3.錆禍


 端末の滑らかな皮膚を撫でて、〈LUMEN〉に短文を書き込んで居場所を伝えると、凪沙は今から向かうとすぐに返信してきた。


 ルーメン《LUMEN》。このアプリの名称の由来となったラテン語の単語lumenは、血管などの管の意味を持つ。しかし、luminousなどの派生に見られるように、〝光〟〝明るい〟などの意味も持つ。これは一見関係のない同音異義語に見えるが、「空洞」「明かり取り用の開口部」と連想していけば、共通の概念を起源としていることがわかるだろう。なお、牛の第一胃はrumenなので全く別の単語である。

 流子には単語の語源を調べるという癖がある。趣味とまでは言えない。言葉を好きなのかといえばそうではなく、言葉が記号として対象との結びつくその仕方の恣意性に耐えがたい不安を誘われるので根拠を調べてしまうのである。むしろ流子は言葉を信頼していない。〈網膜字幕〉アプリを買ったのもそれが理由だ。アプリによって視界に入る文字列に常に注釈を表示させている。そうしなければ錨が外れて言語全体がどこかに漂っていきそうになるから。

 最近まで受験生だった流子にそんな余力があったのかと言えば、この性癖に時間を使ったほうがむしろ効率的だった。単語は単語帳で覚えるよりも文脈という網目ごと覚えたほうが易しく、脳とは扱う情報量が多いほど覚えやすいという一見矛盾した特性を持つ記録媒体なのだから。


 合流した流子と凪沙が約束通り食堂で昼食を取ることにすると、なんとタユタもそれに加わりたいと言った。二人に断る理由はなかった。

「私達なんかと、本当によかったんですか?揺蕩さん」食器トレイを持った凪沙がおずおずと言った。

「入学前からここで食事をしてみたかったの。私、食券器のあるお店って初めて」

 タユタはそう言って、決して豪華とは言えないメニューの前で目を輝かせた。定食と血液パックが同じ食券器で扱われているのは流子にとっても新鮮だった。普通は店舗ごと別なのに。

 タユタはオーガニック血液パックのボタンを押した。血液にとって、〝有機的オーガニック〟であることは何を意味するのだろう。流子はタユタのチャンネルで血液パックの紹介動画も見たことがある。それによれば、人間に薬物などを与えて血液の成分を変えたり、算素の生産量を強制的に上げたりしていないもののことをそう呼ぶのだと言う。


 三人は明るい窓際の席に座った。太陽光から、紫外線より短波長の電磁波と一部の可視光を遮光した窓からの光は吸血鬼の肌を傷つけない。全面がガラス張りで、キャンパスを歩く学生達を見下ろすことが出来る景色だ。

 文系学部区画は周囲より一段高いので、大学会館の二階にある食堂からサークル棟や理工学部棟、さらに向こうには半ば建設中の自然科学館が見える。いわゆる文系棟と理系棟はそれぞれ二つの小島のように別々の高台に位置しており、遮光連絡通路で繋がれている。全体としては広いので、端から端に移動する用事がある場合は車を使う生徒もいる。

 銀床大学は郊外の小高い山の中にあり、交通の利便性を放棄したことで得た広大な土地を使って年々施設を増設している。海外では最初から地下に建設されることも多いが、この校舎の建設が始まったのが前世紀だったので、既存の校舎を拡張していく形となっている。


「揺蕩さんって何学部なんですか?」凪沙が訊いた。

「理学部環境システム学科に入ったけれど、ずっとこのままかはわからないわ。環境問題には社会的アプローチも必要かもしれない」

 学科の選択は二年次という大学もあるが、ここでは入学時に決まる。その分、変更もある程度自由となっている。

「私も理学部の、生物学科なんです」凪沙が奇遇というように言った。

「わ、私は文学部文学科……」流子はなんだか申し訳ない気持ちで言った。「私も理系にすればよかったな」

「文学部でいいじゃん。私だって文系のほうがラクでよかったよ」凪沙が冗談めかして言った。

「もしその気になったら、いつか理転すればいいわ」タユタが提案した。「でも、リューコは理由があって文学部に入ったのでしょう?本が好きだからとか?」 

 この集まりの主役はどうみてもタユタであるべきなのに、いきなり流子を主題にさせてしまって心苦しい。

「わかりません。本の内容より装丁に興味があるから、色彩検定を取ろうかなと思ってますけど。今のところは……」

「色彩検定?なぜ?」

 本当だ。なぜ文学科で?自分でも意味をなさない。

「ほんとなんでこの大学入ったんだよこいつって感じなんすよ」凪沙が茶化した。「私について来ただけなんじゃないかって」

「いや、奨学金とかあるから……」

 とは言ったものの、おそらく凪沙がいうとおり、彼女についてきただけというのが正しいのだと思う。


 凪沙はすごい。だから凪沙についていけば間違いないと思った。可能な限りずっと。

 しかし学部までは追従することが出来なかった。その障害となったものの一つは、〈錆禍さいか〉ということになる。それは流子が子供のころから世界が無視できない問題になっていた。

 大気中に普遍的に存在する咬錆かみさびという微小物質は、金属にとりつくと、電流を自身のエネルギーとして利用しながらその金属を分解する。それはつまり、建造物の鉄骨や人間が持つ小物などには影響ないが、あらゆる電力で動く機械が錆つくということだ。

 そんな中で電子機器を使うには、咬錆から通電部を隔離する必要がある。しかし、一見完璧に遮蔽しても錆が貫通するように見えることがある。それは、材料に使われた物質に含まれる算素原子も咬錆の影響を受けるからだ。

 錆禍によって電子機器がほとんど使えなくなってから、全国の大学の理系学部は再編を迫られた。文系学部は本体が図書館のようなものなので、最悪でも本さえあれば存続できるが、実験機器はそうではない。咬錆を完全に隔離しなければ機器は動かないが、そのせいで設備は大掛かりになり、個人単位での研究は難しくなった。

 錆禍は文明そのものを蝕んで後退させる災害だが、文系理系という、もはや古臭いと言われる区分を可視化し、理系分野を吸血鬼の物にしてしまった。

 吸血鬼は血中算素を使った各種計算が得意で、しかも眠る必要がない。無眠人スリープレスと呼ぶ向きもあったが、彼らはヴァンパイアという名称を誇りに思っているのであまり使われない。作業時間を二倍確保できる彼らが再編後の理系学部を独占している中、人間の身で理系に進んだ凪沙を、流子は単純に尊敬している。流子は自分がそのような競争に身を投じるという発想すらできなかった。


「凪沙は」流子はその凪沙に話題を振った。自分のことから話題を逸らすためという意味もある。「人工血液の研究がしたいって言ってたよね」

「そうなの?すごい」タユタが興味を示した。

「いや、少しでも関わりたいってだけです。恥ず……」凪沙が赤くなった。

 凪沙はタユタに対して敬語だ。同学年なのに。流子はもうタメ語でいいと思う。なぜならもう手を繋いで短くない距離を歩いたのだから。敬語では逆によそよそしさを出してしまうだろう。

「いいえ、立派だわ。代替血液の開発は、鬼新世最大の難題と言われているものね」タユタが言った。

「代替血液っぽいものって、もう売ってるんじゃないの?」流子は聞いた。

「私が今飲んでるようなものは、宣伝文句として〝オルタナティブ〟血液と書いてあるけれど――」タユタは緑色の文字がラベルされ、BSC認証のついたパックを持ち上げて言った。「到底その名を冠するに値しない。人工的に合成されたのは栄養素の部分だけ。どれも必ず一定量の人間の血液を使ってる」

「なんで?全部人工品じゃダメなの?」流子が訊いた。

「吸血鬼は、単に成分や栄養素だけを天然の血液と同じにした人工血液を飲むだけでは生きていけない。もちろん動物の血でもダメ。血中算素が人間の体内で利用可能な状態にされていないと」

「そう簡単に代替血液が出来たら、吸血経済なんて必要ありませんからね」凪沙が同意した。

 たしかに吸血鬼が動物の血液でも生きていけるなら、人間に対する吸血行為は、ほとんど発生しない世の中になっていただろう。それは家畜の肉で生きていける人間が、わざわざ人肉食に手を出すことに近い、禁忌を破る異常嗜好として扱われていただろう。まして、直接吸血となると犯罪行為と見做されていただろう。

 血中算素。それがキーワードとなることはわかる。でも高校ではそれが酸素に似た元素であることしか教えてくれない。


 ところで、今流子にとって重大事件は鬼新世の環境憂愁ソラスタルジアではなく、フォロワー200万人のインフルエンサーと一緒にいるという事実のほうだ。食堂が空いていなかったら、食事どころではなかったのではないか。

 こういうヒトに会ったらどう言うか、脳内シミュレーションをすることがある。(あの、動画見てます。あ、全部ではないんですけど。8割見てます)このようになるのは、エアプと思われたくないからだ。いや、単にファンですのほうが無難だろうか。


「でも、なんとか出来ないかなと思うんですよね。代替血液」と凪沙。

「よほどのブレイクスルーが起きない限り難しいらしいわ」とタユタ。

 タユタは翻訳文学のような喋り方をする。~だわとか、~なのよとか。とはいえ、気取っているとか風変りな印象は受けない。網膜字幕で自動翻訳を日常的に見ていると、そのほうが自然に聞こえるようになってくるからだ。検体の性別が無関係になった吸血鬼は、役割語を郷愁まじりの冷やかしで使っている風でもある。

 凪沙が思案顔で言った。

「算素の内部構造がわからない限りは難しいですよね」

「ええ。算素は実際は何なのかという問題」

「そうなんだ。何なんだろうね」

 流子は紙パックの野菜ジュースを飲みながら適当に合わせた。自分がどれくらいのファンかを伝えるタイミングが掴めないまま、タユタと凪沙は専門的な話に入ってしまった。凪沙も誰かとこういう話をしたくて脳内シミュレーションしていたのかもしれない。ならば邪魔するべきではないだろう。

「算素は……咬錆の表の顔って感じ」タユタが軽く頬杖をついて言った。「厄介者が行儀よくしているときの姿」

「それは習ったよ」流子は言った。さすがにそれはわかる。「人間が算素を作って、吸血鬼がそれを摂取して咬錆として排出する」

「ええ。そういう分子レベルでの移動は、体内での流れも地球大気内の循環も、問題なく追跡されて、定量的に測定されて、理解されているわ」

「じゃあそれ以上のことは今どこまでわかっているんですか。英語の論文が多くて、追えないんです。私英語は苦手なので」と凪沙。

「私は得意だよ」流子はドヤ顔で言った。

 凪沙は流子を無視して言った。「やっぱり、ただの酸素同位体ではないのは確定なんですよね?」

「ええ。そもそも算素は、あまりにも酸素に似ているからそう名付けられたけれど、前世紀までは存在すら知られていなかった。化学反応の過程では酸素原子のように振る舞うから。

 それは通常の酸素分子と同様に空気中から肺に取り込まれ、赤血球によってミトコンドリアまで運ばれ、化学エネルギーを解放した後は、二酸化炭素の形にさえなる。中性子二つ分重いという特徴はあれど、酸素同位体と誤解されてきた。まるで擬態しているように。実際には、原子ですらないのに。似ているのは外見だけ。算素の内部構造は既知の原子とは全く異なる。電子雲の中に中性子ハローによる二層目の雲があり、それが原子核に似た構造を取っている。その殻を通して中性子と陽子の出入りがあり、限定的な元素変換が行われているけど、原理は不明。フェムトマシンと呼ぶ人もいる」

「……?」

 疑問符が顔に出ている流子に向けて、タユタは一般向けと思われる説明を始めた。

「人間たちは過去に、無限に自己複製して地球を食べ尽くすナノマシン――グレイ・グーによる終末というアイデアを弄んだそうだけれど、算素はそれより五桁もスケールが小さいフェムトスケールのマシンだった。それがもたらしたのは、もっと奇妙で複雑な、とはいえストレンジレット(全てを同化してしまう仮説上の素粒子)というアイデアよりは限定的な、緩慢な破局という事態だったというわけ」

「原子核スケールの話になると、生物学や化学の領域ではないですね」と凪沙。

 今考えると、凪沙は専門的な話をするとき自動的に、オタク特有の早口で丁寧語になる。今はその状態なのかもしれないと流子は思った。

「でも、算素が動作するのは血の中なのだから、そこは生物学の領域になる。それに、もし血中算素について本気で研究するなら、〈素粒子生物学〉という分野になるでしょう。それはほとんど物理学なのに、研究倫理の問題で生物学に入れられている」

 流子は愛想笑いをしながら話を聞いていたが、やはり内心ではいたたまれなくなってきた。この人たちは自分より数年先を生きているのだろうか?流子には大学院に進むという発想もなかった。

 その様子を察したのか、タユタが流子のほうを見て言った。

「私も実は、生物学のほうが好き。いつか植物を研究してみたいと、ずっと思っているの」

「植物……?」意外な組み合わせに流子は聞き返してしまった。

 吸血鬼と植物?イミディエの写真を見てから違和感が拭えなかった二者間の関係。人間を介してしか繋がりがないはずの、頂点捕食者と一次生産者。生態系の中で位置が遠すぎるし、色相環の中でも同様に補色だ。混ざり合わない赤と緑。そのはずだった。しかし、環境保護を訴える吸血鬼というパレットの上では、奇跡のように加法混色されている。

「私ね、時々植物になりたいって思うの」タユタがぽつりと言った。

 緑色のラベリングがされた、再生可能な血液パッケージを、申し訳無さそうにか細い指で包むタユタ。

「吸血鬼である自分が嫌でたまらないときがある。なぜ他の動物から血を奪う生き物として生きているんだろう?こんな寄生的な生のあり方に私達を導いたのはなんだろうって」

 凪沙も流子と同じく、息を呑んだように手を止めて見つめている。長波長に濾過された日光に照らされて、懺悔するように言葉を選んでいる夜の種族を。

「お陽さまの光を浴びるだけで――もちろん私が浴びすぎると死んじゃうんだけど――何も食べずに、殺さずに、傷つけずに生きていく存在として生まれなかったのは何故だろう?どういった種類の呪いが生の様態を押し付けるんだろうって」


 そうか、吸血鬼が夜を生きるのは、暗闇に乗じて人を襲うためではない。太陽という無償の贈与、何も見返りを求めない恩恵の奔流を嬉々として利用する植物ほど無邪気ではないから、惑星の影に隠れているのだ。まるで到底返礼しきれない贈り物を慎み深く遠慮するように。



   ***


 帰りのバスの時間だという凪沙を見送るために流子は屋外に出た。まだ日は沈んでいないので、タユタは外に出てこない。日陰で流子を待っている。まだ一緒にいてくれるのだろうか?なぜ?


「バス停まで遠いから、ここでいいよ」凪沙は言った。「早く戻ってあげて、あの子のところへ」

「うん。でも、私もすぐ帰るつもりだけどね。歩いて」流子は下宿が近いので、徒歩で来たのだった。今後は自転車にするつもりだが、今日はスーツだから。

「あの子、本当にいい子だった」凪沙は夕日の逆方向の空を見つめて言った。

「うん」

「……大事にしてあげてね」

 凪沙がぽつりとそう言ったのが、流子には意外だった。

「ええ?凪沙のほうがしゃべる機会あるでしょ、これから」

「大事にしなきゃってことだよ。私達が」

「ふうん」よくわからないが流子は同意した。「そうだね。また三人で食事できたらいいね」

「うん。また今度」

 流子は凪沙の後ろ姿を見送った。

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