ながれて

 今日も、アヤノモリは静かな昼下がりを迎えていた。森の主は奥の広場でごろりと大岩に寝そべっている。あの愉快な子供達と出会って七日は経っただろうか。まだ彼らは顔を見せに来ない。

「数百年、いや千年ぶりの話し相手だ。十日でも十年でも待ってやろうさ。他に急ぐことも無いのだから」

 空は今日も、虎の足が届かぬほど青い。最近は今ぐらいの時間になると、森の外から三日月琴の演奏がよく聞こえてくるが、今日はまだ聞こえなかった。

「あの音、好きなんだがなあ」

 水の深いところに居るような、森ではなかなか味わえない心地になれる音色だった。少年の片方は三日月琴の楽師を目指すと言っていたから、聞かせてやれればとも思う。

「早く来ないかな」

 森から出られるのなら、毎日駆けていくのに。ばたばたと寝そべりながら後ろ足を動かしていると、ぱたぱたと子供の足音が二人分聞こえてきた。

「応! 遊びに来たか!」

いや、彼等にすると遊びではないかも知れない。森の奥まで来た少年達は、妙に険しい雰囲気を纏っている。

「ミコトノホウジュってこの森に咲いてるか? 主様」

 染師見習いの夕映は、草刈り道具を片手に真剣な表情で尋ねた。

「初めての課題で、綺麗な青色の菓子入れを作るそうなんだ。夕映が森の花を摘むのを許してくれますか? 主様」

 楽師見習いの夜珠は、大岩で昼寝して居た虎に丁寧に伺いをたてた。森の主は花も実も根も青い多年草の在りかを頭の中から引き出す。

「海言宝珠なら木陰に山ほど咲いてるぞ。必要な分だけ摘んでいけ」

 夜珠の通訳を聞けば、やったと歓声をあげた夕映が日陰へと駆け出した。が、途中で止まってくるりと振り返った。

「ちょっとだけ夜珠を預けるけど、クモツじゃないからな! 後で摘んだ花を分けてやるから、それで我慢しろよ!」

 千年に一度あるかどうかの言い草に、虎は瞬間的に腹を立てた。

「人身御供どころ供物を要求したことも一度も無いというに! さっさと摘んでこい!」

 虎の咆哮に蹴り出されるように、小さな背中は日陰に入った。通訳者は口元を抑えてくすくすと笑っている。

「ごめんなさい。主様。ちょうどこの前の稽古で、祭礼についてあれこれ習ったものだから」

「アヤシまで祀るからあれこれぼったくられてるんだぞお前達は。賢いのか間抜けなのか、よくわからんなあ人間は」

 だらんと大岩に寝そべる虎の尾が、空いている場所を音を立てて叩いた。夜珠は少し探りながらも、そこに腰かけた。

「神様じゃない神様を祀ってても、主様は怒らないんだね。祟りとかしないの?」

「しないしない。気分のいい奴は少ないかもしれんが、俺に言わせれば遠くの親より近くの恩人の方が大事だろうってもんだ。だから、お前達の故郷や一族に祀ってる神がいるなら、気にせず大事にしてやれ。最近は多いんだろ? 祈りと供物が生きる糧になってるのが」

 自分も同じ性質だったら、五百年前には死んでいただろうなあと虎は内心で呟いた。夜珠は少し困った様に、両手を頬に当てていた。

「神様、居たのかな。分からないんだ。私達、ずっと孤児院の奥に居たから」

 ふに。持ち上げられた子供の頬は柔らかいが、とても薄い。虎が急に静かになったので、夜珠は言葉を続けた。

「私は珠のような月が浮かんでいた夜に、彼は燃え盛るような夕映の時に、捨てられていたんだって。私達の居た孤児院は、芸師寮の見習いの見習いと言うのかな。とにかくいろんな芸を教えて、見込みのある子はもっと教えて、一番できの良い子はこうやって都に招かれる。そういう所だったから、あんまり土地の人と触れ合わないんだ。誰か知らないけど、良い所に捨ててくれたよ。おかげで、夕映と三日月琴に出会えた」

 僅かに姿勢を崩して、虎に寄り掛かる。空の色は見えずとも、乾いた風が夜珠に晴天を伝えてくれる。

「大人になったら、あの大きな琴も自分で抱えて運べるかな。その頃にはきっと、夕映は国一番の染師になってるよ。だってね、凄いんだよ夕映は。目だけじゃなくて耳も良いんだ。私の音をちゃんとわかってくれる。きっとその内、主様の声も分かるようになるよ」

 そこまで話すと、頬に触れる手が小刻みに震えていることに夜珠は気づいた。

「どうしたの? どこか痛い?」

 ふーう、大きく呼吸する音が子供の肌に伝わる。虎は声を湿らせて言った。

「ごめんな。俺、本当の神様なのに。ごめんな」

 薄青い風が吹く。夜珠にとっては、寄りかかる相手と少し似た、滑らかな風だ。年上のひとが泣いても、普段の調子は崩れない。

「……大人から見ると、そんなに可哀想に見えるのかな。主様は、この風に免じて許してあげるけど、私はそんな風に扱われたくないな」

 憐れみに慣れた子供は、淡々と告げる。

「私は主様の輝く白色を見えなくても、肌で知ってる。これからもっと多くの彩を熱として記憶するよ。それを表す音だって、持ってるんだ」

 夜珠の口から歌が零れる。アヤノモリの主が産む風に音色を沈みこませるような、柔らかく水中へ誘う旋律。少年の楽才を知るには十分過ぎるものだった。

「最近、昼下がりに三日月琴を弾いていたのはお前か」

「それも風の知らせ? まだ専用の琴が無いからね。練習室が空くのは、だいたいこのくらいの時間なんだ」

「今日は良かったのか。行かなくて」

「だって、私の音と同じくらい、夕映の彩は大切だよ」

 未来の染師が、海言宝珠を摘んで帰って来た。天然の花の中から選んだとは思えないほど、花弁の大きさも色合いも揃った花々が籠の中に有った。

「ありがとよ。主様。魚型の菓子を入れる皿だから、海の色にしようって決めてたんだ」

夕映は一輪の花を籠から取り出して、夜珠に触れさせる。

「これが海色の花だ。どうだ?」

「しっとりした花弁だね。円くて柔らかくて、厚みもある。うん。沈んでいく感じだ。ありがとう夕映。演奏に使えるよ」

「よし。初課題もいつも通り、俺達が一番になろうぜ!」

 一つの花を分かち合うように、少年達は固く握手を交わした。虎は眩しそうに目を細め、彼等の未来を見守ろうと思った。


 夜の始まりに三日月琴の調べが聞こえてくる。夜珠の音は年を重ねるほど、洗練されていく。海神の祭器に由来する楽器を理解して、遠い海の底をを歩くような、たおやかな響きを含む。真夜中に聞こえてきたとしても、耳を塞ぎたくなるものは居ないだろうと虎は思う。

「優しい音色だな。夕映」

「その内、魔性に至るぜ。あれは。聞いてるやつの心ごと、海神の腹に捧げるようになる」

「王に聞かせるんだよな?」

「王も、それを気に入ってるんだ。夜くらい海底に引き摺ってもらわなけりゃ、玉座になんか座り続けてられないんだろうよ」

 初めての課題も二人そろって一番でこなせた、と笑っていた少年は、もう十代の半ばを過ぎる。夜珠の予想通り耳が慣れて、一人でも虎と話せるようになった。しかし、単身で森の最奥を尋ねたのは初めてのことだった。

「学寮から芸師寮に移って半年くらいか。調子はどうだ?」

「面白いぜ。あそこ。見たことも聞いたことも無い染料が山のように積まれてるんだ。十日後にはひとつ、新しいものを触らせてもらえることになってる。早く、俺の彩を工房の奴らに見せてやりたい」

 そうすれば、己はすぐに世に出るのだと信じて疑わない笑みだった。しかし、自信家は珍しく目を伏せる。

「……そうとでも思っていなけりゃ、夜珠の隣なんて、居られねぇからな」

「どういう意味だ?」

「そのまんまだよ。主様だって分かるだろ。あいつは本当の天才なんだ。気を張って追いかけなけりゃ手も届かなくなっちまう」

「お前が手を引いて森に来るじゃないか」

「その手だって、最近は引いてやれてない。専属の楽師にはお世話役が何人もついてるし、こっちの仕事が終わる頃にはあいつの仕事が始まって、もう何日も顔を合わせてないんだ」

「それは、寂しいな」

「寂しくなんかないさ。少なくとも夜珠は。雑念が有ったらこんなに弾けないだろ」

「分からんぞ。己の悲しさも込めて引いてるやも。少なくとも、俺は寂しい」

 大岩に伏せる様に寝ている虎の表情は、流石の夕映でも分からない。

「悪かったな。久々に来たのが俺だけで」

「違う。お前が来たのは嬉しい。だが、お前達が会えてないのは寂しい」

「なんだよそれ。主様に会えない友達が居るわけじゃないだろ」

 見守る側の心をまだ知らない染師に、どう教えてやろうかと虎は考えた。程よい言葉が思いついた時、三日月琴の音が強く響いた。郷愁と哀愁の海に引き込む弦の音。虎の言葉は形を変えた。

「千年会えない友が居る。生きてるかどうかも分からん」

「え?」

 伏せる姿勢は変わらずに、虎は語る。

「天界に居た頃の話だ。長様に連れられて、最果てに行ったときに出会った。控えめな笑い方をするが、思い切りの良い奴だったなあ。今はどうしてるだろう。北方は一番ひどく攻めたてられたと聞くが、幼子姿の宝神まで傷つけまいと思いたい」

 中界に降りて、初めて語ったことだった。若い染師は、聞き馴れない言葉が多かったのだろう。問いを重ねずにはいられなかった。

「さいはて? 天界は神様の居る世界のひとつだよな。方角が有るのか? 攻めたてられたって戦でもあったか? あと、たからかみなんて聞いたことないぞ」

「くはは。一度にたくさん尋ねてくれるなあ。順に答えようか。まず、天界は天上にある俺の故郷だ。方角もある。戦は、あれが初めてだった。戦と言って良いのかもわからん。あれよあれよと言う間に俺達は狩られた。宝神と言うのは、神が宝のように愛でていた花や宝石の内、力を得て神の仲間入りをしたものを言う。あいつは水晶の神だった。最果ての巨神が戯れに触れた、砂粒のようなちっぽけな石が、人型を得た。不思議な話だ」

 のそりと虎が顔を上げる、月光に似た瞳は、朧月夜のように滲んでいた。

「勘違いするなよ。人間が特別なわけじゃない。様々な本性を持つ者達が、相手を傷つけることなく話し合える姿として選んだのが人型だっただけだ。たくさんの生き物が神々の本性を真似て作られたのと同じで、お前達の姿は人型を模している。それだけだ」

「なんだよ急に。一番偉いんじゃなくて、一番弱いってことだろ。解るさ。それくらい」

 夜闇の中でさえはっきりと浮かび上がる白い毛皮の体躯が揺れた。

「すまんな。半分、己に言うていた。一番弱いお前達が知恵を巡らせて永らえる様は、俺は好きだ。最近は頭ばかり使うせいで耳目が衰えているようだが……ああ。これでもない。いろ、そうだ。色だ。お前の色は、あいつに似てる。黒い髪に黒い瞳に、白い肌で、濃い色も薄い色も似合う。けれど、お前をあいつの代わりにしようと思ったのではない。色以外はまるで似てないからな。ただ、お前と夜珠が並んでいると、千年前を思い出す。追われる前の、どこにでも駆けていた日々を。だから」

 主様、と、夕映が声をかけたのと虎が大岩から足を滑らせたのは同じだった。岩の側面に尖った個所が有ったのか、鋭利な草が深く擦れたのか、右前足の肉球が裂けた。ぱくりと開いた傷口から零れてきたのは、鉄の匂いがしない、真っ青な血液だった。

「おお嫌だ。これじゃ本当に爺みたいじゃないか。昔話に自分で酔って転ぶなんて。誰にも言うてくれるなよ。夕映」

 アヤノモリの主から溢れる血は、輝く毛皮に劣らず、夜闇の中で鮮やかさを保つ。太陽の下であれば、空が二つあるかと思えただろう。血を浴びた野草や小石は、晴天色の宝石のように彩られた。

「夜珠にも、秘密か」

「秘密は誰に対しても秘密だろう」

「わかった」

 いつにない聞き分けの良さに、虎はただ夕映の成長を感じて目を細めた。

「主様。俺、今日はそろそろ帰らないと。足は大丈夫か?」

「この程度、放っておけばすぐに治る。また、いつでもおいで」

「夜珠と一緒に?」

「お前が安らぐのなら、どちらでも」

 夕映は微笑んだ。昔話の水晶の神には似ていないが、朗らかな笑い方だった。

「また来るよ。主様」

 虎の血を浴びた石をひとつ拾って、染師は森を去った。


 

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