4.攪拌


 太陽がどこか低い山の後ろに沈んで、ぽつぽつとガス燈が灯りだした。

 キャンパスの中央を縦断する公道を、敷地の奥のほうにある駐車場から用事を終えた学生や職員たちの自動車が下山していく。アセチレン・ランプを点灯させて前方の夕闇を照らしながら。

 生協のある建物から道路を挟んだ向こう側に、サークル棟が見える。楽器を練習する音などがここまで聞こえてくる。

 タユタが屋外に出られる暗さになった。もはや地球が逆回転しない限り、彼らを脅かすものはない。

「私はサークルを少し見学してみようと思うのだけれど」タユタが言った。「リューコも一緒に来る?」

「なんのサークル?」

「それが、実態がよくわからないの。吸血鬼限定ということしか」

「そんな怪しい所、なんで行くの?」

「怪しいから行くのよ」

 タユタはそう言って手首の内側を見せた。流子の端末よりも高精細な映像が、手首の皮膚の発光色素胞群に直接表示されている。周辺地図のようだ。

咬錆かみさび濃度のモニタリングサイトによるとこのあたりが赤くなっているでしょう。どこかに発生源があるの」

「ふーん」流子は汚染源には興味がないが、タユタの言うことなのでついていくことにした。


 ときおり通り過ぎる、帰路を行くヘッドライトを横目に、二人はテニスコートや駐車場のさらに奥、敷地の端に向かった。咬錆がそれ自体で人間に悪さをするわけではない。ただ、濃度が高すぎると被膜による遮蔽を貫通してくるので長時間いると端末が壊れる恐れがある。

 空が緑がかって見える。これは咬錆発生地点の上空でよくみられる現象で、この程度でも大気への影響が強いことがわかる。珍しく網膜に咬錆濃度についての注釈が出た。咬錆という単語を検索すると、異星からの惑星改造用非知性レプリケーターなどの俗説が表示された。信頼できないまとめサイトの参照だということも同時に。

 その暗い緑色の空を、飛行機雲が横切っていく。エアロゾルを散布して寒冷化させる、気候改変ジオエンジニアリング計画の一環だと表示される。今度の引用元は信頼できるソースだった。

「私ね」その煌めく軌跡を見上げながらタユタが言った。「人間の友達がずっと欲しかったんだ」

「へえ……」人鬼共学の高校などないのだから、今まで機会がなかったとしても無理はない。

「ごめん」タユタがかぶりを振って言い直した。「こう言ったほうが良かった。ナギサとリューコみたいな友達が欲しかったって」

 人間なら誰でも良かったという意味に聞こえたと思って、わざわざ言い直してくれたのだろうか?

「いいのに」

 私のことを特別だと思っているフリをしなくても。


 二人は目的の地点に着いた。まだ開発途中、道路の終わりだ。

 そんな林の中、廃屋と呼ぶには小ぎれいだが、ペンションやロッジと呼ぶには無機質な、低いコンクリートの直方体が樹々を押しのけて建っている。

 かすかに心臓の鼓動のような低音が聞こえ、建物の背後に赤く光る水面が少し見えている。底面の色が赤いプールだろうか?

「なんか私」流子は直感が告げたまま言った。「こういうところ無理かも」

「流子がいないと、私一人で入ることになるわ」

 それはかわいそうだ。できればそれは避けてほしい。凪沙と約束したのだから。

「大丈夫。一瞬で終わるわ。誰とも会わない、何も喋らない。暗いから誰からも見えない。一瞬覗いて帰るだけだから」

「そ、それなら。本当に一瞬だけだよ」

 そう、約束したのだ。壊れそうなほど繊細な彼女を守ると。

「ありがとう、リューコ。ところで雨具は持ってる?」

「レインコートなら」

「じゃあ、それを着て」

 流子は理由もわからないまま、スーツの上の薄手のコートのさらに上から透明な雨合羽を羽織った。

 入り口には黒マスクをつけた大柄な守衛がいて、タユタに一言だけ詰問した。

「それは?」

「これ?お弁当」

 タユタがそう即答したので、流子は耳を疑った。「はあ!?」

 門番は通れと首の動きで示した。

 タユタは心配ないというように微笑んだ。さっきのは侵入するための方便だろうと流子は納得した。


 入口から地下に続く階段を下ると、地上部分の建物はダミーであることがわかった。このように地図にない地下施設や地下道は他にもたくさんあるのかもしれない。

 門番は二人が最後の客だとでも言うように、逃げ道をふさぐように後ろをついてきた。いわゆる打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた暗く狭い階段の先には、開けたホールがあり、その中には数十体くらいの人影があった。上から揺らめく赤い光が差しているが、血のプールと照明を組み合わせたもののようだ。

 正面奥の壁面に掛かった大型の映像皮膜にビジュアライザーが映し出されていて、若者たちは音楽に合わせて身体を適当に揺らしている。最奥にはその音楽を統制するような作業をしている吸血鬼もいるが、円盤ではなく肉塊やそこから出た腱を操作している。人間用の音響装置では隠されている内部の有機パーツだろう。

「やはり、外部から来た下級氏族と眷属の溜まり場ね」タユタが観察して言った。

「サークルじゃないの?」と流子。

「全然。ここの学生は多分一人もいない」

 それを聞いて流子はなぜか安心した。

 手前には低いテーブルとソファーに座っている男女の吸血鬼がいる。タユタはソファーに座っている男に声をかけた。

「よい黄昏たそがれを」

 騒音がうるさくて本来なら聞き取れないはずだが、網膜字幕のほうが流子よりも上手く聞き取ってリアルタイムで文字起こしするので問題なかった。

 あまり一般的でない挨拶を受けて、男は無言でタユタを見上げた。主催者のような風格のあるその男の首元に、稲妻状に浮き出た血管が入れ墨のように走っていて、流子から見て正直怖い。

「ここの空気、錆臭くない?」タユタは微笑んだ。

 よく見ると、同じソファーで寝転んでいる女性は意識がないようで、首から血を流している。人間のようだ。同様に倒れている男女は複数いる。さっきタユタが言った〝集血システム〟に囚われた人たちはこのように扱われるのだろうか?もし勧誘についていっていたら、流子も今頃こうなっていたのだろうか?

 直接吸血された後にちゃんと契約して眷属になれればいいが、いい加減な契約だと屍喰鬼グールと呼ばれる状態になって手に負えなくなる。

「お前見たことあるぞ。有名な……」男は背もたれにのけ反った状態で逆さにタユタを見上げ、数秒間思い出す努力をしてから閃いたように言った。「環境保護をやってる〝菜食主義者ヴィーガン〟だ」

 直接生き血を吸わない吸血鬼のことを、蔑称としてそう呼ぶ勢力がある。代替血液のことはトマトジュースなどと揶揄される。あるいは、もっと下品な何種類ものスラングで。他人のライフスタイルのことは放っておけばいいのにと流子は思うが、ネットでは何故か、血を吸わない人間までその争いに参加しだすのだからついていけない。おそらく、直感的に自分でも参加できると思われやすい議論だからだろう。高度に専門的な議論などと違って。

「ここって咬錆の排出基準満たしてる?」タユタは呼び方を気にせず、周囲を見遣りながら言った。「ことによると地域全体の上限さえ越えているかもしれないわ」

「ここは自治区の外なんだよ。銀床市じゃない」男は怠そうに弁解した。

「入るときに検問がなかったから、無効。それに、排出源は周囲に人間保護地区がある場合も違法」

「これは市の監査か何かか?」

「いいえ。見学」

「じゃあ失せな。トマト啜りに出す酒は置いてない」

〝失せな?〟吸血鬼たちはなぜか、芝居がかったしゃべり方をする。タユタも含めて。吸血鬼たちがまるで英語あるいは中国語で思考してから日本語に直訳したような話し方だからそう感じさせるのだろうか?語彙レベルだけでなく、語順や主語の有無、倒置表現からして。そのせいで外国の映画を見ているような、非現実的な気分になる。とはいえ、網膜字幕が普及したここ数年、みんな日常的にそんな感覚に襲われているのだけれど。

「ええ」とタユタ。「帰ったら大学に報告しておくわ。敷地の境界線に汚染源があるって」

「うざ」男の横に座って何か赤い水蒸気を出す器具を吸っていた女の吸血鬼が言った。「さっさと追い払ってよ、スネイル」

 スネイル、それがこの主催者らしき男の名前らしい。綴りは表示されない。

「チクっても無駄だ」スネイルと呼ばれた男は溜息交じりで続けた。「国立大の地下にこれがあるってことの意味がわからないのか?国が黙認してるんだ。警察も所詮人間の組織だから何もできない」

「血液管理協議会が、吸血鬼主体の民間軍事会社PMCに対処させるでしょう。これはどうみてもBSC認証が得られる吸血行為ではないのだから」タユタは無感情に言った。

 軍事という単語に反応したスネイルは、面倒くさそうに立ち上がった。流子達より頭二つ分は背が高い。

「あのな、俺たちがやってるのは慈善事業なんだ。あんたの好きなSVGsよりよっぽどな」

「吸血権の転売が?どうして?」タユタは面白がるように首を傾げた。

「法による自由吸血の禁止はその価格を天文学的に吊り上げる。結果、哀れな貧しい人間たちは眷属になるチャンスを失うんだ。老いることのない身体を得るチャンスも、永遠に。そこで、俺たちみたいなやつが流通を手助けしてやるってわけだ。俺たちは法外な値段で売りつけてるように見えるが、全体としては価格を下げてるんだよ」

「その分、病気などで死の淵にあって緊急に眷属化を必要としてる人間に回ってこない」タユタは反論した。

「だが、俺たちは多くを救っている。あんたたちの有難がっているお題目のひとつ、貧困の解消。これを率先してやってるのが俺たちだ。病人だけじゃなく、皆が欲しがってるのさ、俺たちのひと咬みを。特別扱いはいけない。彼らの短い寿命の中で、眷属になれば残りの人生は安泰なんだから、誰もがその権利を欲しがるのは当然だよな」

「ああいう人たちも?安泰とは思えないけれど」

 タユタはダンスホールの方を指した。踊っていると思っていた人々もどこかおかしい。マスクもせず、ゆらゆらと夢遊病的に彷徨う者、音楽とは関係なく小刻みに身体を震わせる者。屍喰鬼グール化しつつあるのだ。

「もちろん、運悪く屍喰鬼になるやつもいる。でもそれは自己責任だろう。あくまで双方の自由意志に基づく契約の結果だ」

「それ、私が一番嫌いな言葉。〝自己責任〟」タユタが珍しく嫌悪感を顕わにした。

「対等な契約ってやつだ。あんたも言ってただろう、ご立派な演説で」

「ああ、あれ?あれは嘘」

「なんだって?そんなことを人前で言っていいのか?」

「ええ。誰も聞くことがない情報だから。あなたたちはここから出ない。二度と出ることはない」

「……」

 スネイルはタユタの言葉に不穏な含みを感じとったように、黙った。

 タユタは踵を返し、この場所に来てから初めて流子に正面で向き合うと、流子の顔の両横に手を回して、セミロングの髪の毛をレインコートの中に納め始めた。そして、後ろに垂れていた透明なフードを被せて言った。

「ごめんね。やっぱり他に方法がないみたい」

「え……?」

 スネイルは仲間の吸血鬼に向けて言った。「さっきの聞いたか?」

「字幕がないと聞こえないとでも?」グラスを飲み干した仲間の男が答えた。「人間様じゃあるまいし」

 そのテーブルを囲む吸血鬼は五体くらいいる。思えば全員がマスクをしていない。これが咬錆濃度の高さの原因だ。温室効果ガスで問題になるのは大規模な工場などであって、人間の呼吸の影響は微々たるものだ。それに対して、咬錆という物質の場合、なぜ吸血鬼という個々の生体の排出する程度の量が問題になるなどということがあるのか?それは頻出疑問だ。ここで、メタンという温室効果ガスについて考えてみよう。家畜の牛の消化器からのメタン排出量が温室効果にとって無視できない割合であるのと同様、吸血鬼の排出する咬錆も、温室効果と機器浸食にかなりの影響を持つのだ。

 という注釈は、本来ネットが遮断されたこの建物では読めなかったはずだ。タユタが赤外線で体内のライブラリから送ってきているのだ。わざわざ、こんな状況で、呑気に環境問題の講義?流子はタユタの袖を引っ張りながら後ずさりして早く帰ろうと促したが、微動だにしない。

 吸血鬼たちが苛立ちながら話している。

「何かの種類の脅しに聞こえたが」筋肉質な男の吸血鬼が言った。

「聞き間違いじゃないの?」パイプをふかした女吸血鬼が言った。「代替血液を飲んでるやつは非力で、人間並の力しかないんだから。自分が誰かを脅せるなんて考えるはずがない」

「だからこそ、ありえるんだよ。菜食主義者は頭の働きも鈍いから、勝ち目がないということもわからないのかもしれない」もう一人がふざけて言った。

「じゃあ、せめて自分の馬鹿さがわかる程度に脳を活性化させてやる必要があるな。グラスをよこせ」

 そう言って会話を切り上げたスネイルは、タユタの頭上にワイングラスから、おそらく血とブレンドされたカクテルを注いだ。

 流子と向かい合っているタユタの頭頂部から赤い液体が流れて滴った。周囲の吸血鬼たちはわかりやすく嘲笑の声をあげた。

 こんなことは物語の中でしか起こらないと、流子は思っていた。断血した吸血鬼と、快楽主義的な吸血鬼が、血を飲むことの是非について古典的な論争を繰り広げるなんて。でも、同じような争いは現実に何度も起こってきたのだ。家畜の肉を食べるかどうかの争いとして、人間の使うネット上で、より卑近な形で。様々な本能的欲求の発露や規制について、個人のライフスタイルに関わるいずれの問題でも、同様の議論やそれ未満の醜い罵りあいは繰り返されてきた。

 タユタは相手に背を向けて、無言で流子のほうを向いていたが、垂れた髪の毛とマスクで表情がよくわからない。

「どうだ?生き返るような気持ちだろう」 

 スネイルは晴れやかな顔でそう言うと、明確に流子を指差して言った。「ところで、その血液袋は置いていくんだよな?」

 タユタは何も返事をしなかった。

 その代わり、身体を素早く翻して、先程まで論敵だった相手の胴体に何か不吉な音を響かせた。タユタは自身の右の拳を相手の胸に貫通させていた。胸骨を破壊して背中側に突き抜けた右手は孵化した寄生生物のように蠢き、そのままでは飽き足らず、あろうことか引き返して背骨を掴んだ。スネイルは苦痛のあまり絶叫し、ビクビクと痙攣した。流子の位置からはよく見えないが、何か黒い砂鉄のようなものが背骨に沿って集まっていき、金属が軋むような音がした。背骨が何か別のものに作り変えられているといった印象を受けた。

 スネイルは膝をついた。タユタはそのまま右手に握ったものを引き抜くことに決めたらしく、相手を片足で足蹴にしながら力を込めるに従っていくつもの血管や神経が引きちぎれていく音がした。周囲の吸血鬼も流石に異常に気づき、しかし唖然としながらその儀式を見つめている。

 栓が抜かれたように勢いよく、男の首から脳天にかけてを左右に両断して現れたのは、背骨ではなく一振りの黒い刀剣だった。鍔こそ無いが、今鍛造されたばかりのような鋭利さを湛えながら、高く掲げたタユタの手に握られている。破壊された肉体は噴水となり、天井に反射した血は驟雨となって降り注いだ。

 吸血鬼たちは呆然としていたが、そのうちの一体が我に返ったかのように、仲間にむけて言った。

「お前ら、今すぐ契約しろ!血を全部使え!」

 呼応して、奥のほうの天井のスプリンクラーからプールに蓄えられていた血が噴出した。夢遊病者たちはそれを貪り飲んで、屍喰鬼化を決定的に不可逆的なものにした。

 契約された屍喰鬼たちは、主人である吸血鬼の敵を認識して襲い掛かる傀儡となる。加えて、吸血鬼たちも武器を取って自ら戦おうとしている。タユタを敵意を持って取り囲む、吸血鬼と屍喰鬼たちの瞳が一斉に、一群の警告灯のように赤く光りだした。長く伸長した牙をむき、獣のように吠える。人間よりも顎の可動域が広い気がする。屍喰鬼たちの黒い爪は突然成長して、凶器と呼べる形になった。

 誰が合図するともなく、群れは唯一人の外敵を排除するために襲い掛かった。


 それからのことは、流子が仔細を目で追えるものではなかった。

 屍喰鬼たちが殺到する先、つまり部屋の中心には何か跛行する肉挽き器のようなものがあり、それが回転するたびに血飛沫が上がり、壁を赤く染めていく。

 肉挽き器は血煙の向こうで少女の形を取ることがあり、刃以外にもあらゆる身体部位を、彼女の敵の急所にめり込ませ、引き抜く過程のどこかで破砕していった。

 部屋全体が一つのブレンダーとするなら、彼女はブレードだった。臓物は床を滑走し、肉片は壁画のマチエールとなった。金属音の後には、そこに破損した敵の武器が刺さった。

 タユタが今もつけている黒いグラフェンマスクは消費された算素との反応で部分的に赤熱し、発光している。そのギザギザのコントラストによってマスクの印象は変わり、喩えるなら無数の牙を剥いた般若のような烈勢面頬、あるいは羽を広げた蝙蝠の意匠のように見えている。

 立ちすくむ流子に襲いかかろうとする者もいた。流子の顔を鷲掴みにしようとする男の両手が寸前で主を失い回転しながら宙を漂い、首筋に噛みつこうとする女の顔が次の瞬間には仮面のように天井に張り付いているといった、因果関係がよくわからない現象が起こっていることは、無理に解釈すれば流子が無傷のままでいられるように、移動する嵐によって守られているという意味づけが可能だった。しかしそれは壁のシミに顔を見出すような無意味な曲解にすら思えた。この騒乱は単なる自然現象として捉えたほうがまだ意味を成すように思えた。


 心臓の鼓動のようなキックを基底とした音楽が突然終わり、余韻のように空を切る音と澄んだ金属音が続いた。それはタユタがカタナを羽ばたく蝶のように振ることで血払いする際の小気味良い風切り音と、逆手持ちのまま石造りの床に突き立てた硬質な音だった。その後にようやく静寂が訪れた。刀を杖として片膝立ちになったタユタはマスクの中で荒い息を吐き、肩を上下させている。そのたびにマスクの通気部分が火の粉を吹く。流石の彼女にも、息一つ乱さずこの量の人間サイズの肉塊のすべてを解体して壁と天井に張り付ける作業をこなすことはできなかったようだ。


 すべてが過剰で、埒外で、流子が情報として処理できる限度を超えていた。

「し、し、シラバスは汚れてないかな?」

 流子はレインコートに覆われていなかったリュックを下ろして、中身である今日もらった授業計画書をチェックし始めた。そういえば教科書も買ったことを忘れていた。かばんには防水処理がされていたのでそれら冊子類と本は無事だった。スーツに合わないかと思ったが、気取った手提げ鞄ではなくリュックにしてよかった。これは雨天での自転車通学を見越して買ったものだった。大学の下見のとき、キャンパスへ向かう長い坂道を立ち漕ぎで登る学生の姿が見られたからだ。等間隔のポプラの木の向こう、遮光通路に沿って、バスと並走しようとする彼ら。車を持つ予定のない流子にとってはそれが未来の自分の姿だと思った。天井から新たに血滴が垂れてくるまえに被せを閉じた。

「も、もう用事は終わったの?これ」

 流子の口はかろうじて、早く帰りたいという意味の文章を発した。

 タユタは立ち上がって、静かにこちらに向き直った。その瞳は対の銃口のように赫灼としていたが、ゆっくりと熱を排莢してもとの青紫に冷えていった。マスクも延焼し尽くしたように、燻るような音を立てて元の黒一色に戻りつつあった。

「ええ」タユタは答えた。「すぐ終わったでしょう」

「そ、そう?すぐって言ってたもんね。うん。じゃあもう帰る?帰ろっか?」

「うん。帰ろう」

 部屋の中央には、墓標にしては華奢すぎる一振りのカタナだけが残された。それはすでに自壊を始めており、鏖殺の凶器としての痕跡を消そうとしていた。

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