第8話 近くて遠い
土曜日は朝から晴れていたので、先週公開された映画を観に駅前のシネコンへ向かった。
今人気の若手女優が主演を務める恋愛映画は、土曜日ということもあり大半の席が埋まっていた。
大学生のカップルが、つきあい始めた頃は幸せ一杯だったものの、就職して日々の仕事に忙殺される中で、二人の関係性が変化していく、というストーリーだった。
何とか会社での立場を得ようと必死な男性は、漫画本を捨て、自己啓発本やビジネス本を本棚に並べるようになる。仕事に対する意識の高さのようなものを言動の端々に滲ませ、恋人の女性のことは世間を知らない小娘と言わんばかりに扱うようになっていく。
物語の佳境で、主人公の女性はそれまでため込んできた感情をむき出しにし、男性に対して泣き叫んでいた。
「長い時間を共に過ごし何度も肌を重ねて、お互いを深く理解し合っていると思っていたけど、今はもうあなたのことが何もわからない」
映画が終わった後は併設のショッピングモールで昼食を食べ、冬のバーゲンセールをしている店をいくつか見て回った。何着か試着はしてみたものの、結局何も買わずに店を後にした。
春が近づいているといってもまだ日は短く、外に出るとあたりは既に暗くなっていた。
夕飯は簡単に済ませようと思いながら帰り道を歩いていると、雨粒がぽつりぽつりと落ちてきてアスファルトにしみを作った。本降りになる前に帰ろうと思ったのも束の間、バケツをひっくり返したように大量の雨粒が降ってきた。
数十メートル先にコンビニを見つけ、駆け足で向かう。たどり着く頃には髪の毛から水滴が滴っていた。
コンビニの中はわたしと同じ状況と思われる人が何人もいて、雨水でぬれた床を店員がモップで拭いていた。
雨はしばらく止みそうになかったので、ビニール傘と夕飯に弁当を買って帰ろうと思ったが、皆同じことを考えていたらしく、ビニール傘は既に売り切れてしまっていた。
濡れた服が身体にまとわりつくのがひどく不快だった。身体は既に冷え切ってしまっていて、すりあわせても指先はきんと冷たいままで、次第に惨めな気分になっていった。
途方に暮れながら止む気配のない雨を眺めていると、入り口の自動ドアが開いて、傘を持った男性が入ってきた。つい傘をじっと見てしまうが、視線を上げて思わず「あ、」と声が出てしまった。わたしの声に気がついた佐藤さんもこちらを見て驚いた顔をする。
「浅生さん、まさかこんなところで会うとは。それにしても急に降ってきたね。大丈夫?」
心配そうにのぞき込む目を直視すると涙が出てしまいそうで咄嗟にうつむく。急な雨だったから傘を持っていないのは普通のことなのに、自分だけが傘を持っていない愚か者のように思えてしまう。
「まさか、降ってくるとは思わなくて。佐藤さんは傘持っていたんですね」
思わず自嘲的な笑いがこぼれる。
「今日は会社にいたから、置いていた傘が役に立っただけだよ。それより、家はどこだっけ、止みそうにないし送るよ」
「でも、悪いですし」
「このまま待っていても風邪を引くだけだろう。家まで送るくらいどうってことないよ」
断る術がなくなってしまい、ありがとうございます、と消え入りそうな声でお礼を言った。
わたしの家に着くまでの間、いつものようにとりとめのない話をした。クライアントが無茶な要求をしてきたため、休日出勤する羽目になってしまったこと、私が今日観た映画のこと。いつも電話越しの声が、今日はわたしの頭の少し高いところから聞こえてくる。電話越しではわからなかった表情が、首を斜め上に傾ければ見える。けれどわたしは前を向いたまま動けなかった。
「じゃあ、風邪引かないように温かくしてね」
アパートの前まで来ると佐藤さんはすぐに踵を返そうとする。佐藤さんのスーツの右肩が濡れていることに気がつく。濡れているはずのわたしの左肩は熱いくらいに感じた。
「あの、良かったら、お茶だけでも、飲んでいきませんか」
絞り出すような声しか出なかった。振り返った佐藤さんは驚いた表情をして、少しの間逡巡するように視線をさまよわせた。取るに足らないわずかな間の沈黙のはずなのに、耐えがたくて、佐藤さんも風邪ひいてしまいますし、等と聞かれてもいないことを言い訳のように並べてしまう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言った彼は、どこか寂しそうに笑った。
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