2.FatChewer

 入学式が終わり、流子と凪沙はキャンパスの外縁部にある大型多目的ホールから出た。スーツ姿の新入生の集団のうち、人間は灰色の空の下、吸血鬼はホールに連結した渡り廊下に、冷気に触れた熱素のように、それぞれ散逸していく。二人はバス停に向かって帰宅する一群と逆方向、キャンパス中央に向かい、生協の売店を見に行くことにしている。まだどの授業を取るか決めていないとはいえ、確実に取ることになる必修科目の教科書を先に買ってしまってもよいとしおりに書いてあったからだ。

 習慣的に端末をチェックした凪沙が言った。「もうバズってる」

 流子も立ち止まって自分の端末を見た。タユタの演説はすでにファッチュワーでトレンドの2位に上がっていた。FatChewer《ファッチュワー》。このSNSの名称はchew the fat=「愚痴をこぼす」「くだらないおしゃべり」という意味の慣用句に行為者接尾辞をつけて名詞化したものとなっている。この慣用句はchatの押韻俗語でもある。文字通りに直訳すれば「脂肪をしゃぶる」ということになるのだが、語源の出どころには諸説ある。船乗りが航海中に塩漬けの豚肉の脂身を噛んで気を紛らせていたのが元だとか、軍人が塹壕の中で噛んでいたとか。とはいえ近年では屍食鬼グールによるカニバリズムが語源だという俗説を信じる人が多くなってしまった。

 ちなみに、トレンドの1位はV-Vesselerの名前だった。(V-Vesselerとはバーチャルユーベッセラーの略、つまりユーベッセルという動画配信サイトで自身の表情筋と顔パーツを連動させた架空のキャラクターの外見を借りて配信する配信者のことである。Vesselは血管あるいは単に管のことであり、テレビの原理となったBraun Vessel(ブラウン導管)の名残り。

 血中算素を用いて顔面の内部の筋電位をモニターし、口腔や声帯、横隔膜にまでモニター範囲を拡大することで架空の声帯で発声することが出来る。過去のモーションキャプチャーやボイスチェンジャーよりも、演者の発する身体情報の伝達ロスが少ない。その技術はNerveRigと呼ばれ、MetaVeinと呼ばれるVRチャットにも利用されている。

 トレンドの3位は〈攪拌者グラインダー〉なる環境テロリストについてだった。常に残虐な手口で破壊活動を行う、その個人あるいは組織についてのニュースは陰鬱なので、流子はリンクを開かないことにした。


 トレンド2位の記事からリンクされたニュースメディアは、次のような見出しでタユタについて報じていた。

『環境活動家の揺蕩さん、SVGs理念の支持を表明(世界SVGsランキング13位の大学入学式にて)』

 たった一人の人間保護派吸血鬼の動向が、なぜトレンドになるほど注目されているのか?それは5年前にタユタがきっかけで始まった一連のネットデモのせいだろう。wikipediaによると、タユタは自らの動画配信チャンネルで、途上国に建設された〝人間農場〟での不当な過剰搾血によって生産されたという疑念が持たれた血液パックの不買と、該当企業からの商品の購入の停止を訴えた。単に言葉で訴えるだけではなく、説明がなされるまで自身が吸血を絶つというストライキを一度も配信を切らずに中継し続けるというものだった。

 禁欲的に断血して弱っていく吸血鬼というのは使い古されたイメージではあったものの、メーカー本社の正面、高層ビルの間を繋ぐ遮光渡り廊下の底面から昼夜問わず蝙蝠のような装備でぶらさがる様子は活動家のイコンとなった。遮光装備の奥で光る目は監視者の象徴であり、実際に罵詈雑言を浴びせる社員、差し入れと称して別の不正な血液を置いていくライバル企業の重役の姿など、二週間にわたるストライキ中に起こったすべてが配信された。

 それがバズったことで起こった不買運動による売上の低下は12%だったが、メーカーが慌てるには十分だった。結局不当な搾血が無かったという十分な証明は結局なされなかったものの、この事件を境に、各企業はこぞってBSC(Blood Stewardship Council)認証を取得し、店頭に並ぶ血液パックには一斉に環境ラベルが刻印され始めた。とても見やすい位置に、箔押しで。

 企業のスポークスマンが皆バッジをつけだしたのもその頃から。それ以前から各国が環境保護に労力を割いていたものの、人間に負担を強いる旧来的な吸血がダサいという潮流を、若い吸血鬼の間で完全に定着させたのはタユタと言っていいだろう。

 記事の下部には698件のコメントがついていたが、流子はそのタブを開くのはやめておいた。もしアンチコメを見てしまった場合心が疲れるからだ。


「生協の学食でご飯食べてみる?」

 同様に端末を見ていた顔を上げて、凪沙が訊いた。

「あそこの食堂って、入っていいのかな?」と生協の二階の学生食堂を見やる流子。紫外線遮光ガラスのせいで赤褐色を通してだが、中の様子は見える。

 遮光ガラスはちょうどサングラスのように暗い褐色のものが多く、市街地の高層ビルは灰色とオレンジ色の斑模様を呈している。しかしこの大学は何を思ったか外壁を赤いレンガ造りで統一してあり、ガラスもそれに合わせて赤みが強い。それらの色は大抵が酸化鉄由来であり、構造色以外の赤色の起源としては一般的である。

「もうここの学生だしいいでしょ」と凪沙が言ったが、流子が懸念したのはそこではなかった。

「人間が入っていいのかな?って意味だったんだけど」と流子。

「人鬼共用の食堂らしいよ」と凪沙。

「えっすご」人鬼共用の外食施設は、大都市に数件しかないという。興味を惹かれた流子は同意した。


 生協の一階の屋根付き広場は、学期中ではないにも関わらず賑やかだった。新入生が来ることがわかっている在学生たちが、サークルへの勧誘に勤しんでいる。彼らのマスクは表面が映像皮膜になっており、NerveRigによってトレースされた実際の表情筋の動きを反映した、戯画化された口を表示している。アニメ的な人間の口、あるいは動物の口吻、黒地にネオンサインの落書き。自分の写実的な顔を表示することは可能だが、不気味になるので避けられる傾向にある。

 いくつかチラシをもらい、売店の手前に来たところで凪沙が自身の端末を見ながら言った。

「あ、血中算素が足りないわ。一応下ろしてくる」

「ATM《Automatic Transfusion Machine》?一緒に行こうか?」

「いい。先に買ってて」

 昔はどんな行動でも二人足並みを揃えていないと気がすまなかったが、近頃は凪沙のほうがそれに拘らなくなった。

 一時期などは友人グループと、常に音声通話を起動させて勉強していた。それは常に会話が出来る状態にありながら、無言を共有する時間だった。相互受動性によって実際に集中できるので効率的だったが、親世代から見ると不気味だったらしい。

「じゃあお先に」流子は一人で教科書を購入することにし、書店付きの売店に入った。

 平積みにされた教科書を数冊取り、セルフレジに並ぶ。手首の内側の、赤い痣のように見えるシングルポートを、レジにある血済端末のプラグ部分に触れさせる。たちまち血が採取されて透明なチューブを流れていくのが見える。吸血鬼による噛み跡を模したポートは血液脳関門以上のセキュリティを持つので、体外に露出していても細菌に感染する恐れはない。という説明があっても、流子は衛生的に不安になったので調べたことがある。わかったのは、ウイルスに関しても、ポート部分の細胞表面の受容体タンパク質が既存のどのウイルスとも結合しないということ。吸血鬼の噛み跡というのはいわば、人体において局所的に鬼類の細胞を植え付けられた腫瘍のことなのだ。

 もちろん、うっかり痣を刺激すると血がダラダラ漏出するということもない。不正な採血の気配を察するとポートは硬化し、表面は角質化してしまう。そうなると見栄えも悪いし、通常状態に戻す申請が面倒である。


 流子はポートから滴るわずかな血をウェットティッシュで拭って袖で隠し、教科書をカバンにしまった。この工程はもっと短縮できただろう、そうしようと思えば。暗号通貨であるBCに直接の血液の移動は本来必要ないのだから。だが毎日人体が生産する血液は俗に言うログインボーナス、日用品のためのクーポンとして使用できるので、中央心臓局に直接納血するか通貨として使うかの違いしかない。その日限りの、貯蓄できない配当金。嗜血主義が再分配無しにベーシックインカムを実装したと言われる所以のひとつだ。


 売店から出て端末を起動しようとその被膜を撫でた流子に、女性が話しかけてきた。

「すみません、新入生のヒトですか?」

「はい」流子は正直に答えた。マスク越しに相手が穏やかな笑顔だということがわかる。女性の背後には二人男性がいて、三人組で動いているようだ。新入生には見えない。あと全員に共通しているのが、服のセンスが無いということ。良くないのではなく、無いのだ。

「あっよかった」二人の男性のうち一人が話を引き継いだ。「今僕たち、新入生の支援をやってて。今って錆禍で、同級生と知り合いになる機会が少ないと思うんだよね」

 それが事実だと思った流子は同意した。

「あぁ……そうらしいですね」

「全部遠隔授業、遠隔吸血で、人鬼交流も全然できない」

「そう聞いています」

「そういう状況を打開するために、僕たちは学生同士の交流会を設けてるんだよね。

といっても、社交が苦手な人もいるだろうから、単なる連絡会と思ってもらってもいいよ。たとえば授業ノートを取り忘れたとか、履修登録なのに寝坊したとか、そういうときに助けてくれる人がいないと単位を落としちゃうからね。わかる?そういう友達を見つける機会が、遠隔授業だとほとんど無いと言っていいんだよ」

 男性は早口でまくしたてたが、内容は一理あると流子は思った。

「はあ、それはたしかに」

「じゃあ新入生説明会に来る?近くの会場なんだけど」

「でも、今は友達を待ってるんですけど」

「友達かぁ。友達も一緒に来るといいよ」

「ええ……?」

 従ったほうがいいのだろうか?この先輩に?皆これに参加しているのだろうか?そんな規模だとは思えない。これは実際何の勧誘なのだろう?

「ええと、これってサークルとかですか?」

「まあ、サークルのようなものだよね」

 ようなもの?あやしい。早く会話を切り上げたいが、生協の前は人通りも多いのに、誰も助けてくれる様子はない。それに流子の中では、有益な誘いかもしれないという迷いも少し残っているのだ。

「あの……ちょっと今は、その……」断言できないまま壁沿いに横歩きする流子は、遮光通路の出入り口に差し掛かった。次の瞬間、流子の身体は背後に引っ張られていた。「ひっ」

 転びそうになったその身体を、誰かが抱き留めていた。遮光通路の闇から伸びたその冷たい手は、凪沙のものであるはずがなかった。ワンレンボブカットの簾の向こうの菫色の瞳が、流子を見下ろしていた。

 流子はそのとき、自分は今ここで、人生で初めて直接吸血されるのかと思った。その吸血鬼は片手で自分のグラフェンマスクを半ば下すと、注意深く匂いをかぐように、なかば仰け反った姿勢の流子の喉元から顎まで、鼻先を近づけたまま移動させた。そして、何かを確認した合図のように微笑むと、ささやいた。

「ごめんね。待った?」

「たっ」流子は相手に重心をゆだねたまま、目を瞬かせるしかなかった。防錆マスクのある生活では、自分の社交的表情を明確にするために声を出すことで補うしかない。しかし、こんな状況では何を表明すればよいのだろう?流子は相手の名前を呼ぶことしかできなかった。「タユタ……さん?」

 勧誘していた若者たちは、目に見えて狼狽し始めた。「タユタ?あの?」「と、友達というのは、その方だったんですね」

 流石に吸血鬼を勧誘することは出来ないであろう彼らは、そそくさと去っていった。しかし、周囲の視線が自分たちに集まっていることに流子は気づいた。遮光通路の矩形の出入口を額縁のように、クリムトの絵画のように固まった二人の方向に。

「行こっか」

 タユタはそう言うと流子の重心を返却して直立させ、そのまま手を取って通路の奥へ進み始めた。

 流子を牽引しながらタユタは言った。

「あれはね、ダミーサークル。実態は反吸血カルト。昔からある勧誘だけど、錆禍の不安につけ込む手口は巧妙ね」

「えっ?でも新入生説明会って……」

「それは嘘でしょうね。彼らが現役の学生かどうかも怪しい」

「じゃあ、もしついて行っていたら」

「〝眷属になること以外の幸福〟〝吸血に頼らない幸せ〟みたいなものについて延々説教されることになるでしょうね。でも、実態は背後にヴァンパイアの下級氏族がいる集血システムなんだけれど」

 自分が助けられたことを理解し始めた流子だが、同時に騙されていたことに気づいて腹が立ってきた。自分が情弱なせいで、推しの前で醜態を晒してしまった。推し?いつから自分は彼女を推しだと認識していただろうか?でも、今は苛立ちの感情はどうでもいい。何か伝えなければいけないことがあるような気がする。

 そう思っているうちにも、タユタはステージで見た通り颯爽と大股で進んでいく。その背筋を見ながら遮光通路を歩くのは、何かまだ暴かれていない霊廟の、誰も見ることがない装飾の施された、無人の迷宮に迷い込んだ気がする。

 冷たい手に握られた流子は自分の手の熱さを意識し、火傷させてしまうのではないかと思う。

「あ、あの、わたし……」流子はかろうじて言うべきことを思いついた。「〝いいね〟押しました」

 タユタは振り返ると、何をいまさらという目で流子を見たように見えた。しかし次に、屈託なく微笑って言った。

「ほんと?ありがとう」

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