彼女の手を握るまで

第31話 身から出た錆

 ついに文化祭まであと一日を残すのみとなった。


 例によって朝早く登校していた俺は、いつもより少し歩みの速度を抑え、散歩気分で教室までの道のりを辿った。こうしていると、さほど文化祭自体に興味がない俺ですら、普段とは違う風景に少し浮足立つ。その上この賑やかな見た目に似つかわしくなく早朝の校舎は人も少なく静かなものだから、これを満喫しない手はない。


 とはいっても、数々のアーチが連なる校門から昇降口までの道のりを踊り狂って進むというわけではない、ただほんの少し、生徒たちがどんな情熱をもってこれらを作り上げたのだろうと、色とりどりに飾られた校舎を眺めながら想いを馳せてみるだけだ。


 去年はそんなこと考えもしなかったくせに。


 マユミが文化祭に向けて頑張っている姿を見ていたから、自然とこんな風に思うようになったんだろう。俺の考え方も随分と変わったもんだと思う。少しは真人間に近づけただろうか。


 しかし、変わったのはマユミも同じだ。

 彼女は自らの殻を破ったんだ。


 友達ができないと嘆くだけでなく、俺の根拠も何もないアドバイスを素直に実践し、見事に成功させた。いや、俺のアドバイスなんかなかったとしても、彼女の行動力があればきっと今と変わらず友達に囲まれていたに違いない。


 マユミはもう、俺と同じような友達もいない、孤独な生徒ではないんだ。


 俺も以前と同じように、学校では一クラスメイトとして遠くからマユミを眺めているだけにしようと思う。昨日のようにしゃしゃって二人で話そうものなら、また迷惑をかけかねない。俺みたいなのが周りにいるというだけでマユミの友達も近づきづらくなってしまうかもしれないし。


 そんな風に文化祭にあてられ気分を上げたり、マユミのことを思い出しては凹みと、気分をジェットコースターさせながらやっとのこと校舎にたどり着いた。


 昇降口で上履きに履き替えて階段を上っていくと、手すりから踊り場の掲示板に至るまで、各クラス及び部活動の出し物の宣伝ポスターがところ狭しと張り出されているのが目に付いた。その中の一つにうちのクラスの喫茶店ポスターも含まれている。


「二年五組 小粋な喫茶店 落ち着いた空間でお祭りの疲れを癒してください」


 そんなキャッチコピーとともに、茶色のシックなカーテンと、ツバメ珈琲店にいた店員を思い出させるような、エプロン姿の優雅な佇まいの女性がコーヒーを注いでいるイラストが描かれていた。


 それは他のポスターとは一線を画したクオリティで、うちのクラスの気合の入りようが窺えた。他のポスターは「お化け屋敷やります!」とマジックで書きなぐっただけ、なんてものもあるが、うちはしっかりと売り文句を決め、喫茶店のコンセプトに合わせたイラストを準備している。


 マユミの頑張りが、クラス全体に伝播しているように感じる。

 もちろんこのポスターを作ったのは彼女ではないし、直接こういうポスターを描いてくれと指示を出したわけでもないだろう。

 だが少なくとも、「ツバメ珈琲店のように、落ち着いた空間を作りたい」と明確に装飾係として進めてきた、彼女なりの努力が伝わった結果だとは思う。


 それなのに、俺は結局何もやっていない。クラスのやつらは頑張っていたけど、マユミの言う通り俺は準備時間はいつもサボっていた。そんな俺が文化祭を楽しむ資格なんてないのかもしれない。当日も同じように、どこかで消えていたほうがいいのかもとすら思ってしまう。


 自嘲気味にフンと鼻を鳴らしながら教室の引き戸に手をかける。落ち込む気持ちを少しでも晴らそうと、誰もいないことをいいことに勢いよく引き戸を開けてみる。


 ガン、と戸が壁に当たる小気味よい音を聞きながら教室に足を踏み入れると、俺の視界に信じられない光景が飛び込んできた。



 教室にかけられた茶色のカーテンが、ズタズタに切り裂かれていた。



 カーテンの端から真ん中にかけて布地が割かれているだけに限らず、幼児が障子を無造作に破ったかのように、ハサミで歪な形でくり抜かれた部分もあった。不慮の事故により破れた、といった感じでは全くなく、これは明らかに意図的に行われたものであると一目でわかるような惨状だった。


 本来は自然光がカーテン越しにやんわりと入るように設計されていたはずだが、ところどころ破れた箇所から漏れ出た日光が無造作に教室を照らしている。


 まるで、無残な殺人現場を見たような、衝撃的な光景だった。 


 なんだこの惨状は。

 誰がこんな酷いことを。

 俺がもっと気を張っていればこんなことには――


 そんな恐怖と怒りと後悔が一挙に俺の脳内に押し寄せた。


 何もできない。俺には何もできない……。


 強い無力感が俺を支配し、その場でただ俯き佇むことしかできなかった。そのまま腰を抜かしてへたり込んでしまいそうだった。


 むしろそうしてしまえばよかったのかもしれない。俺はただ突っ立っているだけで、様子を見に行くこともなく、誰を呼ぶでもなく、しばらく放心してしまっていた。


 どのくらいの時間そうしていただろうか。

 考えもしなかったんだ。自分のようなはぐれ者が、一人そんな惨状の中で立ち尽くしているところを見られたらどんな風に思われるかなんて。


「――えっ!」


 背後から聞こえた声に思わず振り向いた。


 そこには昨日マユミに裁縫の仕方を習っていた装飾係の女子が立っていて、顔面を青白く染め上げていた。


 そして力が抜けたように学生バッグを手元から落とすと、

「なんで、こんなひどいことするの……」

 と。


 視線は切り裂かれたカーテンではなく、間違いなく俺に向けられていた。


「……違う、俺じゃない」

「ひどい……ひどいよ……」

「お、俺じゃねぇって言ってんだろ!」


 動揺し、咄嗟に大声をあげてしまう。

 同時にその子は俺の声に呼応するように肩を大きく震わせ、その場にへたり込んでしまった。


 混乱していた俺はその光景を見て、より一層状況が悪化していることを知る。それでも頭の中は焦るばかりで、どうすればいいか、どう声をかければいいかなんて分からなくなってしまった。


 違う、違うんだ。こんなこと俺がするわけないんだ。


「……クソ」

 思わず悪態をつき、俺は近場にあった誰かの机を足で蹴って倒した。ただただ気分が悪かった。


 そのまま自席に身体を放り投げるように座り、そのまま机に突っ伏した。これ以上この光景を見ていたくなかった。


 マユミが悲しむ姿を見たくなかった。


  ………………………………


 文化祭前日にあたるこの日は、授業は行われずに一日中準備時間として当てられることになっていた。


 そのため、気持ちの逸るクラスメイトたちはいつもより早く教室に現れた。そして切り刻まれたカーテンを眺めては「なんでこんなことになってるんだ!」と口々に呟き、あまりに過激な光景を前に誰もがその場で立ち尽くしてしまっていた。


 こんな状況を見て、無造作に教室に入ることができなかったのだろう。誰かが先導するのを待つように、だんだんと教室の外に人だかりができてしまっていた。


 通りすがりの別クラスの生徒も、廊下に集まるクラスメイトを見ては野次馬的に集まり「なんだあれ」と言って歩き去っていった。


 一人、教室内ですでに席につき寝そべっている俺は誰の目にも異様に見えただろう。ショックを口にすると同時に「あいつがやったのか?」「なんでこんな状況で寝てられんだよ」などと言う声がチラホラ聞こえる。


 俺は聞きたくもない声を遠ざけるために、より一層身体を縮め、両腕でできる限り耳を塞いだ。


「とりあえずみんな、一旦教室に入って座ろう」


 廊下から、ヒロキが取り仕切るようにクラスメイトたちに声をかけていた。あいつはこういうときでも冷静で、耳に届いたその声も動揺している様子はなかった。


 すたすたと、大勢が教室の中に入ってくる音が聞こえる。それなのに誰も言葉を発さずに、椅子を引くギィッという音だけが連なって聞こえた。


 チラリと教室の入り口を見やると、ヒロキが文化祭クラス代表の立花に「あとは任せたぞ」と肩を叩いて鼓舞していた。立花は無言で頷き教室に入ると、全員に向かって、「とりあえずカーテンを外そう」と促した。


 ヒロキはそのまま俺の隣の自席に静かに座る。そして顔を立花の立つ教壇へと向けながらもふいに、

「お前じゃないよな」

 と、小声で俺に尋ねた。


「……やるはずないだろ」

 俺がそう答えると、「だよな」とだけ呟き、それ以上追及してくることはなかった。


 男たちが数人、脚立代わりにしようと自分の椅子を持って窓際に寄っていく。俺はそれを手伝う気にもなれず、ただグチャグチャになったカーテンに男子たちが手をかけていく様子を見ているばかりだった。


 ふと、カーテンを取り外そうと椅子の上に乗っていた一人の男子が、廊下側を眺めながら「小美濃……」と声を上げる。


 振り返ると、今にも卒倒しそうなほどに顔面を蒼白にして立ち尽くすマユミの姿がそこにあった。

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