない文脈を。

 流子は網膜字幕アプリを停止した。もちろん解約したわけではない。月額600BCの使用料を払ったばかりだし、これから使う機会も多いだろう。単に疲れたのだ。当然のことながらこの種のアプリは細胞のエネルギー通貨であるATPのほうも消費する。網膜の視細胞が酷使されると、不可避的に眼精疲労を発症する。それが、こういったアプリが、技術的には可能であるにも関わらず完全なVRや高解像度の動画に対応しておらず、あくまでARの範疇に機能を制限している理由だ。人間は依然として端末を使わなければならない。


 エレベーターに乗り込むと、タユタが用をなさなくなったマスクを外したので、流子もそれに倣った。エレベーターが上昇し始めた。地下から一階部分にかけてはシャフトの外側が外壁に覆われていたが、それ以降は全体がガラス張りになっており、外が見えるようになった。透明な箱はガス燈の明かりの集合体である地平線が見える高さに達した。

「いい景色だね……」

 流子は素直に感心した。注釈付きではない景色に。咬錆のせいで低動力のエレベーターの上昇はゆっくりで、その分この夜景を眺める時間がある。錆びて滅びゆくと同時に、化石を呼吸する街を。

「この街は好き?」タユタはそれを見ずに言った。

「まだわからないけど」流子は答えた。「ここに来なかったら、今夜みたいな経験一生できなかったと思う」嘘は言っていない。

「私も」タユタが流子の下顎に手をかけて言った。「今日あなたを見つけることが出来てよかった」

「えっえ?」流子の目が泳いだ。

「かわいい……」

「えっ――」流子の声は途切れた。タユタが自分の喉元に口づけしてきたので、声帯を震わせると気まずいと思ったから。

「怯えてる?さっきのせいで」固まった流子を観察したタユタが言った。

「わかんない。多分怖かったと思う」流子は正直に言った。

 本来死は人鬼問わず悲劇だが、数えきれないほどの規模となると麻痺してしまったようで、どう意味を解釈すればいいのかわからない。

「ごめんね。でも大丈夫、あれは全部吸血鬼ったでしょう。私は人間を傷つけたことなんてない」

 タユタは流子をドアまで追い詰めて、両手を壁について逃げ場を封じて言った。「ほら、こんなことしても」そして、流子の鎖骨のあたりを咬む真似をして、長い犬歯を当てた。

 流子は今、左の鎖骨を甘噛みされたまま、装飾のついた金属製のドアに押し付けられている。鎖骨ならたとえ噛み跡がついても学校でバレないだろうか?などとどうでもいいことを考えている。

 タユタは顎を動かさなかったが、代わりに体重をかけてきたので牙が流子の薄い皮膚を突き破ってしまった。タユタはそのことに驚いたかのように目を見開いたが、溢れ出る血を反射的に舐めたように見える。まるで零れた分を舐め取れば、すでにフリではなくなった行為が取り消せるとでもいうように。

「今……吸ってる?私の……」

「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったの」

 言いながら、服に血滴が吸われないように押し下げて、胸郭に沿って滴る雫を舌で拭った。

「ごめんなさい。違うの。ごめんなさい」

 タユタが息継ぎをするように謝り続けるので、流子は慰めた。

「いいんだよ。私もこうして欲しかった気がする」

 凪沙やタユタのように、自分の全てを何かに捧げたかった気がする。

「止血しないと」

 タユタは我に返ったように言って身体を離し、しかし流子から目が逸らせないでいる。

「いいよ、吸っても」

「え……?」タユタはさっきまでの流子がずっとそうだったのを真似するように、戸惑った顔をした。

「吸うなら、最後までして。血が無くなるまで。眷属の成り損ないだけは嫌だ」

「そんな……無駄になんてしない」タユタは頭を振って否定した。「一滴も。こんなに美味しい……」

 そしてまた、胸元に頭を預けようとしてきた。

「でも」流子はタユタの両肩をそっと押し止めて、まっすぐに目を見つめて言った。

「その代わり、なぜ私を選んだのか言って。人間だから?便利だから?かわいそうだから?それとも、血が美味しそうだから?そんなつまらない理由で?」

 人を簡単に切り裂くことが出来る夜叉を前にして、流子はなぜか強気に出ることが出来ている。二人の間に傷口が開いたことで、与える立場になったことで、力関係が逆転したような気がした。そしてはっきりと言った。

「つまらない理由だったら、おあずけ」

 タユタは息が詰まったような表情になった。その瞳は戦闘時ほど赤く光ってはいないが、かすかに中央部分に光が集まっていて、それが揺れていて、焦点が定まらない。困り眉で、苦しそうで、かわいそうなほど可愛く見える。

「もう言ったよ」タユタは喘ぎながら返答した。「私は言ったよ。美しいから、何も傷つけないから、そんなふうになりたいって。温室の合歓ねむの木みたいに……リューコみたいになりたいって。言わなかったっけ?」

 言ってない。それらは全て、植物について言っていたことだ。あれは、私のことを言ったつもりだった?彼女の中では、植物と人間が混同されているのかもしれない。人間が生き物のことを動植物とまとめて呼ぶように。彼女にとっては環境なのだ。

 そしてなぜか彼女は、その環境の中で最も自分から遠い物を愛するように出来ている。不幸なことに。

「もういい?リューコの血が欲しい」

 タユタが再度身を預けてきたのを、流子は遮らなかった。

「うん、いいよ」

 流子は誰かにこうして欲しかった気がする。ずっと前から。ただ願わくば、この時間が永く持続するものならよかったのにと思った。



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