第3話 息を潜める

 飲み会は苦手だ。そもそもわたしはお酒が飲めない。お酒が進むにつれてのぼせたようになっていく雰囲気の中、一人冷静な頭でその雰囲気についていくのは難しい。居心地の悪さを隠したくて、何が面白いのかもわからないのに笑ってばかりいたこともある。

 普段なら何かしらの理由を付けて断るところだが、早めの忘年会と言われては断りづらい。わたしと同じように普段は飲み会に参加しない人の姿も、今日は多く見られる。

橋本さんは家で子どもが待っているからと忘年会は欠席した。

 テーブルの上には刺身の盛り合わせやシーザーサラダ、唐揚げなどの皿が所狭しと並んでいたが、どの皿も料理がほんの少しずつ残っていた。

 「最近の若いもんは、碌に仕事も覚えていないくせに有給ばかり取るし、残業もしようとしない。たるんでるよまったく。俺が若い頃は休日も返上して会社にこもっていたし、もっとがむしゃらに働いていたって言うのに」

 使い古されたような嫌味がテーブルの向こうから聞こえてくる。ことあるごとに部下を馬鹿にすることで有名な部長の言うことが、正しくないということは皆よくわかっている。けれど誰もそのことは口にしない。部長の周りに座っていた何人かの社員が、困ったように笑いながら部長をなだめる。

 わたしはテーブルの一番端、出口に一番近い位置に座っている。上座の方で社員に囲まれている部長とは席が離れているので、嫌味の標的にはならずに済んでいる。

わたしの近くに座っている人は、わたしを含め社内ではあまり目立たないタイプの人ばかりだ。喋ることが得意でない人が多いため、会話も途切れ途切れになりがちだ。大きな声が響く向こう側とは大分温度が違って感じられる。

 「それからお前ら。いつも端の方でつまらなさそうにしやがって。辛気臭くて見ててイライラすんだよ」

 突然飛んできた大声に、水を打ったように場が静まりかえる。それがわたし達に向けて放たれた言葉だと気づくのには少し時間がかかったと思う。いつの間にか部長はこちらをにらんでいるが、だいぶ酒が回っているのか視線が定まっていない。

 「何とか言ったらどうなんだ。お前らには自分の意見ってものがないのか」

 追い詰めるように語気を強めながら、ジョッキを片手にこちらへ近づいて来る。大げさな足音を立てる度にジョッキの中に半分ほど残っているビールが波打ちこぼれそうになる。部長はそのままテーブルの端までやってくると、わたしの隣にどすんと腰を下ろした。

 わたし横で放たれる怒鳴り声は、確実にわたしの耳に届いているのに頭の中を素通りしていく。うつむいたまま目だけで周囲の様子を伺うと、皆居心地悪そうに部長から目をそらしている。

 自分以外の誰かが声を上げてくれないかと全員が思っているのが見て取れる。普通に考えれば今現在部長の隣に座っているわたしが部長をなだめるべきなのだろう。けれど口の中がからからに渇いて声が出てこない。目の前のウーロン茶を飲めば声は出るかもしれないが、膝の上で握りしめている両手を動かすことはできそうもない。

 こうしてうつむいて黙っている間にも怒鳴り声は大きく言葉遣いは粗野になっていく。このまま息を潜めていたらやり過ごせないだろうか、などとどこか冷静に考えてしまう。ウーロン茶の入っているグラスにつく水滴の数を無意識のうちに数え始める。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 「いやあ、遅くなっちゃってすいません。商談、長引いちゃって」

 背後で引き戸が勢い良く音を立てて開き、場違いなほど軽快で良く通る声が飛び込んで来る。

 振り返ると、佐藤さんがいた。

 佐藤さんはこちらを見るとわずかに傷付いたような表情をしたが、すぐに隙のない笑顔に戻った。コートを脱ぎながらわたしと部長の間に身体を滑り込ませた。

 「せっかく部長が出席してくださったのにおくれてしまって申し訳ありません。でも今日の商談、しっかり取ってきましたよ」

 「おお、そうか!先方は気難しい人だが、お前を行かせて正解だったな。俺がしごいてやっただけのことはある。ほら、お前らも佐藤を見習えよ」

 部長は充血した目でこちらを一瞥すると、佐藤さんに大声で喋りかける。まるではじめから、わたしなどどこにもいないかのようだった。

 他の人達も、思い出したように会話を再開し始め、部長の大声と混ざり合っていく。

 音を立てないように注意しながら席を立つ。音を立てれば、わたしがいることを皆が思い出してしまうような気がした。

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