第7話 初めてのデート、初めての過ち
「はい、到着しました。目的地はこちらです!」
わざと仰々しく言いながら、都庁ビルの入り口を指差す。
予想通り、マユミは目の前にそびえ立つ高層ビルを見上げながら、首をかしげて頭の上にはてなマークを浮かべていた。
「ここ、って? 何の建物かな」
彼女は言いながら、入り口の建物名が記載された石碑に視線を移す。
「東京都庁?」
「そう、東京都庁です。ここがいいところなの? って思うでしょ。まぁついてきてよ」
そう言って、行き慣れぬビルの入り口を颯爽と進む。すでに辺りは暗くなってきていて、夜景を楽しむ時間帯としてはちょうどいい頃合いだろう。
少し歩いていくと、「展望室」と書かれた案内図が見えた。同様にその図が見えたであろうマユミの表情が一気に晴れやかになる。
「展望室! もしかしてあのビルの上に行って景色見るの?」
「そうそう、ここからの夜景が綺麗なんだってさ」
「ほんと! こんなところ来るの初めてだよ~」
そう言いながら彼女は心底喜んでいるようで、たびたびステップを踏みながら歩いていた。やっぱり女性はサプライズが好きなんだな。
俺たちは案内図に従って、展望室行きのエレベーターに向かう。するとそこは待機列ができるほどに人で賑わっていた。
予想外の混雑に思わず隣を歩くマユミの反応を窺ったが、彼女は嫌な顔一つせず「人気なんですね、楽しみです!」と最後尾に並んでくれた。
混雑はエレベーターの中も変わらずだった。中はそれなりに大きかったのだが、そこに定員ギリギリなくらいに人を詰め込むものだから、ほとんど押し合い圧し合い状態になっていた。
身体をねじりながら俺たちはお互い顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。漫画みたいな話だが、その間図らずもマユミが俺の胸にひっつくような体勢になってしまったゆえに心臓が跳ね上がった。
心臓の鼓動が聞こえちゃったらどうしよう! というよくあるやつである。このあとの告白という大イベントを前にすると、どうにもそれを意識するあまり余計に緊張してしまうようだ。
ものの数十秒で四十五階もの高さを一気に登り、地上二百メートルほどの高さにまで押し上げられた。おかげで耳鳴りがひどい。
「わー、思ったより広いんだね。お土産屋さんとかもある。あっ、ホウチュウさん! なんかすごいおしゃれな感じのレストランとかもあるよ!」
エレベーターから降りたマユミは周りを見渡すなり、まるで子供のようにはしゃいだ。外はすでに暗くなっていて、彼女が指差すレストランからは薄明るく、暖かみのある光がこぼれ、まさしく大人な雰囲気を醸し出していた。
いつかはああいったレストランにマユミを連れてくることもあるのだろうか、なんて妄想だけが無造作に脳裏を駆け巡る。夜の闇は男子高校生をそんな気分にさせるには十分なほど魅惑的だった。
「窓の方に行ってみようよ、きっと綺麗だよ」
俺は導くようにマユミに向かって手招きしながら、展望室の窓際に向かう。そうして背丈よりも大きなガラス窓から外を眺め、思わず俺は目を大きく見開いた。
夜景に興味がない、と言っていた俺が、そこから見えた景色に魅入られたのだ。
遮るもののない視界いっぱいの夜の街を、一面に広がるビル灯かりが照らしていた。赤と白を基調とした数えきれないほどの光源が目の前に広がっている。それはまるで絢爛豪華なシャンデリアが連なっているかのように煌びやかで、無意識にも「おぉ……」と声が漏れてしまうほどだった。
これほどの夜景を、まだ十数年しか生きてはいないとは言え俺は見たことがなかった。そして「夜景に興味がない」男がこれほど興奮しているのだから、世の中の多くの人はおそらくもっと感動するだろう。
隣にいるマユミももちろん例外ではないようだった。
「うわぁ、すごいね……」
マユミは目の前の窓に手をつき、感嘆の声を上げながら夜景を眺めていた。まさしく言葉もないといった様子で、すごいすごいと何度も繰り返すように呟く。
俺自身も予想外に楽しんでしまっているが、連れて来た側としてはこれだけ感動してくれると下心抜きにして嬉しくなる。今まで女性とデートをしたことがない俺が、必死に雑誌を立ち読みしまくって情報を集めた甲斐があったというものだ。隣で喜ぶマユミの姿を見ていると、それらの苦労が報われたような気がして嬉しかった。
「……私、こんな綺麗な夜景見たの初めてです。ホウチュウさん、本当にありがとうございます」
こちらに向き直りながら、マユミはおおげさに頭を下げて礼をする。それを受けて、俺もいやいや、などと言いながら照れ笑いをした。
さぁ、ここからだ。ここからが重要なのだ。
俺はここでは終われない。
告白だ、告白をするのだ。
穏やかな笑顔を浮かべながらも、内心気が気ではなかった。
告白という言葉を頭に思い浮かべたその瞬間、急に脈拍が早まっていく。これまで恋愛というものに無縁で生きてきた人間からすると、人に想いを伝えるという行為はなんと難しいものか。
マユミは未だに感嘆の声を上げながら夜景に見入っている。俺はというと、そんな彼女から目が離せなかった。もはや夜景など全く視界に入っていない。
恋は盲目とはまさにこのことだろうか、などと考える。今、俺の目にはマユミしか映っていなかった。
そんな俺の視線に気づいてか、彼女はふと、こちらへ向き直る。それでも変わらず見つめ続ける俺に対して、彼女は一体どんなことを想うのだろうか。
今しかない。そう思うほどに、胸の鼓動が俺を囃し立てる。
しかしいざ、告白しようと口を開いても、言葉を紡ぐことができなかった。やたらと喉が渇き、ごくりと唾液を飲み込む音だけが耳に響く。
そして、二人の間に得も言われぬ沈黙が訪れる。しまった、タイミングを逃した。
そう思った瞬間だった。
マユミはこちらを向いて笑顔を浮かべた。黙って自分のことを見つめてるだけの男に向かって、嫌な顔一つせず、どうしたのかと問うこともなく、ただ俺に笑みを向けてくれたのだ。
あぁ、そうか。
俺は納得し、彼女に近づく。
相手も待っていたんだ。満点の星にも劣らぬ夜景をバックに男と女が見つめ合う、この完璧なシチュエーションを前に、相手も理解していたのだ。
そうだ。これは、答え合わせだ。
気づくと、心の中の荒波は凪いでいた。優しく、マユミの両肩に手を添える。
「マユミ……」
小さく呟きながら、ゆっくりと顔を近づける。
「好きだ……」
そして、彼女の唇に、自分の唇を――
「ひぃ!」
――重ねようとしたその瞬間、胸に鈍痛が走った。思わず、マユミの肩から手を離し、身体をのけ反らせる。
何が起こったのかと、薄く閉じていた目を見開きながら前方を眺めると、身体を震わせながら、自分の身体を抱くようにしてその場にペタリと座り込むマユミの姿があった。
「……え?」
状況を理解できず、きょろきょろとあたりを見渡してしまう。周りの人間は何が起こったのかと訝しげにこちらを見ている。
マユミの顔には恐怖が浮かんでいた。
「あの、え、えと」
自分でも何が起こったのかわかっていないという様子で、必死に言葉を探していた。それはまるで、癇癪を起こす寸前の子供のようだった。
マユミは震える両手を地面につきながら、やっとのこと起き上がると、こちらに向き直りながらこういった。
「……ごめんなさい」
同時に、マユミは俺とすれ違うようにして走り抜けていった。
一体どうしたというのだ。
まったく理解が追い付かない。
なぜ唐突に逃げ出してしまったんだ。
気持ちだけが先行して、思考がまとまらない。とにかく、話をきかないと。こんな別れ方はお互い良くないはず。
咄嗟に振り返って追おうとすると、視線の先でマユミがエレベーターの待機列に立っていた。眉間に大きく皺を寄せながら、早く来いと願わんばかりに小さく足踏みをしている。
彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
途端、魂が抜き取られたかのように脱力してしまう。彼女のそんな顔を見てしまったからには、もう追う気になんてなれなかった。同時に、何が起きたのかを考えるのもやめた。
マユミは急ぎ足で到着したエレベーターの中に乗り込んでいった。去り際に一瞬、こちらに視線を向けたような気がしたが、すぐさま鋼鉄のドアがそれを遮った。
何をすればいいかも分からなくなり、ただそこに立ち尽くしてしまう。
視界の端に映る無機質なビルの灯かりがチカチカと煩わしくて、思わず視線を地面に落とした。
………………………………
結局この日、俺は一人寂しく帰路につくこととなった。
寂しいなんてもんじゃない。どうしてこうなったのだろうという思考が幾度となく堂々巡りしている。
いや、改めて考えずとも、マユミが俺を拒絶した理由なんて明白だ。俺がいきなりキスをしようとしたからだ。
こんなことは子供だって分かるだろう。ただ、実際にあのシチュエーションで何もしないというのも男としていかがなものか、と思ってしまったのである。
完全に舞い上がっていたのだ。勝手に妄想を繰り広げ、自分の気持ちを押し付けてしまった。もっと誠意のある行動を取って入れば、今日という日も楽しく過ごせていたかもしれないのに。
いや、そう思っているのは何よりもマユミの方だろう。俺があんな行動に出てしまったがために、楽しかったはずの一日を台無しにされてしまったのだから。
彼女のことを思うと、胸が締め付けられるような思いだった。本当に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいだ。もしやり直すことができるなら、今度はもっと真摯な態度で気持ちを伝えたい。が、それも叶わない。
延々と自責の念にかられながら、都庁近くの公園をひたすらに練り歩いた。少しでもこのしみったれた気持ちを落ち着かせたかった。しかしいつまで経っても悲しみを拭いきれず、気づいたら終電の十分前で、後悔だけをその場に残して、俺は夜道を駆け新宿を後にした。
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