おぼれしずみ
虎の故郷は、天界の西方にあった。いつも心地よい風が吹く、広々とした草原の街で生まれ育った。今でこそ主様などと呼ばれているが、天界に居た頃の虎は、一族の中でも年少の子供だった。族長も若く、後継を育てる意味も込めて、虎を連れてあちこちにおもむいた。天界の中央である白雲の大宮殿、東方の大水脈を中心に栄える都市、南方の有翼種達の為の高層建築。そして、最果ての巨神達の住居では大切な友に出会った。小柄で、のんびりと笑う、性を持たぬ水晶の神。高く透き通った声音に己の名を呼ばれるのが好きだった。最後に会った時も、虎を見上げながらこう言ったのだ。
「今度、ふたりで海界を探検してみよう。帰りは中界も覗いて。歴星となら、きっと楽しいだろうなあ」
歴星。れきせい。追われてからは誰にも呼ばれていない、虎の本当の名前。この名を最後に聞いたのは、長の口からだった。
「歴星、逃げろ!」
あの日、何が起きたのか、幼かった虎にはよく分からない。大宮殿で会議があるからと、朝早くから慣れぬ正装で出掛けた長が、昼前に帰って来た。また会議をさぼったのかと呆れつつ出迎えれば、様子が違った。飄々としたいつもの風情はなく、ただ一言「玉座が奪われた。敵が攻めてくる」と言った。大宮殿の玉座。天界の神々を束ねる天帝の位を、奪うものがいるなど誰も考えたことがなかった。神々は人間ほど欲深くなくても生きていけるのだから。そして言葉通り、敵はすぐにやって来た。見たことのない武器と聞いたことのない大声を上げながら、草原を踏み荒らし、風通しの良い街並みに風穴を開けた。虎の一族は決して弱くは無かった。風を自在に操り、天帝から天界西方の守護を任されるほどの兵達だったのだから。それでも、敵は一族を上回った。未知の武器は風をものともせず、狙ったものを正確に破壊した。だから、長は虎を逃がした。狙いにくい、小さなすばしっこい子供を。ただ、虎はどこに逃げたらいいのか解らなかった。近隣の神族は駄目だ。この騒ぎを聞いても助けてくれなかった。弱い神族は巻き込んではいけない。せめて同じように四方の守護を任される神族の所へ。真っ先に浮かんだのは、天界北方を守護する最果ての巨神達だった。大地と同調する強き神族。幼い水晶神への優しさもある。虎は走った。呼べるだけの風を呼び、獣の姿になって最果てへ走った。走りながら、風の運ぶ各地の神々の会話を聞いた。
「天帝陛下が殺された」「違う。本当の天帝陛下が即位されたのだ。偽りに加担したもの達に罰を与えると言うぞ」「偽りの天帝により四方を任されていたもの達が攻め立てられているそうな」「東方の大水脈都市は最初に投降したらしい」「南方の高層建築は針金のような骨組みが見える有様とか」「西方の草原はもはや砂漠に等しい荒れようで」「最果ては最も軍勢を割かれ、あの巨神族が壊滅した!」
風説を肯定するように、北方にひた走った虎の前にあったのは、敵に囲まれた巨神族の住居と、尽きることのない戦火の煙だった。火の中に見えた大きな人影は、きっと虎の知る神だっただろう。最期の力で虎の連れてきた風を、瓦礫の石越しに留まらせ、敵に悟られぬようにしてくれた。しかし、もうどこにも助けを求められない。虎の心の均衡は崩れ、力は暴走した。風は嵐となり、世界の境界を切り裂いた。こうなっては誤魔化しようが無かった。敵がやってくる。逃げなくては。どこへ。境界の裂け目に。人の姿に戻ることも忘れて飛び込んだ時、最果てに居る小さな友との約束を思い出した。この穴は海界に通じているだろうか。ふたりでと言っていたのに。遠ざかる天の青が滲んだところで、虎は夢から覚めた。千年前をそのまま思い出させる長い夢だった。アヤノモリは今日も変わらずに木漏れ日が降り注ぐ。夢を引きずる虎は、いつもの大岩の上で呟いた。
「繋がっていたのは中界だから、許してくれるか」
そして、千年前に会ったきりの友の名前を、口にしたつもりだったのだが。
「許しを請うのは俺の方だろ。ずいぶん間が空いちまった」
応えたのは、五年ぶりに森にやって来た染師だった。セキエイと聞き違えたのを、虎は訂正する気は無かった。代わりに、すっかり醒めた目で男を見上げる。
「それはともかく。あれから少しは夜珠と話せたのか。夕映」
「おう。俺も出世して個室を貰えてな。なんと王の私宮に一番近い部屋だ。夜珠の部屋も近い。時間が合えば語らえるようになったさ。森に来るのはまだ難しいが、元気かどうかはこれを聞けばわかるだろう」
夕映の指が宙を示す。虎はやっと、風に溶け込む三日月琴の旋律に気が付いた。泳ぐのでもなく、揺蕩うのでもなく、ただひたすらに海の底の更に底へと誘う音色。この音に導かれるのなら、光の届かぬ所へ着いたとしても悔いはないと、ひとの心を恍惚の坩堝に沈ませる。五年の歳月は夜珠の演奏をさらなる高みへと導いていた。
「怖いな。これだけの音を空間と調和させるのか」
「言っただろう。魔性に至ると。昼に聞く音ではないが、将軍が国王にねだったらしいな。どこぞの地方の盗賊を平定した褒賞に。全く。専属楽師殿は御多忙極まる」
戦の高揚からそのまま海神の腹に入ってしまって良いのだろうかと、虎は顔も知らない将軍を心配したが、耳目が鈍い性質ならば鎮静にちょうど良いかと、考え直した。慣れた様子で大岩に上がる夕映に、気になっていたことを尋ねる。
「それで、専属染師殿のその大荷物は何事だ? 海神への供物選びなら、俺より神官に聞いたほうが良いぞ」
「アヤシノモリの主様への供物は、本人に選んでもらいたい」
「俺への供物?」
また岩から落ちそうになる虎をよそに、夕映は背負っていた大きな包みを解いて、中身を並べた。水盤、香炉、文鎮、菓子盆、盾に長剣。どれも大ぶりで精緻な細工が施されており、何より途方もなく鮮やかに彩色されているのが特徴的だった。
「どうだ。今に器転妖になりそうな品だろう。好きなものを選んでくれ」
「つくも? なんだそれは。まさか、これは何かの玉子なのか? だとしたら選べないぞ。この森は見ての通り、生身が生きるには糧が足りんからな」
後ずさる虎に、染師はからからと笑った。
「遅れてるなあ主様。器転妖ってのは最近はやりの御伽噺さ。器物百年、転じてアヤシになる。要は百年の間、人間にとびきり愛され、場合によっては憎まれるほど、強く心を奪い、使われ続ける様な名品は精霊になるという話だ。作り手の冥利に尽きるよな。そんな品を作れたら。それに、いつかの話の宝神様に、少し成立ちが似てるだろ」
「まあ、大切な品が目覚めるという点ではそうだが」
目の前の品々とあの友では、色が違いすぎる。香炉は夕暮れを少し過ぎた空のように紫と橙がきらりと絡み合う。文鎮は重厚な濃緑に吉兆紋様が金で描かれ、これだけでも一財産だ。盾と長剣は揃って紅に染まり、人間の返り血が付いても酸化するまで気づけないのではなかろうか。虎の目はそれらを通り過ぎ、水盤に吸い寄せられた。藍に近い紺碧を地色に、四季の花々が銀色に描かれた、海原の彩。遠い日の約束の色。虎は沈黙したまま、底面に顔を近づけた。近づけすぎて、鼻先が底とくっついた。そして伝わって来た水盤のあまりの冷たさに、飛び跳ねるように顔を上げた。
「ははは! 一番の気に入りは決まったみたいだな」
「夕映。これは何を塗りこめたんだ? 氷室に突っ込んでたにしては冷気が足りんし、冷水を入れてたにしては湿っておらん」
「主な色は海言宝珠だぜ。あとは、例の盗賊狩りで遠征した武官達に頼んでおいた冷泉花を混ぜたな」
冴えた水色に、夏でも花弁が冷たい植物を、昔に天界の書物で呼んだのを虎は思い出す。溶かしても冷たさは変わらないのかと、また一つ物を知ったが、納得できないことも一つある。
「冷泉花は確か、人間の死体に咲く花だろう。そんな都合よく手に入る筈が」
すると、染師は何てことは無いように答える。
「討伐した盗賊の死体に種を植えさせたんだよ。あいつら、盗品で贅沢して滋養があったみたいでな。すぐに咲いたらしいぜ」
「お前、どうしてそんな」
そんなむごい事を頼んだんだ。そんなことを武官達は何故承知したんだ。疑問が重なった舌はうまく動かず、言葉が途中で途切れた。夕映はまた誤認する。
「一番良いのを見せたかったんだ。磁器に罪人の骨を混ぜたほうが手触りも良くなると焼物師に言われもしたが、あれは色を弾いてしまうから止めたんだ。代わりに、武具師が欲しがっていたからそちらにやった。柄の飾りに入ってると思う。どうだ? 何の芸も無い生命そのままより、よっぽど良い供物だろう?」
昔と変わらない笑顔で、染師は誇らしそうに同種の生命を潰した細工を示した。
「なぜ、誰も止めなかった?」
「なぜ? 俺は芸師寮の染師だ。俺の芸を磨くことは、国王陛下の喜びだ。否を言う奴なんていないさ」
「夜珠はなんと言った?」
「見せてない。だって、夜珠にも内緒なんだろう」
何を言っているのか、という風に夕映は首を傾げた
「五年前のあの日、主様が俺にだけ話してくれただろ。主様の昔の話。古い友人。だから、俺も何か渡したかったんだ。でも、仮にも護国の神様相手に、下手な品は渡したくなかったから、出せる限りの色で、ちゃんと供物になる様にしたんだ。だって、神様は供物をかかしてはいけないんだろう?」
俺はそういう造りではない。たとえ罪人でも、死ねばお前達の同胞の骸だろう。二度とこんなことをしてはいけない。虎はそう言いたかった。そう言うべきだった。しかし、声が出ない。理由も解っていた。解っていない染師は不安気に虎を見つめていた。
「この色じゃ満足いかないか。そうだよな、身の内にあんなに美しい色を持ってる方だ」
「そんなことはない。人間の手から生まれた色で、こんなにも鮮やかなものを、俺は知らない。俺もお前の手から生まれていたなら、こんなに素晴らしい色を纏って外に出られたのかと、夢想してしまうくらいだ」
とっくに成人していても、幼い頃から見てきた子の泣き顔は見たくなかった。そんな言い訳で己を騙せたのなら、虎はどれほど気が楽だっただろう。全て本心からの言葉だった。見つめていればいるほど、色彩が離れなくなる。この芸の犠牲となったのなら、盗人の罪など容易に消えるだろうと思えるほど、夕映の作品は美しかった。
「良かった。そんなに気に入ってくれたなら全部渡そう。そしたらきっと、百年後には主様の子分の器転妖がいっぱいだ。森から出られなくても、寂しくないだろ」
「いいや。水盤だけでいい。香炉も文鎮も、剣も盾も、人間の暮らしにこそ必要だ」
「主様は本当に人間思いだな。次はもっといい供物を持ってこよう。何色が良い?」
「……やはり、俺は透明が好きだな」
「物好きだなあ。良いさ。透明よりも透き通った彩を見せてやる。これから、王に新作を依頼されるが、そちらが終わったらすぐに用意するからな」
「ああ。またおいで。いつでも、お前を待っているよ」
染師が去る。その背が見えなくなってやっと、虎は笑みを作るのを止めた。口は動かさず、心の中で吠えている。何が人間思いか。俺は、今日ほど己を薄汚いと思ったことはない。千年前のあの日、帯飾りを返してやろうと思ったのは、八百年前のあの日、足飾りを結いなおしてやろうと思ったのは、どちらも水晶を使っていたからだ。俺の友を模した石を粗雑に扱いたくなかったからだ。その友情だけは失いたくなかった。そして幽閉の如く森に在り続けることになっても、生きてさえいればまた会えるかもしれない。還れなくとも、友を待つことは出来る。友を信じる事こそ、友情の基盤ではないか。それなのに。
「どうして、器転妖になりたいと思ってしまうのだ」
「思ってしまうのだ?」
また、木漏れ日と呼気が反応して、カケラが生じる。光の声は、水晶の神によく似ていた。
「ああ、思ってしまった。考えが止まらない。もしも、器転妖になれたら」
あの二人の人間の成長が、時の流れの速さと重さを思い知らせる。もう数十年もしないで、あの子達は世を去るだろう。そうしたら、次にここを訪れる人間は何千年後か。いや、もはや存在しないのではないか。また何千年と孤独の中で、森の合間から生命を見つめるだけで。
「なれたら?」
「この苦しみが、きっと終わる。終わるなら、俺の死体に染料を植えてもいい。俺の骨を砕いて陶磁器に混ぜてもいい。何を使っても構わない。あの美しいもの達になって、百年使われて、新しい人型になりたい。もう辛いんだ。孤独の中の千年は、神にとっても長すぎる。許してくれ。もう、つかれたんだ」
「うん。いいよ」
友と似た声のカケラが、木漏れ日に還った。まだ、三日月琴の音色が聞こえる。神の腹へと供物を誘う音の波。虎はカケラのあった位置に水盤を置いた。降り注ぐ光が、水のように溜まって、煌いた。
「夕映は、俺を殺してくれるだろうか」
まだ器転妖にならない磁器は、応えなかった。
王が寝室の窓に、異国から仕入れた硝子を嵌めたらしい。専属楽師の演奏が外に漏れなくなり、部屋中に音の余韻が残る様になったという。大神殿から、せめて三日月琴の演奏の際は今まで通り開けた窓にしてほしいと申し出があった。かの楽器は、海神に捧げるために作られたのだからと。王は一度を除いてそのようにしようと伝えた。また、一度だけ神の旋律を独占する対価として、次の祭事用に供物を乗せる美しい大皿を寄贈することを約束した。そんな宮殿のよくある話を虎は知らない。近頃は微睡んでばかりいて、外に目を向けていなかった。ただ、風に乗る音楽が減り、代わりに森の入口の方から「違う。もっと、もっと青を」と苦悶を孕んだ独り言が聞こえる日が増えたことは知っていた。虎は、期待を直視しないように、大岩に寝そべっていた。そして、時は来た。
「主様」
いつも通りの昼下がり。草を踏む足音は一つ。この前より少し軽い。
「おう。よく来たな。夕映。今日も一人か」
「悪いな」
「良いんだよ。お前達は仲違いしてないんだろ」
「これから、するかもしれない」
虎は大岩の上に無防備に佇み、近くにはあの水盤があった。染師は速やかに剣を抜いて、虎の首を刺し貫いた。勢いよく引き抜いた。青い飛沫が森に散る。不思議と夕映にはかからなかった。水盤にどくどくと神の血が溜まる。
「ごめん。ごめんな主様。青が要るんだ。あの皿には、海よりも晴れやかな青でなければ釣り合わないんだ。ここを頼るのは最後にしようって、手に入るものは何でも、俺の血だって使ったけど駄目で、どうしようもなくて。許してくれ。誰もがひれ伏すような名作にするから、千年経っても誰も勝てない、傑作にするから。俺自身の名よりも歴史に残るものにするから。許して、許して、許して」
あの勝気な夕映が、泣きじゃくりながら血を集めている。こんなに幼い泣き方をする者に、友を殺させてしまったのかと、反省しなかったわけではない。だが、それ以上に、「つかれた」とは口にしない、犠牲さえ糧としようとする、傲慢なほどの強さに感嘆した。首に開いた穴は痛まない。この前の手の傷もそうだった。やはり森に落ちた時に、半分は死んでいたのだろう。流れる血も減ってきた。神も血が足りないと目がかすむのかと虎はまた学んだ。遠ざかる足音が聞こえる。安堵の吐息が聞こえる。「仕上げたら弔うから」と聞こえたのは空耳でもカケラでもなさそうだ。どうやら俺はまもなく死ぬらしいと虎は瞼を閉じる。次に目が覚める時はきっと、器転妖になっている。人型を得られなかったとしても、あの美しい色を産む男の作品になるのならば恥ではない。ここで終わったとしても悔いはない。彼は降り注ぐ孤独から救ってくれたのだ。これで良い。これが最善だ。最期くらい、恰好をつけたくなった虎は、まだ動く口を開いた。
「恨むまい。恨むまいぞ。俺が選んだことだ。あの愛しく欲深い人間に何の罪があろう。俺は愛する。俺は許す。喜んで、彼にこの身を捧げよう!」
生命の供物になる神が、一柱くらい居ても良いだろうと、虎は嘯き息絶えた。
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