第28話 悪意

 ある日の俺は、いつものように親父に叩き起こされ、我が家の習慣となっている早朝マラソンに行ってから登校した。

 例によってあまりに早い時間なので、学校内に生徒は誰一人いない。


 さすがにマユミも、日直だったあの日以降はこんな早い時間には登校していなかった。あれから毎日若干の期待を胸に、それだけをモチベーションにして早朝マラソンを頑張っていたのだが、希望は淡く水泡に帰していった。


 教室の扉を開けて誰もいないことを確認すると、小さく肩を落として自分の席へと向かう。


 どっかりと椅子に座り込みながら、毎日変わらず朝食にしているつぶあんマーガリンコッペパンをものの三十秒でたいらげる。そして包装の袋をゴミ箱に捨てようとしたとき、その中にあるものが入っていることに気づいた。


 ゴミ箱の中に、様々な色味の布が捨てられていたのだ。


 不要になったから捨てた布の切れ端、という感じではなかった。明らかに新品に近い、皺のない布がゴミ箱に無造作に捨てられている。さらによく見ると、布のほかにも手芸用の綿や手縫い糸など、裁縫時に使いそうなものの多くが一緒くたに捨てられていた。


「……何かの間違いか?」


 誰かが捨てたところを見ていない以上、それらは理由があって捨てられた可能性もある。俺は裁縫に詳しくないから分からないが、もしかしたらこの布だってただ不要と思って捨てられたものかもしれない。


 それでもなんだか胸騒ぎがして、ゴミ箱からそれらを漁って外に出した。


 そしてその中からあるものを見つけ、今目の前で起きていることが異常なことであることを確信させられた。


 かつて、マユミと一緒にデートで行った百貨店『北武』の紙袋が一緒に捨てられていたのだ。


 つまり、ここにあるものはすべてマユミの所持品である可能性が高い。


「なんだ、これ……」


 一体なぜ、彼女の所持品がゴミ箱の中に捨てられている?

 いやしかし、『北武』の紙袋なんて誰でも使っているもので、装飾係の誰かが作業終わりにまとめて捨てただけなのかもしれない。


 いずれにせよ、確認すれば分かることだ。


 教室を見まわし、誰もまだ登校していないことを目視する。すぐさま『北武』の紙袋の中に、捨てられていた布をまとめて入れていく。

 できる限り丁寧に折りたたんで袋の中に布を重ねていったが、それでもどうしても見た目が悪くなるのは自分の不器用さを怨む他ない。


 幸い、昨日の掃除当番がごみ箱をちゃんと綺麗にしていたのか、高校生御用達の紙パックジュースや食品類を包装していた袋などが一緒に捨てられていなかったので、布や裁縫道具にそこまで目立った汚れがついている様子はなかった。


 しかし。となればゴミ箱に捨てられたのは掃除の後、放課後になってからということになるか……いや、今それはどうでもいい。とにかく早く荷物をまとめよう。


 ゴミ箱に捨てられていた新品に近い布や裁縫道具類全てを袋の中に詰めた後、急いでそれを持って廊下に出る。そこでもきょろきょろと、挙動不審ながらも廊下を見渡してから、マユミが使っている常設ロッカーの前に立ち、


(……ごめん!)


 勝手ながらも、ロッカーの扉を開いて中身を確認した。


 ロッカーの中には案の定、以前あったはずの紙袋と、その中に入っていた布の類がなくなっていた。やはり今ゴミ袋から取り出したものがそれに該当するようだ。


 そそくさと、できる限り以前見た場所と同じ位置に紙袋を再配置し、バタンとロッカーを閉めた。


 誰にも見られていませんようにと、再度周りを確認してから教室に戻る。先ほど荒らしたゴミ箱を、拾い忘れがないか確認しながら整え、元の場所に戻す。


 ようやくそこでフゥーッ、と大きくため息をついた。


 以前、カーテンの取り付け作業を手伝った際に見た紙袋の量と、今日ゴミ箱から戻した量は、記憶のうちでは大差なかった。マユミには自分の所持品がゴミ箱に捨てられていたという事実が気づかれなければいいが……。


 彼女はここまで必死に、文化祭の装飾係リーダーとして職務を全うしようと頑張ってきていた。おかげで周りからの反応もよく、この文化祭準備期間はクラスの女子たちに囲まれるようになっていた。


 そのほとんどは装飾係の連中だったが、みんなが声を揃えて「小美濃さんってこんなことできたんだね、知らなかった」と、素直に誉めそやしていた。最近は黒田が小美濃を「マユミ」と下の名で呼び始めたこともあってか、親しみを込めて「マユミちゃん」と呼ぶような女子まで現れたほどだ。


 それなのになんなんだ、所持品をゴミ箱に捨てるって。


 誰がやったのかも分からない。いつもの成瀬や高山かもしれないし、装飾係以外の誰かで、未だにマユミをよく思ってない連中のうちの誰かの仕業かもしれない。


 ただ、そんなことはどうでもいい。


 もしこのことがマユミにバレたら、きっと彼女は「せっかくみんなと仲良くなれてきたと思ったのに」と、傷ついてしまうだろう。


 毎日休み時間も、放課後も、帰宅してからでさえも文化祭の準備に身を削って、何もかも「文化祭を成功させたいから」という一心で頑張ってきたマユミがこの惨状みたらどう思う?


 悲しむに決まっているじゃないか。


 絶対にマユミをそんな気持ちにさせたくない。だから今日あったことは隠すしかない。


 もしかしたら誰かが気の迷いでやってしまったのかもしれない。マユミをよく思っていない誰かが、たまたまとんでもなく機嫌が悪くて、苛立ちまぎれにゴミ箱に捨ててしまっただけかもしれない。それだけなら、今回事が大きくならないうちに収束すれば、また同じようなことは起きないだろう。


 最悪、また同じようなことが起こったら朝登校したときに俺がなんとかすればいい。この時期はなんにせよ誰よりも早く教室にいるんだ。


 膨らむ苛立ちと不安をぶつけるように、ごみ箱を全力で睨みつけた。清々しい朝の陽ざしが差し込む教室に、どことなく不穏な気配を感じて、自席の椅子に座りながらも俺は落ち着かず延々と貧乏ゆすりを続けた。


 しばらくすると、クラスの女子が一人教室に入ってきた。なぜだか険しい顔をしている俺に気づくと、荷物を置いてそそくさと出て行ってしまった。その後続々とみんな登校し始めて、マユミも余裕を持った始業二十分前には席についていた。


 マユミは例によって早く登校していた俺を確認するや、笑顔を浮かべてさりげなく会釈をしてきた。いつもならその仕草に心癒され、最高の朝を迎えられるのだが、今日に限ってはより一層心の中のモヤモヤが深まるばかりだった。


 どんな顔をすればいいのか分からない。自分が悪いわけでもないのに、俺はマユミを直視できず、さりげなく教室の窓の外に視線を逸らしてしまった。


 登校してから授業が始まるまでの間、マユミはいつも文化祭の準備か裁縫作業をして過ごしていた。そして今日も変わらず、その姿を見ることができた。俺が先ほど拾い上げた『北武』の紙袋から裁縫セットを取り出すと、楽しそうに微笑みながら喫茶店員用の衣装にアップリケをつけていた。


 よかった、特に問題はなかったようだ。ロッカーから紙袋を取り出すときのマユミがどんな反応をしていたかは見ていないので分からないが、今慌てている様子がない以上、何か物がなくなっているということはなさそうだ。もしかしたらあれ以外にも、彼女の所持品が別のゴミ箱に捨てられているのではないかと心配していたが、それも杞憂だったらしい。


 俺以外の誰に知られることもなく、この出来事は闇に葬り去りたい。そう思いながら、俺もいつものように机に上半身を預け、居眠り体勢に入った。


 しかし、どんなに退屈な授業であれその日は全く寝付けなかった。朝からマラソンをさせられた上に神経をすり減らされるような出来事もあって疲れているはずなのに、目をつむるとモヤモヤした気持ちが表に出てきてどうにも落ち着かない。


 憂鬱な気分が振り払えず、それが思わず顔に出ていたのか、今日はより一層周りからのあたりが強かった。


 クラスのやつからは「今日はとことん機嫌が悪そうだ」「近づかない方がいい」などと後ろ指をさされるし、顔を見せないように窓の外を見ていれば教師から「おい須田、お前なんだその態度は。お前はいつもいつも……」と変に突っかかられる。


 あまりにうんざりしたので、不良らしく授業をバックレることにした。


 ……………………………… 


 その日の晩、いつもより早めの寝仕度を終えベッドに横たわっていると、唐突にスマホのバイブレーションが鳴り響いた。


 マユミからのメッセージだった。


「邦忠君、今日どうしたの? いきなり帰っちゃったから心配しちゃった……」


 俺が授業をバックレたのを気にかけてメッセージをくれたらしい。なんて心優しい子なんだろう……おそらくあのクラスで俺を気にかけたやつなんてマユミ以外にいないだろう。不良と言われども、実は授業をバックレたのは初めてなんだけどな。


「いきなり体調悪くなったんだ。心配させてごめん」


 できる限り怪しまれないように、さりげない文面を心がけて返信する。


「本当? もし何か悩みごととかあったらいつでも言ってね。その、私もいっぱい悩み事聞いてもらったし、助けてもらったから……私なんかじゃどうにかできるかは分からないけど、話聞くことくらいならできると思うし」


 彼女らしい自信なさげな言い回しに、思わず俺は笑ってしまった。


 変に自分を卑下しなくてもいいのに。マユミは十分、俺を癒してくれているのだ。現に、こうやってやり取りをしているだけでも荒んだ気持ちもだいぶ和らいだ。そもそも俺が気分を害するのはお門違いなのかもしれない。


「ありがとう、今こうやって話してるだけでも調子よくなってきた気がするよ笑」


 少しおどけた文章で返し、再びベッドに横になる。


 絶対にあの子の気持ちは守らなければならない。何者かの悪意によって踏みにじられてはいけない。そうなる前に俺がなんとかするのだ。


 よし、まずは朝。しっかり起きねば。


 そう決意を固め目をつむると、まるで今日不足していた睡眠時間を補うかのように、即時爆睡に陥った。

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