第143話:幸運だった、誰にとっても

「さすがエリアカ、ジュニアの一回戦見てたよ。良い試合だった」

「どうも。僕はこの日を心待ちにしていました」

「僕もだ」

 全日本卓球選手権大会。国内の卓球選手が目指す一つの山巓である。その大舞台の一回戦で同郷の石川県勢がまみえることとなった。

 不知火対和倉。

 EA、エリートアカデミーとはJOCが五輪を目指す人材育成を目的とし、各競技の将来性豊かな人材を集め、育成するための取り組みである。

 卓球の枠は四人程度、中学から高校卒業までの期間、集中的に選りすぐりの指導者による高度な指導を受け、どの競技でもガンガン実績を出している。

 狭き門であり、其処に選ばれたのは将来性込みの、圧倒的才能を買われたから。

 握手でわかる。手が大きい、足も大きく背は此処からぐんと伸びるだろう。幼少期から積み上げた技術に、此処から飛躍を約束されたフィジカルが乗る。すでに湊が復帰する前に、クラブでやり合った時とは別人である。

 ジュニアの一回戦は楽勝していた。

 だが、

「本気でやろう」

「はい」

 此処は一般の部。和倉のような超中学生から高校大学のスーパーエースたち、実業団、プロのピークを迎えたトップ層、果てはアマチュアにて牙を研ぐ歴戦の猛者たち。容易い場所ではない。文句なしの日本一を決める大会であるから。

 そして今、和倉の目の前には――

「よーし、楽しむぞー!」

 今大会、ぶっちぎりの優勝候補がいた。


     ○


「二次の勉強しないの沙紀ちゃん」

「今休憩中~」

「んま、油断して。ちょっと共通が良かったからってトゥーダイは甘くないんですからね。どうなってもママ知らないから」

「もーすぐ決勝」

「あらま! 早く言いなさいよ~。パパ連れてこよーっと」

「ったく、大会の日程ぐらい把握しときなさいよ。一応スポンサーでしょうに」

 うっかりさんな母を尻目に、神崎沙紀はテレビの向こうを見つめていた。本当に恐ろしいほどの速さで駆け上がったものである。全日本の優勝候補と言うことは、まあ言ってしまえば五輪の候補でもあり、日本卓球を背負って立つ人材と言える。

 此処で優勝してしまえばもう、それは決定的なものとなるだろう。

 手の届かないスーパースターまであと少し。

 昨年まで当たり前のように、一緒に卓球をしていた身とすれば少し思うところがある。きっと今、他の皆もテレビを無¥見つめている頃合いだろう。

「……ん?」

 そんな時、沙紀のスマホに着信が入った。

 相手は――佐村光。

「どうしたの光」

『電話するか迷ったんだけど、やっぱり決勝だからどーしても話したいと思って。今お勉強中?』

「休憩中。決勝終わるまで休憩~」

『えへへ、だよねえ』

 明菱卓球部先々代部長、佐村光。先代部長、神崎沙紀。そして現在は難物であり怪物である二人とその派閥相手に苦心する円城寺秋良が部長であった。

 未だによく相談されるのだ。上に沙紀がいないとあの二人はすぐ衝突するし、勝手に派閥と化した連中も扇動してエグイ空気になる、と。

 何度か顔を出し諫めたことも――余談である。

『凄いことになってるねえ、湊君』

「これが丸っと二年前までは卓球自体をやめていたんだから意味不明よね」

『卓球界に触れてわかった大事件だよねえ』

「ほんとそれ」

 不知火湊、佐伯湊が卓球をやめる。かつての自分たちはそのことに対し、さして大事だとは思っていなかった。当たり前のように指導を受けて、当たり前のように卓球をして、当たり前のようにボコボコにされてきた。

 普段は卓球が上手いだけの陰キャ眼鏡、それが湊である。

「でも、その湊様がそっちにも顔を出したみたいじゃん?」

『あれは驚いたよぉ。同好会で練習していたらいきなり現れて遊びに来ました~だもん。そりゃあいつか来てねって連絡してたけど、まさか本当に来るなんて』

「総体前までならまだしも、貴翔君に勝ってからはもう完全復活、帰ってきたジーニアス、お帰り僕らのスーパースター状態だったもんね。そりゃあ驚くかぁ」

『でも不思議と練習場で眼鏡を外すまでは誰、みたいな空気だったなぁ。最初から思っていたけど湊君ってオンオフ激しいよね』

「ほんとにね。日常生活じゃ絶対に目に入らない自信あるもん」

『そ、其処までは言ってないけど……だけど指導は本当に、びっくりするほど上達って言うか、大人になってたよ。もう、前みたいな悪口もなくなったし』

「あはは、確かにここ一年ああいうの減ったね。本人も勉強中みたいよ」

『大好評。ころもちゃんも楽しかったって言ってたし』

「ころも? 同好会の人?」

『あ、如月ちゃんだよ。如月衣ちゃん』

「……ころもって読むんだ。めっちゃ可愛い系だね、名前」

『ころもちゃん乙女だよ~。乙女過ぎて男子と接するの緊張するからって、結局女子同好会になっちゃったし……まあ楽しいからいいんだけどね』

 沙紀はふわふわとその情報を聞いて小躍りする湊を想像する。本当に卓球以外はもう、その辺に転がっている男子高校生であり、海綿体の生物であった。

『あと遅れ馳せながら共通よかったんだって? おめでとう』

「所詮共通は足切り点さえ取ってればって感じだし、勝負はこれからだけどね。まー、ぼちぼちと頑張りますよ~。親友に今度は自分を逃げに使わないでね、ってくぎを刺されたからね~。あれ傷ついたなぁ」

『沙紀ちゃんのためを想っての苦言だもん。悔いはありません』

「冗談冗談。感謝してる。光に同じ大学が良いって言われたら……きっと私はまたそっちを選んでいたと思うから」

『同じ大学の方が嬉しいよ。でも、沙紀ちゃんの挑戦する機会を奪うのは嫌ってだけ。本気になった私の親友は凄いんだぞって自慢させてね』

「はいはーい」

 明菱を受験したのは友達がいるから、家から近めだから、色々と言い訳していたが、本当のところは上で勝負して負けるのが、自分の居場所を、現実を知るのが怖かったから。そう言う弱さは家族にも、親友にも伝わっていた。

 恥ずかしい過去である。

 だけど、そのおかげで、逃げたおかげで、一生の思い出が出来た。一生胸を張れる大きな勲章を手に入れることが出来た。

 戦う友が、戦友が出来た。

『幸運だったね、私たち』

「うん。心の底から、そう思う」

 不知火湊が不運にも卓球をやめて、近くの学区から離れたくてわざわざ電車通学の明菱を選んだ。あの時は誰も、何も想っていなかったけれど、それがどれだけの幸運であったか、普通はあり得ないのだ。彼の実績ならば前述のEAにも当然選ばれたであろうし、そうでなくとも卓球の名門校を受験するはず。

 この県なら龍星館であっただろう。通学だって今よりずっと楽になる。

 それなのに彼は明菱に来た。

 そして出会ったのだ。どうしても誰かと卓球がしたくてそれにしがみついていた少女と、その親友を見捨てて逃げた弱い自分を直視できず友達からも逃げ続けた少女。きっと、彼がいなかったら再び友達に戻ることはなかった。

 こうして電話することもなかった。

 きっと、二人とも卓球せずに別の場所で、別のコミュニティで最後のモラトリアムを過ごしていたことだろう。それはそれで楽しかったかもしれない。

 だけど、今みたいに夢中にはなれなかったと思う。

 熱く、燃え盛る経験は、なかった。

「私はきっと、一生不知火湊に感謝し続けるのよね」

 逃げて逃げて逃げて、最後のがけっぷちに現れたのが逃げ慣れておらず、逃げ方がド下手くそな、不器用な天才少年であった。

 あの巡り会わせがなければ今の自分はない。

 小さな、あまりレベルも高くない箱庭の女王様をやって、それで終わり。一生挑戦することもなく、戦うことから逃げて終わっていた。

 だから神崎沙紀は――

『沙紀ちゃん、まだきっと間に合うよ』

「何が?」

『湊君、ほら、スキャンダラスだから!』

「ぶっ」

 沙紀は噴き出して、

「ちょ、そういうのじゃないって。恩人だと思っているし、尊敬もしてるけど、私はもう充分もらったから。ってか、光こそ一番好かれてるでしょ、どう考えても」

 赤面しながらそうじゃない、と力説する。

『私は違うよ。たぶんあの頃の湊君は本音を吐き出せる相手が欲しかったんだと思うよ。それこそお母さんみたいな』

「……あいつ、母親は一緒に住んでるでしょ、普通に」

『でも、ほら、色々あって離婚したこと張本人にはさ、言い辛いこともあるじゃない? だから、たぶんそういう役回りだったんだって、私は思っているよ』

「ふーん、まあ、そういうこともあるのかな?」

『弱音を私がどんと受け止めてあげたこともあったしね』

「え? まさか、あの気絶芸かました時とか?」

『ナイショ。私と湊君の秘密だから』

「ぐ、ぬ」

 不知火湊の強いところは自分も、小春や花音らもたくさん知っているが、よくよく思えば弱いところと言うのはたぶん、ほとんど見ていない、見せないようにしていたと思う。それは自分たちが彼の教え子であったからなのだろう。

 そういう意味ではやはり佐村光は特別だったのだ。

 恋愛とか、そういう話でなかったとしても――

『あ、始まるよ沙紀ちゃん』

「おっと、いかんいかん。湊様の覇道を目撃しなきゃ」

『こらこら、茶化しちゃ駄目だよ~』

 画面の向こう側、其処には自分たちのよく知る、すでに遠くの彼方へ飛び立った大きな星がいた。きっと、みんなもこの試合を見つめている。

 彼女たちが知らない人も、色々とあったおかげで注目度も高くなった一戦を目撃しようと茶の間に待機しているかもしれない。

 卓球を知らぬ人も、きっと。

 ならば、

「最初、あいつ絶対魅せプかますでしょ」

『注目度高いからねえ。と言うか、相手もそのタイプだもんね』

「魅せプ合戦なるか!?」

 きっと彼らは魅せてくれるはず。初めて目撃した時の衝撃、そして一年目の総体県予選で見せてくれた輝き。忘れもしない。

 そういう意味ではこの組み合わせも思い出深い。

 きっと楽しくなる。あの時と同じように――


     ○


「どっちだと思う?」

「そりゃあ不知火湊有利だと思うけど、やってくれそうな感じあるよな」

「楽しみだ」

 全日本選手権大会男子シングルス決勝。色々あってとんでもなく注目度が跳ね上がった一戦となった。世の卓球男子の怨念を一身に浴びながら、それでも悔しいことにプレーを見ると魅せられてしまう。

 そんな複雑な境遇の帰ってきた天才、不知火湊に対するは、

「大勢が見ていますよ。かましてきなさい、豹馬」

「了解っす、オバア」

 青森田中三年、黒崎豹馬。

 全日本の決勝は両者初である。どちらも当然全国の難敵を破りここまで来た。だが、そういう意味では今調子づいている山口徹宵を、そしてあの総体決勝での勝負以降、色々と変化があり少し調子を落としている天津風貴翔を破り、豹馬は決勝まで勝ち上がった。彼が貴翔に勝利するのは初めてのこと。

 勢いがある。

 卓球の技術も板につき、生来のフィジカルにも磨きがかかる。

 彼もまた卓球の明日を担う者。

 それに――

「きゃあああああああ!」

「豹馬様抱いてー!」

「私のここ、今空いてまーす」

 顔が良い。スタイルが良い。彼がまとうと比較的ダサく見られがちな卓球ウェアもお洒落なファッションに見えるのだから、世の中ってルックスだな、と思ってしまう。とにかく女性人気が圧倒的、決勝の注目の半分は彼のおかげでもある。

 競技を盛り上げるためにも表に出てナンボ。

 その信条がある彼にとって、此処でつまらない試合をするわけにはいかない。

 まあ、

「美姫ちゃん、要らないなら貰うっすよ」

「……」

「いや、此処迷うとこじゃないっす。絶対やらねえ、って息巻くとこっスよね?」

「あ、そうだった。と、当然だろ」

「……ほ、本当に付き合ってんすか?」

「俺が知りたいよ」

 この相手なら間違いない。

 卓球は。

「貴翔くん、今は弱体化してたっすけど、卓球めっちゃ面白くなってたんで、次に会う時は期待しちゃっていいっすよ」

「そりゃあ楽しみだ」

 あの日の敗戦から天津風貴翔は変わった。今まで前陣から離れようとしなかった男が、少しずつ確認するように下がり始めたのだ。

 その件に関しては珍しく専属コーチの佐伯崇が口を開いており、

『自分の体が何処まで下がれるのか、それを確認しているところです。卓球の幅を広くしたいと、本人から希望がありましたので。ええ、私が許可しました』

 恵まれない肉体。後ろまで下がり切ることは、其処で打ち合うことは難しくとも戦える間合いは後ろにもあるはず。それを二人三脚で模索しながら、卓球を再構築している最中であった。湊としてもあの父がまともにインタビューに答えていること、さらに後ろへ下がることを許可していることなど、驚きは大きかった。

 人は変わる。

 時が経ち、卓球の形が変われば、必然的にそうなるのかもしれない。

「自分、どうしても卓球を盛り上げたいんすよ。一回見てくれ、すっげー面白いから、面白くするから、って。初めて触れた時の感動を、今度は自分が伝えたいんす」

「わかるよ。うん、今ならわかる」

 二人は固く握手をする。

「だから、つまんねーのは勘弁で」

「はいはい」

 卓球に出会えた幸運。卓球が結んでくれた幸運。それにお返しをするなら、やはりそれは魅せるしかないのだろう。

 最前線に立つ自分たちが――

『なるほど。逃げるな小僧』

 脅しから始まった再生の物語。あの日々を思い出して湊は苦笑する。

 きっと、自分を救い出してくれた人たちも見てくれている。

 ならば、

「見てろ、みんな」

 もう一人じゃない。皆の視線を感じて、彼らに見せるために戦う。此処まで登ってきても、その部分は変わらなかった。いや、変えちゃいけないのだ。

 自分だけのためには戦えない。

 それはかつての自分が証明してくれた。

 だけど、誰かが見てくれているのなら、誰かが望んでくれるのなら、弱い自分も勝負の世界で戦うことが出来る。

 さあ、魅せよう。

 今、自分の持てる全てを。

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