第4話 賢明さと要領の悪さと責任の所在

 喧噪を背に化粧室に入ると、途端に大きなため息が出た。気づかないうちに全身に力が入ってしまっていたことがわかる。洗面台に手をついて深く呼吸を繰り返していると涙さえ出てきそうだった。

 しばらくの間息を整えていると、軋んだ音を立てて化粧室の扉が開いた。上座側の席に座っていた女性が入ってくる。胸元まで伸ばされた髪の毛は緩くきれいに巻かれていて、淡いモカブラウンのニットも歩く度にふわりと揺れるフレアスカートも、一分の隙もないほどに計算し尽くされたようなかわいさが目にまぶしい。彼女はわたしの隣の洗面台の前に立って鏡をのぞき込む。

 「部長、ほんときもいですよね」

 ぽってりとした唇に淡いピンク色のリップグロスを載せながら、彼女の印象とはかけ離れた冷めた声で話しかけてくる。

 「……きもい」

 「あの人、飲み会の度に酔っ払って怒鳴るし、セクハラまがいのこともしてくるじゃないですか。女性社員にお酌強要したり彼氏はいないのかーとかしつこく聞いてきたり。まあ酔ってなくても似たようなもんですけど。何時代だって感じですよね。付き合わされる身にもなってほしいですよ。あ、でもあの人、家じゃ奥さんと娘さんに無視されてるらしいですよ、笑っちゃいますよね」

 ほんときもいね。無視されるなんて自業自得だよね。そんな言葉が頭の中に浮かんだが、どれもしっくり来ない気がして、音にはならなかった。

 彼女は、黙り込むわたしを横目で見やると、ふっとため息をつくように笑った。

 「まあでも、ああいう時は、笑って流すのが賢明だと思いますよ」

 化粧道具をポーチにしまって、彼女は化粧室を後にする。彼女のヒールが床を叩く音が耳にこびりついた。

 化粧室に一人残されたわたしは頭の中で彼女の言葉を反芻する。「ああいう時」というのは、先ほどわたしが部長に怒鳴られていたことを言っているのだろう。

そうか。「そうですね」と笑って受け流せば良かったのか。あの場で考えられる行動は、正面から反論するかやり過ごすくらいだが、前者はあまりにリスクが大きい。反論をしたところで部長は聞く耳など持たないだろう。それどころか却って刺激してしまうことにもなりかねない。ならば笑ってその場をやり過ごすのが賢明だというのが彼女の発言の趣旨なのだろう。

 気がついてしまえば酷く簡単なことのように思える。けれど渦中にいた時はそんなこと思いつきもしなかった。彼女はわたしのことを要領の悪い人間だと思っただろうか。もしかしたら、あの場にいたわたし以外の人は皆、同じように考えていたのかも知れない。

 わたしが気づいていないだけで、今日のような場面はこれまでにもたくさんあったのだろう。仕事で発注ミスをしてひたすら頭を下げていた時も、子どものお迎えがあるから帰らねばとわたしに仕事を押しつけた社員が実は飲みに行っていた時も。きっともっと上手く立ち回る方法が存在していたけれど、わたしだけがそれに気づかず過ごしてきたのだろう。


 鏡の前でぼんやりと思考を巡らせていると、いつの間にか廊下が騒がしくなっていた。化粧室の扉をそっと開けると、同僚や先輩らが身支度をしながら出口へと向かっていくのが見えた。一次会は終了し、二次会へと向かうのだろう。

 一次会の会費は予め徴収されていて、わたしは二次会に参加する気は端からない。席に置いてある荷物を取ったら目立たないように駅へ向かおうと算段を立てる。お酒はほとんど飲まなかったが疲労感が酷く、これ以上誰かと喋る気力は残っていなかった。

 誰もいなくなった部屋は当たり前だけどしんとしていて、空気もいくらか冷たくなっている気がした。テーブルの上の汚れた食器や散らばった割り箸が、酷く品のないもののように見える。

 部屋の隅に忘れ去られたバッグとコートを回収して出て行こうとすると、テーブルの上に置いてあるスマートフォンが目にとまった。それが忘れ物であることは明白だが、あの酔っ払った集団の中から持ち主を探し出すのは、骨の折れる作業だろう。けれど気づいてしまった物を放っておくのも気が引けたので、手に取って外へ向かう。小さなため息が口をついた。

 店員に会釈をして出入口の扉を開けたところで、中に入ってこようとした人とぶつかりそうになった。すみません、と反射的に謝りながら顔を上げると、佐藤さんが心配そうにこちらをのぞき込んでいた。

 「ごめん、大丈夫だった?あれ、そのスマホ俺の」

 佐藤さんがわたしの左手に握られたスマートフォンに気がつく。

 「あ、これテーブルの上に置いてあって」

 「回収してくれたんだ。ありがとう。ちょうど気づいて取りに戻ろうとしてたんだ」

 佐藤さんはスマートフォンを受け取ると、電源がつくことを確認してスラックスのポケットにしまい込んだ。するとまた、心配そうな表情で口を開く。

 「さっき、大丈夫だった?」

 「……さっき」

 「部長に怒鳴られてたでしょう。あの人、いつもああだから」

 そのことかと納得すると同時に、仲裁に入ってくれたお礼を言っていないことに気がついて、慌てて頭を下げる。

 「さっきは、ありがとうございました」

 「いや、本当はもっと早く入れていたら良かったんだけど。前に泣き出しちゃった子がいて。それ以来気をつけてはいるんだけど、嫌な思いをさせてしまって申し訳ない」

 「?佐藤さんが謝ることでは、ない、と、思います」

 一音一音確かめるように言葉を発する。そうすることで、自分の頭の中が整理できたような気がした。

 部長が怒鳴ったことは部長がしたことであって、この人が責任を持つことではない。たとえあの時佐藤さんが仲裁に入ってくれなかったとしても、それは責められたことではないだろう。あの場にいた全員が、自分以外の誰かが矢面に立ってくれることを望んでいたし、自分が標的にならなかったことに心底ほっとしていただろう。それを責めようという気持ちは全くない。

 至極当然のことを言ったつもりだった。だが佐藤さんが何も言わないので、途端に自信が無くなってしまう。

 少し驚いたような顔をしていた佐藤さんは、数秒の後に何かに納得してようにふっと表情を緩めた。

 「そっか、そうだね。ありがとう」

 なぜお礼を言われたのか頭の中で処理できず、今度はわたしがきょとんとしてしまう。こういう所が要領が悪いんだろうなと会話中だというのにぼんやり考えてしまう。

 わたしが返答に窮していても、佐藤さんは気にしていないようで安心する。この話題はこれで終了ということかもしれない。

 「そういえば浅生さんの連絡先知らない気がするけど、良かったら教えてもらってもいい?」

 気がするも何も、そもそも佐藤さんとまともに会話をしたのは今日が初めてだ。

 あまり親しくない人に連絡先を教えるのには少なからず抵抗があるが、同じ会社だというのに断るのもおかしいだろうと思い諦める。佐藤さんの為人を把握しているわけではないが、他人の連絡先を悪用しそうには思えない。実際に連絡を取ることもそうないだろうから交換しても差し支えはないだろう。

 スマートフォンを取り出してメッセージアプリの連絡先を交換する。わたしのスマートフォンの画面に現れたアカウントには鮮やかな青い海の写真が表示されていた。旅先かどこかで撮影したものだろう。写真の下に表示されたアカウントの名前は佐藤一臣。今初めて知った下の名前を、名字と共に頭の中で繰り返し呟いた。

 「佐藤さーん、二次会行きますよー」

 少し離れたところから、佐藤さんの名前が大きな声で呼ばれる。二次会へ行くらしい人が集まって早く来いと言わんばかりに佐藤さんを手招きしている。

 「ごめん、もう行かないと。遅れて来たから、二次会はちゃんと参加しろって言われちゃって」

 橋本さん曰く人気者の佐藤さんと皆話したがっているのだろう。

別れの挨拶を簡単に交わすと、わたしは二次会の会場とは反対方向の駅へと向かった。

 駅までの道のりには、明日が休日だからか、お酒の回った集団が目についた。真っ赤な顔で大声を出している集団を見ると馬鹿馬鹿しく思えるが少しうらやましくも感じてしまう。

 今日の飲み会で言われたことが頭の中で繰り返される。部長の怒鳴り声、女性社員の冷めた声、佐藤さんの申し訳なさそうな声。きもい、ああいう時、大丈夫、申し訳ない。

 一歩踏み出すごとに声が遠のいていく。頬を刺す冬の風が気持ちいい。

 どの道をどうやって帰ったかもおぼろげまま自宅アパートにたどりつき、軽くシャワーを浴びて沈むようにベッドに入った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る