第9話 受容と拒絶

 「今、タオル持ってきますね」

 誰もいなかった部屋は外よりも寒く感じられた。タイツ越しにフローリングの冷たさが伝わってくる。慌てて部屋の電気を付けてエアコンとこたつのスイッチを入れる。

 フェイスタオルと、濡れたジャケットを掛けるためのハンガーを佐藤さんに手渡す。

 「お茶、入れますね」

 「ありがとう。でもそれより、風邪を引く前に着替えておいでよ。服、大分濡れたでしょう。俺のことは気にしなくて良いから」

 言われて、濡れたセーターとタイツが身体にまとわりついていることを思い出す。すみませんと断って寝室へと着替えに行く。


 濡れた服を全て脱ぐと、部屋の隅に置いてある姿見に映る自分の身体に目が行った。

 魅力的とは思えない自分の身体。体質のせいか、胸も腰回りもふっくらとした肉付きとはほど遠い。意思の弱そうな目元に乾燥で浮いてしまったファンデーション。冷えた指先で鏡の自分にそっと触れた。

 髪と身体をタオルで拭いて、セーターとテーパードパンツをクローゼットから取り出す。乾いた服に着替えると、心なしか気分がすっきりした。

 濡れた服を洗濯機に放り込み台所に立つ。

 こういうとき、お酒でも出せたら良いのだろうけど、生憎アルコールは料理酒くらいしか置いていない。

 「すみません、コーヒーと紅茶と、日本茶くらいしかないんですが、どれがいいですか」

 「ありがとう、じゃあコーヒーでお願いします」

 「ミルクとお砂糖は」

 「ブラックで大丈夫だよ」

 マグカップを二つ用意して、インスタントコーヒーの粉末を注ぐ。片方には砂糖とクリープも入れる。

 電気ケトルの機械音を聞きながら、話題を探す。寒くはないか。引き留めてしまったが迷惑ではなかったか。頭の中でいくつもの言葉が浮かんだがどれも口には出せなかった。

 こたつの前に座る佐藤さんの様子を伺ったが、特に気まずそうにしている様子もなかったので少しだけ安心する。

 「すみません、インスタントコーヒーしかなくて」

 ブラックコーヒーの入ったマグカップを手渡して、佐藤さんの右隣に座る。自分の分のマグカップを両手で包み込むと指先からじんわりと温まって、思わず吐息がこぼれた。

 「ありがとう」

 エアコンの音と時計の秒針の音がやけに耳に響く。気まずさを隠すように何度もマグカップに口を付けた。

 「いつもは電話越しなのに、こうして隣にいると、なんだか不思議な気分だね。職場でいつも顔を合わせているのとも違う感じがする」

 自分だけが感じていると思っていたことを相手に言葉にされて、緊張がほぐれる。

 「あの、聞いても、いいですか」

 「うん?」

 「どうして、毎週電話をかけてくれていたんですか」

 ずっと気になっていたことだった。

 毎週、土曜日の夜に電話をかけてくれる。最初はわたしの身を案じてのことだった。けれどそれ以降は恐らく違っていただろう。

 週に一度、電話でとりとめのない会話をする。いつしかスマートフォンが着信を告げるのを心待ちにしている自分がいた。

 付き合ってなんていないし、ましてや友人ですらないかも知れない。全ての関係に名前が必要だとは思わない。それでも、電話の向こうの相手が、自分と同じ感情を抱いてくれているのではないかと期待せずにはいられない。

 そんなことを言葉にして、ましてや直接聞いてみようだなんて、たった今まで考えたこともなかった。今日のわたしはどこかおかしいのかもしれない。

 「どうして、かな」

 そう呟きながら佐藤さんは物憂げに視線をさまよわせる。その表情が、自分の感情を表す言葉を知らずに持て余している子どものように見えた。膝の上で握りしめている彼の右の拳をそっと左の手のひらで包んでやると、彼ははっとしてわたしを見た。

 握りしめていた右手がゆっくりとほどかれていく。互いの手のひらが合わさると、小指から順にゆっくりと、まるで何かを確かめるかのように指を絡ませていった。

 佐藤さんの左手が伸びてきて、私の右頬に触れる。反射的にぎゅっと目をつぶった。

 幸福だとは思わなかった。お互いに、情熱があったとも思えない。ただ、お互いの孤独を分け合うように唇を重ねた。

 私は気がついたらカーペットの上に仰向けになっていて、覆い被さるように抱きしめられていた。恋人同士のそれというよりは、幼い子どもが必死に甘えているような印象さえあった。普段誰にも隙を見せようとしない佐藤さんの、脆い部分に初めて触れている気がした。

 彼の手が、セーターの上からわたしの背中をなでる。

 このまま抱かれるであろうことは容易に想像ができた。

 けれど彼の手が、セーターの下の肌に触れた瞬間、触れられた部分がぞわりと粟だった。

 うつむいている佐藤さんの顔は影になってよく見えない。

 その瞬間、彼氏はいるのかと聞いてきた面接官が頭の中を駆け巡った。

 全身をなめ回すようにまとわりつく視線。

 間延びした語尾。

 笑みを浮かべる度に見え隠れする黄ばんだ歯。


 怖い。


 彼の手がブラジャーに触れた瞬間、私は彼の肩を押し返していた。

 ごめん、と酷く悲しそうな声で謝る彼の顔を、わたしは見ることができなかった。

 「ごめん、本当にごめんなさい。今日は帰ります」

 佐藤さんは掛けてあったジャケットをハンガーから取ると、着もしないで玄関へと向かう。

 私は見送ることもできずにソファの上で顔を覆っていた。

 佐藤さんが開けた玄関の向こうから聞こえる音で、まだ激しく雨が降っていることがわかった。

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