アヤノモリにて
嵯峨野吉家
はじまり
アヤノモリを豊彩の森とも、豊彩の守とも書き表すのは、豊彩国の伝説に由来する。曰く、千年前。まだ名前が無かった森に、一匹の白い虎が現れた。月の光を毛皮にし、陽の光を瞳にし、歩けば辺りに心地よい風が吹き、森の獣たちは虎の風に跪いた。人間達も遅れてその様子に気づき、当時の王が臣下を連れて森に訪れた。虎を見つけた王は尋ねた、
「貴殿は我らに連なるものか?」
王の一族は猛き虎の神の末裔であると信じられていた。神の末裔であるから玉座に座る資格があるのだと。虎は問いに頷いた。これにより、森は猛き神の化身たる、輝かしき虎のものと認められ、豊彩国の宮殿は森の近くへと移された。森から化身の守りを得ようという意図だったらしい。実際、宮殿は千年近く経った今でも形は損なわれず、近隣諸国の中でも類を見ない美しさを保っている。玉座に座る一族は交代したが。王家の交代にもまたアヤノモリの伝説がある。森の近くに移り住んだ王族たちは、自分たちが神の末裔であることをいよいよ疑わなくなり、民を木石と大差なく扱い、臣下を道具のように使い潰し、栄華と傲慢を極めた。飢えと嘆きと怒りが国中に膨らむ中、ある神官が禁足地となっていた森に忍び込み、かの虎に訴えた。
「貴方に連なる者は、もはや王ではありません」
虎はまた頷いた。神官はこれを神託として武官達に伝え、反乱を起こした。次の王族は「神より王権を授かった」ことを王位の正統性とし、人間は人間として扱うようにした。そして今日まで玉座に座り続けている。国教の主神は穏やかな海の神に変わったものの、虎の神は武家の間で強く信仰されている。己の末裔ではなく、豊彩の国そのものを守った気高き神として。しかし、化身は徐々に姿を見せなくなり、森からあの薄青い風が吹くことはなくなったと人々は語る。遥か彼方の天界へ帰還し、人々を見守っているのだろうと言われている。今、聖域の森に在るのは静寂と日溜りのみである……
「いや。まだここに居るんだがなあ」
アヤノモリに真昼の日差しがさんさんと降り注ぐ。真白い毛皮は柔らかく光を照り返す。森の奥の広場で、化身と呼ばれた虎は、金色の瞳を細めた。
「まさか、たった千年で人間の目が退化するとは思わなかった」
虎の目には森の向こうの王宮が見えていた。ちょうど、行儀見習いの貴族の子供達が、神官から森の伝説を教わっている最中だ。不思議な話に輝いていたり、眠たそうだったりするあの眼に、己の姿はもう見えないのだと思うと、唸りよりも吐息が口から洩れてしまう。虎の呼吸に応じるように、木漏れ日の一つが瞬いた。
「かた?」
瞬いた光が僅かに浮遊し、言葉を発した。虎はちょいと己の前足にそれを乗せた。
「応。思わなかった思わなかった。千年前に人間が来た時だって、俺はあいつらの落とした帯飾りを咥えて返してやろうとしただけだった。それから二百年経ってまた人間が来た時も、あいつの足飾りが解けそうだから結わいてやろうとしただけだった。そしたら王が変わってもう八百年だ。あいつら聞きたいものしか聞かないとは思っていたが、見たいものしか見なくなるとは思わなかったぞ。賢い生き物はさっさと森から離れてしまった。お喋りは俺だけ。聞いてくれるのはお前みたいな魂に満たないカケラだけさ」
「けさ?」
「今朝はそうだな、森の上を飛ぶ鳥の中にアヤシが混ざっていた。アヤシというのはな、生命でも神でもないものだ。人間は妖精とか妖怪とかいろいろ種類を分けたがる。あれは可愛い形をしていたから妖精なのかな。全く。ああいうのは感じ取れるくせに俺の風すら分からなくなるなんて。こう、心がうごうごする」
虎はうまく言い表せない気持ちの代わりに、サアと辺りにそよ風を起こした。光のカケラが転げ落ちそうになったので、慌ててもう片方の前足も添える。光は何事もなかったかのように言葉を繰り返す。
「うごする?」
「うご。俺は動こうとしないのか、だな。動けないんだよ。千年前に森に落ちてから、外には出られない。どうしてかは分からない。神様なのになあ」
薄青い風が草木を撫でる。葉裏を抜ける音は、遠い昔に聞いたさざ波に似ていた。
「なあ」
カケラが明滅する。
「うん?」
明滅する光を見つめる瞳は、黄金と呼ぶには淡すぎる色になる。
「かえりたい」
明滅し、膨らんで、カケラは消えた。木漏れ日が一つ戻った森は、静寂が支配している。
「……かえれて、よかったな」
元より、呼吸にたまたま反応しただけの魂に満たぬカケラだった。長く持った方だと虎も分かっていた。分かっていたが、聞き役が消えてしまうのは何回経験しても慣れない。サアサアと森に風が起こる。けれどその風さえ、森の外には出られない。
「いくら跳んでも、俺は帰れんのだ」
頭上に見える空は、風を何度起こしても敵わぬほど、鮮やかな青色だった。カケラを乗せていた前足を、そっと上に持ち上げようとしたその時。
「アヤノモリの主様って、ひなたぼっこの長老みたいだな。ちっともかっこよくねぇや」
「は?」
人間の声だった。しかも幼い子供の声。本来ならば喜びのあまり森に竜巻を起こしかねない事態だったが、台詞が悪かった。どすの利いた唸り声と共に振り返ってしまった。
「鳴き声は迫力が有るな。でもな、ちぐはぐなんだよ。光の化身でございって色してるくせに、そんな錆びた鉄みてえな声色じゃあ台無しだ。ヨタマはどう思う?」
黒髪を短く切った少年が、髪よりも濃い黒色の瞳を隣に向けている。視線の先に居るのも、やはり同じ年頃の少年で、こちらは豊かな白金色の巻き毛を伸ばし、目元に布を巻いていた。豊彩国では、目の見えぬ人間がする装いだ。声変わり前の高音で傍らの相手に応える。
「セキエイ。そこに居るの、本当に虎なの? 私には人の声に聞こえたよ。それも、長老じゃなくて、十七とか十八くらいの、若い男の人。怒りの音さえ風に馴染んで、楽師向きだ。精霊にも好かれそう」
人間の子供が二人、はっきりと虎を認識していた。ヨタマと呼ばれた少年にいたっては、人間に換算した場合の虎の齢までピタリと当てている。千を超える森の主が声を失っていることには気づかずに、十にも満たない子供達はやいやいと話し合う。
「セイレイってなんだ? 妖精と違うのか?」
「知らない? 最近は妖精の中でも位が高い存在は精霊って言うんだよ。三日月琴の稽古の時に先生が言ってた」
「知るわけないだろ。俺は染師の稽古に行ってんだから。位の高い妖精って神様じゃないのか?」
「神様はお社に祀られてるものを言うんじゃないかな。ほら、冬になると神官様達が大神殿に向かうだろう。あれ、妖怪や妖精の中から、新しい神様を選ぶかどうかの会議をしてるんだって」
「それも三日月琴の先生の話か? ずいぶんお喋りが多いなあ」
「お前も大したお喋りだから安心しろ。セキエイとやら」
名指しされた少年は、ひっ、と子供らしい素直な怯え声をあげた。先ほどまでの様子との違いに、虎はついついカラカラと笑ってしまう。
「まさかまだ俺に気づく人間が居たとは。気に入った! お前達、名は聞いたが字はどう書く? 表音文字じゃなくて表意文字で知りたいな。それと、一応ここは宮殿の敷地内だぞ。どうやって入って来た?」
「がうがう吠えたって分かんねぇよ! でかい図体でにじり寄るなよ気色悪い!」
「私達の名前の文字が知りたいんだって。セキエイ、書いてあげて」
「なんでわざわざ!」
「書いてる間は、私の隣に居てくれると思うよ」
おいでおいでと、盲目の少年は正確な方角に手招きをする。ふわふわと揺れる巻毛が、先ほど消えた光のカケラを思い出させたので、虎はするするとヨタマに身を寄せた。
「ヨタマのことかじったりしたら、お前の首をちょん切るからな」
「生身の虎だってこんな食べ応えのない子供は喰わん」
「主様は生身じゃない?」
ヨタマの薄い掌が、虎の毛並みを撫でた。幼子の体温は森の日差しよりも温かい。
「生身じゃないぞ。こうやってくっついても重たくないだろう」
普通の虎よりも大きな体を傾けたが、華奢な少年はよろめかない。
「本当だ。ひんやりするけど重くない。ちゃんと触れるのに」
変わった毛布を羽織る様に遊ぶ手に、虎はまたカラカラと笑う。こんな風に人間と遊ぶのは、生まれて初めての事だった。なので、セキエイが不機嫌そうに「書いたぞ」と声をかけた時は、返事が数拍遅れた。
「おお。表意文字も書けたのか。駄目で元々のつもりだったが、その齢で立派だな」
「やっぱり吠え声にしか聞こえねぇけど、人にやらせたこと忘れてたのは間合いで分かるからな。この野郎」
なかなかの力強さで主の耳を掴むセキエイの手も、幼いぬくもりがある。虎の口が吊り上がる様に違和感を覚える少年にさえ親しみを感じながら、土に書かれた文字を読んだ。
『夕映 セキエイ』
『夜珠 ヨタマ』
「ほお。夕に夜とはまた揃っているな。親類か? しかし、そうか。てっきりセキエイは石英と書くかと思っていたぞ」
「石英は水晶のことだよね。セキエイにはちょっと合わないな」
「色の無い石なんて論外だろ。そんな魂抜けそうな名前つけられてたまるかよ」
この国において、色は視覚的なものだけではなく、心や魂そのものを表現するものでもある。なので、夕映の言葉はさして珍しいものではなかったが、虎は緩んでいた口を真っ直ぐに結んでから、こう言った。
「透き通った石も良いものだぞ。空の色も海の色も、より彩りを増す」
夜珠も、夜珠に言葉を伝えられた夕映も、首を傾げた。まだ子供なのだと思い、虎は話を変えた。
「よし。お前達の名前は分かった。次だ。どこから来た? どうしてここに来た? 俺の森ではあるが、宮殿の中でも王宮だか大神殿だかが管理する土地だろう? 勝手に入れるとは思えんが……それともなんだ。実は位の高い貴族や武官の子供なのか?」
言いながら、中庭の景色を思い出す。位の高い子供なら、アヤノモリの主に畏怖とはいかずとも、もう少し遠慮や憧れが有るだろう。伝説の廃れた庶人の反応だと推測する。そして、仮説を補強するように子供達はけらけらと笑い出した。
「あはは! 私達が貴族? 武官? それこそありえない」
「あんな芸無し共と一緒にされちゃ困るぜ。俺達は芸師寮の見習いに選ばれたんだ。あいつらは今はぜいたくな暮らしをしてるかもしれないけど、千年後に敬われるのは俺達さ!」
ふたりの小さな体に、はち切れんばかりの矜持がみなぎっていた。この欲深いほどの勤勉さが、その熱量から生じる眩い風のようなものが、虎が人間という愚かしい生き物を愛する理由でもあった。
「げいしりょう? 最近新しくできた、国王お抱えの画人や歌人の住んでるところか。ああ、だから三日月琴や染師の稽古をしてるのか。お前達」
三日月琴は国教の主神となった海神に音曲を捧げる祭器に由来する、高貴な楽器であり、染師は陶磁器の彩色を専門とする、色彩を貴ぶこの国においては神官に並ぶ尊敬を集める職業である。幼い芸術家見習い達の力の入り様も虎には納得できるものだった。
「……アヤノモリの主様は、実は外出好き? 人間の社会にずいぶん詳しいね」
「外に出られなくとも、木の隙間から宮殿の様子くらいは見えるのさ。森の外から吹く風も、あれこれ伝えてくれる。中界の風も、気の良い奴らだ」
「ちゅーかい?」
「天界と海界の真ん中にあるだろう。この世界は」
人間には馴染みのない言葉だったらしいと、虎はまた一つ学んだ。てんかいとみかい、などと舌足らずに言葉を繰り返しているのは二人の幼さゆえか。微笑ましく見守りながら、ひとつ疑問が生じた。芸師寮にこんな面白い人間がふたりもいることに、どうして気づかなかったのだろうと。見習いという事は住んでいるのは芸師寮付属の学寮のはずだ。あそこは宮殿の中でも森に一番近い建物だというのに。もっと早く気づくべきではないか。もしや、この二人は人間に化けたアヤシなのか、今まで森に入れたアヤシは居なかったが俺もそろそろ歳なのだろうか、とまで思考が駆け回ったところで森の外から大声が聞こえてきた。
「夕映! 夜珠! どこに行った!? お前達が芸師寮に入るのは明日から、しかも学寮からだと何度も言っただろう!!」
たいそう良く響く声に悪戯者達が固まった。
「選ばれたと言ったが、住んでいるとは言ってなかったなあ」
からからと、堪えきれずにまた虎は笑った。やはり彼らは人間だった。芸に秀でた地方の子を都に呼び寄せるのも、芸師寮などというものを建ててしまう当代の国王の好みからすれば、よくある話だ。
「ひでぇ先生だよな。俺達、朝早くからずーっと馬車に押し込められてたのに」
「散歩もさせてくれないなんて。悲しくなるね」
開き直って、ついでに少し情に訴えようと子供達はひそひそ言い合っているが、口元が既に笑ってしまっている。
「学寮なら、森の裏手だ。またいつでも散歩においで」
夜珠はにこりと、夕映はにやりと頷いて、森の外へと走り出した。手を繋いだ二つの影がみるみる遠ざかる。良く通る声の先生と合流するのはまだ先だろう。
「しばらく、楽しいことになりそうだ」
アヤノモリに一陣、薄青い風が吹いた。
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