番外編:かつて輝きの中にいた者
趙欣怡は幼き頃、誰よりも満ち足りた輝きの中にいた。
父は実業家で趣味が卓球、母は代表歴もある卓球選手。兄は母の影響もあり幼少期から注目され、しっかり結果を残し現在も世界レベルの選手が跋扈する一軍で活躍、スーパーリーグでも上位をキープする若手のホープである。
少し年の離れた妹も当然注目された。
幼少から綺麗な、美しい卓球をする子だったから。大人顔負けの綺麗な回転を操り、技術的にも同世代の中では頭一つ抜けていた。
何より容姿が飛び抜けていた。
期待の若手、妖精、国宝、様々な大人が彼女を褒め称えた。彼女も自分が頑張ると周りが喜んでくれるので頑張った。
そんな満たされた日々、楽しかった栄光の時代。
でも、上に行くと楽しいだけじゃ通用しなくなってくる。幼少期は綺麗な卓球をしているだけで褒めてくれた大人も、結果がついてこないと次第に離れていく。
頑張った。頑張るしかなかった。
自分なりに試行錯誤もした。大人にも相談した。兄にもした。
だけど、
「雑魚ォ」
「……っ」
上どころか下からも追い抜かれていく。餓え、渇き、勝利への執念。近年は豊かになった中国も、未だに沿岸部と内陸部では大きな格差がある。卓球しかない、卓球で勝たねば死ぬ、家族を、一族を背負い戦う戦士たち。
自分にはない我武者羅さ。
「ぬるいよ、シンシン」
「あ、ぅ」
殺意にも似た、気迫。
それに気圧され、其処に手を伸ばしても、見様見真似で必死になっても、全然届かない。それどころかどんどん卓球が崩れていく。
あれだけ騒ぎ立てていた大人は消えた。
兄も両親も心配してくれた。趙家は、趙欣怡は未だ豊かで、満ち足りていた。
だから、勝てない。
母の伝手で、日本の名門校への留学を勧められた。本当は行きたくなかったけれど、家族もいないし、友達もいない環境なんて嫌だったけれど、自分を追い込まねば、彼女たちのような必死さは得られない気がした。
だから、日本へ行った。縋った。
言葉が通じない。知らない人ばかりの世界。卓球も違う。道具も違う。技術的な指導の内容も違う。日本では打球はコースを目印に指導するが、中国では打球の落点を目印とする。そういう細かい違いもストレスだった。
何より、自分より強い選手がこんなにもいることが信じられなかった。卓球覇国中国で曲がりなりにも頑張ってきた自分が、知識としては国際試合で渡り合う選手がいると知っていたのに、それでも実際に直面すると辛かった。
覇国の選手だった、その矜持すら泥にまみれた気がしたから。
此処でも頑張った。
何とかレギュラーには食い込めたけど、中国からの留学生に求められる水準ではなかった。少なくとも彼女の思う立ち位置ではなかった。
結果が出ない。追い込んでも追い込んでも、これ以上どうしろと言うのか。
自分なりにたくさん考えた。
もう、卓球をやめたくなった。故郷に帰りたかった。
そんな時に――
○
大学受験、と言っても推薦組であったため三学期は持て余す、いつまでも新チームの練習に参加し続けるのも少々申し訳ない、大学の練習にも誘われたが、せっかくなら、と前々から考えていた計画を実行に移すことにした。
「本当に大丈夫か、シンシン。お兄ちゃん、凄く心配なんだが」
「大丈夫。お兄ちゃんは心配性なんだから」
「でもぉ」
「いってきます」
「ぅぅ……いってらっしゃい。……あとで様子見に行こ」
趙欣怡は今、中国にいた。
卒業式までの間をこちらで過ごし、色々と確認したいと思っていたのだ。今の自分の考え、それを曲げる気はないけれど、それでも彼女たちの本気に触れ、自分を曲げずに、揺らがずにいられるか、それを知りたかった。
あの死に物狂いの殺意を前に、臆せず立ち向かえるか。
「……ふぅー、大丈夫、大丈夫」
スマホのホーム画面を見て、趙欣怡はトラウマめいた揺らぎを抑え込む。この道を歩む時、あそこへ向かう時、ずっと憂鬱だったこと思い出す。
嫌でも浮かぶ。
あの苦しんだ日々が。
「行こう」
苛むそれらを引きずりながら、それでも彼女は進む。
旅行でも、里帰りでもない。
彼女は自分なりの戦いをするため、戻ってきたのだ。
○
「じゃあ、あそこの台に入って」
「はい! よろしくお願いします!」
「ああ」
中国にとって卓球という競技は国威発揚のために、総力を結集して国技とした背景がある。存外、発祥の地でもない中国にとって、卓球という競技は根付いて日が浅い。浅いのに此処まで深く根付いているのが、当時の中国がどれだけ本気で取り組んだかの証左であり、現在の卓球人口は8300万人、育成世代が3万、プロ選手に限っても2千人ほどいる。日本は競技人口で120万ほど、厚みが違う。
「あれ、趙欣怡?」
「じゃない? なんでここにいるのか知らないけど」
競技人口の厚みは、選手層の厚みにも直結する。
中国は全土に国家体育総局主導の元、スポーツ学校、卓球学校があり、其処に通う者たちは日々、一軍を目指し鎬を削る。
舞台に立てねば意味がない。
そのステージを踏み台に、中国が誇るスーパーリーグの選手となる。超級、甲A、B、C、D、乙A、B、其処に至り、晴れて彼女たちはプロとなる。
プロにも当然貴賤がある。より上のカテゴリーを目指し、とにかく勝って、勝って、結果を残して、自分の価値を示す。
「どうせコネでしょ。お嬢様だし」
「此処が何処だか、本当にわかってんの?」
そうして省代表、国家代表、五輪の選手になっていく。
途方もない階段、登り、辿り着ける者はごくわずか。どの国よりも圧倒的に厳しい戦い、競争、その果てに彼女たちはいる。
中国女子、二十名のナショナルチーム。
それに加え、有望と見込まれた選手たちも参加するが、要はこの場は覇国の中でも超級の選手しかいない、全員が卓球で飯を食うプロたち、と言うこと。
そんな場所に中国から去って、日本に逃げた落ち武者が現れたのだから、それはもう強烈な白い目が向けられる。
「……シンシン、大丈夫かな?」
心配する旧友もいるが、この場で声をかけることは憚られる。自分が声をかけても、この雰囲気に歯止めは効かないから。
「……誰だっけ、あれ?」
「趙欣怡、昔対戦したこともある」
「覚えてなぁい」
雰囲気を変えたいのなら、
「多球練習を始めるぞ」
「はい!」
自らの力を証明するしかないのだ。
この場に足る力を――彼女にそんな力はない、それは過去の結果が示した。
皆、そう思っていた。
「次、趙欣怡」
「はい!」
注目の瞬間。中国では卓球の練習と言えば多球練習である。とにかく徹底的にやり込み、打ち込み、打球感覚を染み込ませる。極限状態に追い込み、基礎体力も付けられる。ギリギリの、際際の底力も鍛えられる。
それを見れば実力のほどはある程度わかる。
だから、
「……」
丁寧で綺麗な卓球、一目でわかった。技術は此処の水準にある、と。趙欣怡をあまり知らぬ選手は、突然現れた技巧派の選手に驚く。
ただ、
「お綺麗な卓球、ふん、変わらない」
「相変わらず返球しやすそー」
彼女を知る選手はその姿を鼻で笑う。技術があるのは知っている。それで弱かったから、彼女は落ちていき、中国から逃げ出す羽目になったのだ。
変化無き卓球。上手くて、弱い卓球。
卓球は技術の巧拙を競う競技ではない。如何に点を獲り、ゲームを獲り、勝ちに行くかの競技である。実際に日本にも山ほどいる。
上手いのに弱い選手が、下手なのに強い選手が。
彼女は変わらず、そういう選手。
そう見えた。
だけど、
「……あれ?」
彼女をよく知る旧友は、高速で行われる多球練習の中で、必死に球を追いかける彼女を見て、僅かな変化に気づく。
それは、
「……誰、って言ったっけ? あれ」
その場で最強の者もまた反応した。
その機微に気づいた者はそう多くなかった。総じて上手い選手だな、彼女を知る者からは変わらない、そういう評価。
「次」
「はぁ、はぁ、ありがとう、ござい、ました」
さすがに速い。何せ、この場の指導者のほぼ全員が元プロであり、上位の選手の専任コーチともなれば元有名選手ばかり。
統括監督ともなれば、レジェンド級の元選手である。
「趙欣怡、いくつか確認したいのだが、今大丈夫か?」
その監督が彼女に声をかける。
「大丈夫、です。息、整いました」
「そうか――」
全員がプロ、つまり全員に専任コーチがついている関係で、監督が自ら指導したり話したりする機会はそう多くない。
だから、その光景は彼女たちにとって面白くないものであった。
いくつかの質問事項に答え、趙欣怡が給水しに向かった後、
「周雪(シュウ・シュェ)、趙欣怡と5ゲームマッチだ」
監督からその言葉が出てさらに騒然となる。
「……練習に集中したいのですが?」
周雪と言う選手は露骨に苛立つ。彼女は趙欣怡を知っている。実際に対戦したこともある。踏み潰し、圧倒し、自分は上へ、彼女は下へ。
鼻持ちならぬお嬢様が今更、自分のステージに何の用だ、と。
「なら、此処から出ていくか? 貴様は有望枠で、ナショナルチームの正式メンバーではない。有資格者かどうか、今此処で示せ」
「……っ。わかり、ました」
此処では末席、もちろんこの場に呼ばれる時点で凄いことであるし、プロとしても若くして今期は甲Aで活躍、次期は超級への個人昇格もあるのではと目される、ガチのプロ、その上澄みである。それが末席、此処はそう言う場所。
逃げて、消えた半端者の来る場所じゃない。
「よろしくお願いします!」
「帰国させてあげる」
「……っ」
「中国語、通じてる? 日本人」
「……安心してください。通じていますよ。それに、私の国籍は中国です」
「へえ、どうでもいいけど」
突然組まれた一戦。
逃げて、中国から去り、また戻ってきた趙欣怡の戦いが始まる。
相手はあらゆる意味で格上。
ゆえに、
「……よしっ」
彼女は強張る貌をほぐし、にっこりと微笑む。虚勢でも、笑うと決めた。
覚悟の笑みである。
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