第11話 真夜中の一番深いところで
『話がしたいので、今晩浅生さんの家に伺っても良いですか』
スマートフォンに表示された佐藤さんの名前に息が浅くなる。いっそのこと気づかないふりをしてしまいたかったが、そういうわけにもいかない。重い気持ちで佐藤さんからのメッセージを確認し、やっぱりという諦念にも似た気持ちが胸に広がった。
話というのがどういう内容なのかはわからない。
けれど、始まってすらいなかった関係が今日で終わるのだろうという確信にも似た予感があった。
わたしだけがあの夜に取り残されていて、彼はもうもっと明るい方へと歩き出しているのだろう。
今晩というのが何時頃を指すのか確認していなかったことに気づいたのは、日が暮れてしまってからだった。大分温かくなっては来たが、まだ夜の時間は長い。
何時に来るかと確認のメッセージを送ることもできたが、やめておいた。確認したところでチャイムが鳴るまで待つということに変わりはない。非常識な時間に来るようなことはないだろうが、たとえ佐藤さんが来るのが遅くなったとしてもそれまでに何か別のことをする気にはなれなかった。
壁に掛けた時計が二十時を指す前に玄関のチャイムは鳴った。
玄関ドアの向こうに立つ佐藤さんは静かな表情をしていた。
コーヒーを入れようとしたら、今日は良いよと制止された。私はあなたに何を伝えるべきか何もまとまっていないのに、あなたの中ではもう、私との関係は完結してしまっているのだろう。
「体調は、大丈夫?最近、仕事よく休んでるから、心配してた」
「大丈夫です。ご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」
心配されることが煩わしく感ぜられて、ほんの少し語気を強めてしまう。わたしだけが傷ついて、そのことをいつまでも引きずっているかのようだった。
「まず、この間のことだけど、本当にごめん。同意もないのにあんなこと……。どうかしてた」
違う。謝ってほしいわけじゃない。
「君を傷つけてしまったこと、申し訳ないと思っている。もう二度と口をきいてもらえなくなっても仕方ないと思う。でももし、君が許してくれるのなら、僕はもう一度、以前のような関係に戻りたいと思っている」
「以前のような関係って、何ですか?」
自分でも驚くほど冷めた声が出た。それでも止められなかった。以前の関係に戻れるだなんて、本気でそう思っているのだろうか。
「勝手に電話してくるようになって、今度は勝手に距離を取って。挙句の果てに以前のような関係に戻りたいって。そんなことできるわけがないじゃないですか。あなたは最初から、自分の一番脆い部分は何一つ見せようとしないくせに私にだけそれをさせようとしている。私のことを何もわかっていないか弱い子どものように扱うのはやめてください。本当は自分が一番臆病で誰かに守られていたい癖に」
私はきっと涙で酷い顔をしているだろう。幼い子どものように泣きじゃくる私の背中を、佐藤さんはただ黙ってさすってくれていた。
「ごめん。本当にごめん」
繰り返される謝罪の言葉にかっとなって伏せていた顔を上げると、今にも泣き出しそうな佐藤さんの顔があった。
「君の言う通りだよ。僕は、君が何も聞かず何も期待してこないのを良いことに、その優しさに甘えてしまった。あんな風に自分で関係を壊しておいてまた以前のような関係に戻りたいだなんて傲慢にも程があるけど、でも僕は、あの時間に救われていたんだ」
今度は佐藤さんが泣き崩れる番だった。
「毎日、誰かから良い人でいることを求められて息が詰まりそうだった。君の言うとおり僕は臆病な人間だ。だから周りから良い人でいることを期待されるとそう振る舞うことしかできなかった。でも君と話している間は、優秀さや善良さを求められることはなかったから、息がしやすかったんだ」
涙声になりながら一つ一つ言葉を紡いでいく彼の背中をさする。
きっと今、わたしはこの人の一番脆い部分に触れている。それどころか鷲掴みにしてしまっているかも知れない。私はこの人が誰にも見られたくないと思っている部分を暴いてしまったのではないだろうか。私の方こそ傲慢だったのではないか。
「ごめんなさい、佐藤さん、ごめんなさい」
顔を覆う彼の両手に触れ、髪に、首筋に触れる。それでもまだ一番脆い部分を包んでやることができているように思えなくて、彼の頭を自分の胸に押しつけて抱きしめた。
佐藤さんの両手が私の背中に触れる。
涙が涸れるまで、二人で抱き合っていた。
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