彼女の想い

第19話 友達になるチャンス

 次の日の朝、チャンスは唐突にやってきた。


 その日、俺は普段より早く登校していた。

 いつもなら遅刻ギリギリで登校するような不良生徒(こればかりは認めざるを得ない)だが、毎年この時期に限っては他の生徒が一人もいないような早朝に登校するのだ。


 というのも、須田家は例年五月を早朝スポーツシーズンと決めていて、朝から親父にたたき起こされてはマラソンに付き合わされるという苦行が強いられるからだ。


 曰く、

「五月病というものがあるからな、こんな時期は身体を動かして活性化させなくてはならん」

 という。


 親父なんて全くもって五月病という言葉とは縁遠い存在でありながら、そういう習慣を律義にずっと続けているあたりはさすが警察官というところだろうか。


 ちなみに一度、「最近早朝に不審者二名が周辺をうろついていたとの目撃情報があります」と、人相の似顔絵付きで回覧板が回ってきたことがある。親父は笑いながら意にも介さなかったが、俺がこのツッパリファッションに疑問を抱くきっかけになった出来事の一つでもある。


 早朝というだけあって、いつもより起きるのは二時間も早いし、ランニングが終わってシャワーを浴びたあとでも家を出るには十分早い。とはいえ、その頃には眠気は吹き飛んでいるし、家にいてもやることがない。


 ということでいつも早めに登校することしていた。ラッシュを避けた時間に通学することになる分満員電車に乗らずに済むから、この前みたいにやたらと人に怯えられるような、気分を害する出来事が起きないのも利点の一つだ。


 そんなこんなで誰もいない校舎を悠々と歩き、早朝の心地よさにあてられ鼻歌まじりに教室に入る。

 すると予想外の人物が俺の視界に飛び込んできた。


 そこには自席で裁縫に勤しむマユミの姿があった。


 なぜこんな早くに登校しているんだ。いや決して悪いことではないし、むしろ朝から見かけられて少し嬉しいのだが。


 しかし予想だにしていなかった出来事に、俺は思わず目を見開いてしまった。そして同じくまだ生徒が来るような時間だとは思っていなかったのだろう、マユミも自席からこちらを振り向いては同じように驚いた顔をしていた。


 お互い一時停止状態に陥りながら、しばらく無言が続く。俺もさっさと中に入ればいいのに、依然として教室に踏み込むことができなかった。マユミはマユミで、手芸作業に戻るどころか居心地が悪そうにもぞもぞと身体を動かしている。


 しかし、これは昨日の失態を挽回するチャンスなのではないか。周りには誰もいない。人目を気にすることなく、しかもあまり接点がない関係性でもクラスメイトという大義名分のもと挨拶ができる絶好の機会。


 完璧なまでに揃ったシチュエーションながら、しかしそう思えば思うほど、俺の心臓の鼓動は早まっていく。


 「おはよう」と、一言いえば良いだけだ。それだけでも十分に意味はあるはず。しかしどうにも口が開かない。「不良の須田邦忠」でないときはあれほどまでに気兼ねなく喋れるのに。


 マユミの方を見ると、あっちはあっちで口元をワナワナと開けたり閉じたりしている。どうやら同じ心境のようだった。どうやら昨日のメッセージの「気兼ねなく挨拶したいクラスメイト」の中には俺も含まれていたらしい。


 時計の針が刻む音だけが二人きりの教室に響き渡る。お互いけん制しあうかのように、まったく動くことができなくなっていた。


 するとその静寂の中、コツ、コツと足音が聞こえた。生徒か先生かは分からないが、何者かがこの教室に向かってきている。


 もし他の生徒が登校してきたら諦めがつくかもしれない。「誰もいない二人きりの空間」というシチュエーションは崩され、俺は「不良の須田邦忠」を演じるべく席に座って寝そべるだけだ。そうすれば、この緊張からも解き放たれる。


 でも、それでは昨日の俺が報われない。何より、好きな女の子を応援する男として、頑張りたい。


 何者かがこの教室にたどり着く前に、俺は意を決して声を上げた。


「おう、おはよう」「あの、おはようございます」


 寸分違わぬジャストタイミング。


 二人して同時に上ずった声を放ち、朝の挨拶を交わした。

 なんと清々しい朝だろうか、再び訪れた沈黙の果てに小鳥のさえずりが聞こえる。


 お互いが何を言ったのか伝わるか微妙なほどに同時で、それゆえに相手にどう返せばいいのかも分からなくなってしまった。


 そして、聞こえていた足音は廊下の端を陣取るこの教室よりも手前の場所に吸い込まれ、別の教室の戸を開ける音だけがこちらに届いてきた。


 それが延長戦の始まりの合図だった。

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