のこるもの
アヤノモリの主が失われて、ほんの少しだけ時が経った頃。森は完全な静寂と、神の血の匂いに満ちた。生命はしばし森の存在を忘れるだろう。近づけば、命を失うだけでは済まない。しかし、森にはまた、人の形をした影が一つあった。色は似ているが、弔いに来た夕映ではない。彼よりも髪は長く、背は高い。開けた最奥の、神の骸と対面する。
「ああ」
青ざめた声は、低いが透き通っている。血濡れた土に跪き、両手を押し当てれば、大地と同調する。染師の懺悔を、虎の最期の宣言を、耳よりも内側で聞いた。
「……捧げ終わったなら、還ろう。歴星」
血みどろの両手が触れる前に、虎の骸は風に溶けた。白い光は空に昇らず、海へと去って沈んだ。全て遅かったのだと、水晶の神は悟った。
芸師寮の最も広い部屋が夜珠の個室だった。王の寵愛が篤いというのも理由の一つだが、目の見えぬ彼の世話をする者を置くための空間と、三日月琴と言う成人男子が座って膝に乗せるのがちょうどいい大きさの弦楽器を保管する場所を、一つに用意する必要があったという理由のほうが大きい。巻き毛の楽師は、訓練された褐色の指で愛しい楽器を整える。今宵も王の寝室に招かれている。疲労しきった王の睡眠の質を上げる為に、一曲奏でるのだ。日のある内から念入りに整えなくてはならない。職務であることももちろんだが、王は一人の観客として素晴らしい感性の持ち主だ。恥ずかしい音は聞かせられない。この時間は世話役たちも下がらせて、十六弦から成る楽器と一対一で向き合うことにしている。しかし、今日は様子が違った。
「相変わらず、冴えた音だな。親友」
「夕映。どうしたんだ?」
部屋の入口から響いた声は、近頃顔を会わせなかった同郷の染師のものだった。
「息が荒い。走って、興奮もしているだろう。何があった」
「はは。お前は本当によく解ってるよ。人は呼ぶなよ」
従者を呼び戻そうと、楽師が備え付けの鈴に手を伸ばしかけたのを染師は見逃さなかった。伸びやかな指が楽器に向いたのを確認すると、夕映はその場に座り込む。些細な物音で、夜珠は相手の位置と仕草を把握する。
「こら。胡坐をかくならせめて、戸口の中に入って座れ。我儘な子供じゃあるまいし」
「うるせぇ。芸師寮に我儘じゃない奴が居るかよ」
芸に妥協は一切しないという意味では我儘揃いかもしれないが、人の部屋の戸を邪魔する者はそうそういないと、言い募らないのが夜珠のおおらかさだった。
「しょうがない奴だなあ。昔はもう少し可愛かったのに」
「そっくり返すぞ。俺の背まで抜かしやがって」
あははと、夜珠は笑いを抑えきれなくなる。体つきは夕映の方がしっかりしているのに、国一番の染師は小指一つ分の背丈が気になるらしい。
「お前の音は良いな。こんなにも恐ろしいのに、美しいと思わせる、その腕が俺は好きだ」
出し抜けに、それでいて底抜けの賛辞を送ってくるものだから、夜珠は笑うのを止めた。
「急にどうした。普段は滅多に褒めやしないのに。まあ、こんなにも良い琴を頂いたのだ。腕を磨かなければ罰が当たるな」
専属楽師に受け継がれる三日月琴は、螺鈿塗料で飾られ、角度によって色を変える。今の夕映からは薄緑に輝いていた。月光を受ける海の色だ。染師は感嘆を込めて口を開く。
「螺鈿十六弦三日月琴。先王の御代に作られたそうだから、そろそろ百年か」
「愛されるべき楽器だ」
「そろそろ器転妖になりそうだな」
「つくも? ああ、あの御伽噺か。なってもおかしくないが、もう少し待ってほしいな。まだまだ弾きたい曲が有るんだ」
びぃいん。一糸弾くだけで、豊かな音が響いた。夜珠にとって何より愛しい音だった。
「主様は、きっと良い器転妖になるぜ。夜珠」
「え?」
二人の間で主様と言えば、アヤノモリの主しか居ない。もう何年会っていないだろうと、夜珠はあの闊達な声を思い出す。夕映は虎にしか見えないと言っていたが、夜珠には人間、それも優しい年長の青年にしか感じられなかった。今はどうしているだろう。
「なんせ陛下のお墨付きだ。この皿は魂を塗りこめられた。今にも器転妖になってしまいそうだと。今日は最高の日だ」
「夕映。何の話をしているんだ?」
「俺が大神殿の為の大皿の染付を命じられていたのは知っているだろう」
「ああ。知っている。焼物師の自信作だっけあって、色を付けるのが惜しくなるほどの出来栄えだと噂になっていた。何色に染めたんだ?」
「そう。雄大な一枚で、陛下は青色と言われた。その通りだと俺も思った。あれは青、それも晴れ渡る空の青でなければ釣り合わない。だから俺は、最高の青を使ったんだ」
「何を使った」
「主様の、空色の血だ」
初めて聞いたことだった。幼い頃は普遍の色を、長じてからは特異な色を、必ず教えてくれた友が、そんな身近な色を伝え忘れたとは思えない。
「昨日殺して、血の量が思ったよりも少なくて不安だったが、ちゃんと足りた。今朝、献上したんだ。陛下はたいそう喜ばれて、そして死んだ。俺のせいらしい」
重たい足音が近づいてくる。武官の鉄靴の音だ。
「今日は最良の日だ。俺の最高傑作が生まれた。陛下に最上の賛辞を頂いた。お前の琴か聞けた。お前と並ぶ芸師として、俺の名はきっと残る。悔いは無いよ。夜珠」
大量の足音が止まる。そして一つ、重たい音が戸口に落ちた。
「これは楽師殿。ご機嫌麗しく。どうぞそのまま天上の音を奏でられよ。今宵は新王即位の祝祭がありますからな」
夕映の音は聞こえない。代わりに、鉄の香りが辺りに満ちている。剣を打ち合わせたようなこの声は、先日、盗賊討伐の功績で夜珠の音をねだった将軍と同じだった。そういえば陛下の甥だったなと楽師は思い出す。そして、芸に溺れた王に、子供はまだいない。
「これから豊彩国は変わる。だが憂う事は無かろう。軍備の為に芸師は減らすが、そなたを手放しはせぬ。今まで通り寝所にて歌われよ。そうすれば、国の名に恥じぬ、より豊かな彩を差し上げよう!」
血と脂を帯びた手が、巻毛に触れる。どうやらこの戦好きの新王は、楽師と愛人の区別がついていないようだった。夜珠は、耳目の悪い男の下に侍ってまで、最も重要な三人が失われた世界で生きるべきかを考える。考えるまでも無かったかと微笑んだ。
「空と海の区別もつかぬ方に、捧げる歌はございません」
抱えていた三日月琴を、より体に密着させる。最高音と最低音の和音を爪弾けば、仕込み針が楽師の喉を貫いた。螺鈿塗料によく似た劇薬が、真っ赤な針先で艶めいている。兵士達は呆然とする将軍を連れて部屋の外へと駆け出した。やるべきことはまだいくらでもあった為だ。それらが片付いた後、二つの死体と一つの楽器が部屋から消えているとは誰も思わなかった。
かつてアヤノモリと呼ばれた森があった。今はただ裏の森と呼ばれている。豊彩国立歴史博物館の裏手にあるからだ。時折、真っ青な小石が拾えると、近所の子供達が遊んでいる。そんな忘れられた場所を、二つの人影が進んでいた。
「なんなんだよあの展示は。贋作にしてももう少しうまく作れねぇのか」
少年の髪と瞳は驚くほど青い。晴れた空を塗り込めたようだった。ぐしゃぐしゃに握られたパンフレットには、歴史的に重要な、けれど失われた美術品の模造品が映っていた。
「ちゃんと再現模型って説明されてるだけ、可愛い偽物ちゃんだと思うよ。しょうがないよ。あの時代、戦争につぐ戦争で、セイジ以外にも所在不明の子いっぱい居るし」
宥める様に話す少女の声は、人間よりも弦楽器の響きを持っていた。薄緑の髪には螺鈿の艶がある。
「お前は良いのかよ。ツキコト。仕込み針も再現されてない模型が飾られて」
戦乱の喧騒を人の声に整えなおしたような悪声に凄まれても、少女はひるまない。
「下手に凝った造りで飾られるだけなのも可哀想だし、良いんじゃない。どうせ私の音を弾ける人も解る人も、千年前にみんな居なくなっちゃったもの」
年長の器転妖は、百歳下の同胞を見つめ返した。
「それで、お願い通りにここに来たけど、セイジは何がしたいの? ヨタマ様とセキエイ様のお墓はもっと海辺だよ」
「少なくとも、墓参りではねぇな」
森の開けた場所に来た。日当たりの良い所にぽつんと置かれた岩は、昔はもっと大きかったのだろう。辺りにぽろぽろと削れた小石が落ちている。更にその周りは、草も無いのに青かった。セイジは何かの名残であろう色を見つめた。
「ああ。良かった。俺の方が鮮やかだ」
口にした言葉の意味はセイジにさえわからなかった。ただ、胸の中に薄青い風が抜けた心地になった。
「気が済んだのなら帰ろう。今日はアヤシのお祭りだもの」
ツキコトが、しゃがみこんだ器転妖に手を差し伸べる。楽師のような、しなやかに鍛えられた手だ。
「おう。みんな待ってるから、帰ろう」
差し出された手を取って、器転妖は人の世を去った。失われた聖域には、静寂と日溜りだけがあった。
アヤノモリにて 嵯峨野吉家 @toybox3104
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