番外編:何度でも立ち上がる、其の名と共に

 誰がどう見ても限界だった。そして、ことがことであるから誰も気軽に言葉をかけることも出来ず、孤立は深まるばかり。

 結局、この場は卓球のみの、競技のみの繋がりである。

 慈善事業ではない。彼女が此処にいるのも、被災して可哀そうだからではなく、卓球選手としての実力を、才能を買われたから。

 だけど、

「九十九、少し出かけるぞ」

「……はい」

 人間だから、其処までドライになり切れないこともある。

 監督の車、その助手席に座りすずはいつも通りの日常を送る、こちらの人々の姿を見つめていた。あっちはまだ断水しているところもある、家を失い避難所や旅館などで過ごしている人、こちらの親戚を頼り避難している者、色々いる。

 まだ何も終わっていない。

 でも、こっちにいると忘れそうになる。

 だから、辛い。

「ま、たまに隆起した道路とかでびっくりする程度だわな、こっちは」

「……そう、ですか」

「すでに風化して、終わったことって感じ。同じ県なのに薄情だと思うだろう?」

「……それは、でも、仕方ない、と思います」

 嘘である。仕方ないなんて思っていない。でも、そう言わないといけないから、もっと気にかけて、もっと自分事になって、その言葉に意味はないから――

「そう、仕方ない。人間は忘れる生き物だし、他所のことは所詮他人事なんだ。世界じゃ今この瞬間にも戦争で人が死んでいる。不幸自慢をしたって仕方がない」

「……」

 煩い。そんなこと監督に言われなくてもわかっている。

 だから仕方ないって言っている。

 そう言い聞かせている。それ以上、何を言えばいい。

 そんなことを考えていると――

「したって仕方がないってのはわかっているんだけどなぁ」

「……え?」

 車窓から見える景色が突如、変わる。

 何が起きているのか、すずにはわからない。だって『こっち』はもう日常で、みんな普通に生活していて、だから心が痛かった。

 なのに、

「でも、モヤっとするよ。大人の俺でも、そうなる」

 今目の前に広がる景色は、あの日見た珠洲市と決して遜色なくて――

「こっち(内灘)は砂地で地盤が弱くてな、液状化で引っ繰り返っちまった。そりゃあ土地柄、地震に強い土地とは思ってなかったけど、石川県自体地震なんてほとんどないから、あんまり深く考えてこなかった。そしたら、これだ」

 古めの建物がぐちゃりと潰れ、道路や駐車場が隆起し、無理やり傷だけ塞いだような歪な光景が広がる。どう見ても駐車場含め再起不能な飲食店は未だ手付かず、

「そこのスーパーも凄かったんだぜ。駐車場バキバキで……でもこっちの住人に問っちゃライフラインみたいなもんだから、早めに復活してくれて助かっている」

「……」

 さらに進むと、もっとひどい有様となる。

 まるで世界が歪んでいるような、そんな光景が続く。

 もしかしたら局所的に、あっちよりも酷いかもしれない。

 それほどの――

「ここがうちだ」

「監督、の、家」

「家だった、だな。はっはっは、ぺちゃんこだろ?」

「……っ」

 あっけらかんと笑うが、年季の入った家はきっと長く住んでいたのだろう。それこそ彼が子どもの頃から、両親の記憶が、全部が染み込んだ場所。

 そう見えた。

 それがぐちゃぐちゃに潰れていた。

「そろそろ更地にしなきゃなんだが、なかなか忙しくて手が回らん。ちょっと被災したんでタンマ、はリーグじゃ通用せんし、俺も雇われだからなぁ」

「す、すいません。私、全然知らなくて」

「そりゃあ言ってないしな。知ってるのは誰だ? 昔からの付き合いのベテランとかコーチ陣ぐらいだろ。若いのは知らんよ」

 祖父の家はともかく、すずの実家は健在である。

 でも、監督は――

「あっ、一応言っておくけどもう両親はいないし、俺は独身だからそんなに悲惨じゃないぞ。留守にしがちだったしな。まあでも、ちと寂しさはある」

 全然そんな風には見えなかった。

 少なくともすずの目には、いつも通り選手に指示を出す監督であった。

「ニュースじゃ能登能登能登、そりゃあこっちは少し行けば水も電気も繋がっているし、どうとでもなるっちゃなるけど、それでもモヤっとするとこはある。いやいや、こっちもすげえことになってんだぞ! って言って回りたい気持ち、あるよ。ある。無いとは口が裂けても言えん。でも言わない。意味ないしな」

「……仕方ない、ですね」

「そう、仕方ない。さっきも言ったけど、人間は忘れる生き物だし、何でもかんでも自分事にしてちゃ、そっちの方が大変だろう? それでいいんだ。少なくとも自分はそうしてきた。なら、自分の番になって文句は言えない」

 仕方がない。

 そう言い聞かせていたのは自分だけではない。

「でも、逆にモヤモヤっとするのも仕方がない。人間なんてそんなもんだ。言わないけど、言わないだけで俺もそれなりに想うところはある」

「私も、です」

「それでいい。変なことじゃない。きっと、そういうのは誰にでもある。不幸自慢しても仕方ないけど、したくなるのも仕方がない。それでいいじゃないか」

 人間だもの。

 誰にでもそういうものはある。それだって、仕方がないことなのだ。

 車はさらに進む。そして、悲惨な状況となった通りを少し行き、ほんのちょっと、ほんの少し進んだだけなのに、其処には大きな道路と日常があった。

 びゅんびゅん車が走り、大型商店も普段通り盛況である。

 ほんの少し、ほんの少し住んでいる場所が違うだけで、これ。

「監督は、そういう気持ち、どうしているんですか?」

 すずは純粋に聞きたくなった。

 今見た、不公平を目の当たりにして、それでも日常通り振舞う大人の言葉を。

「俺はパッとしない選手だったし、指導者としてもまだまだだけど、まあ人生は卓球一色だった。だから、そういうのは全部卓球にぶつけるって決めている」

「卓球、に?」

「もちろん、九十九にそうしろって言ってるんじゃないぞ。そりゃあ指導者としては卓球にぶつけて成長してくれたら嬉しいが、それを押し付けるのは違う。俺と九十九は違う人間で、俺はこうだったからお前もこうしろ、は令和じゃ通じんさ」

「でも、競技にそういうのを持ち込むのは、少し不純じゃ、ないですか?」

「なんで?」

 きょとん、と監督はこちらに聞き返してきた。だって、競技者というのは高潔で、前向きな心で突き進んでいる、素晴らしい人たちだと思っていたから。

「す、スポーツ選手って、なんか、そういうのじゃ、ない、気がして」

 我ながら口下手が過ぎる、そうすずは自分を恥じたが、

「あー、なるほどね。はっは、そういう目で選手を見ている人、確かにいるいる」

 監督はそれを汲み取り、笑った。

「これは持論なんだが、アスリートってのは大半が俗っぽいもんだ。異性にモテたい、金を稼ぎたい、いいとこに就職、入学したい、ちやほやされたい、そんなもんだろ。かくいう俺も、常に女性にモテたかったし、ちやほやされたかった」

「……モテたいなら、卓球じゃないんじゃ」

「それは禁句だぞ」

「す、すいません」

 比較的モテない競技、卓球。でも、イケメンの選手もいるんです。

 嘘じゃないよ。

「もちろんプロともなれば興行で、お客さんが高潔な選手を求めることもあるだろうし、その場合演じる必要も出てくる。ただ、アスリートだって人間だ。俗っぽい想いを原動力にするのもいれば、何クソと負の感情を原動力にするのもいる」

 同じ人間、特別な才能はあるかもしれないが、だからと言って心までが特別とは限らない。特別な者もいる、普通な者もいる、ちょっとヤバいのもいる。

 そんなものだと、監督は言う。

「もし、卓球でそのモヤモヤを発散できるなら、そうしていい。正味原動力なんて何でもいい。結果が全てのプロスポーツ、ま、舞台上で少し気を付けてりゃいいさ。心の中身なんて誰にもわからん。好きにすりゃいい」

「……」

「で、九十九すずはどうする?」

「……私は――」

 九十九すずはもう一度車窓から日常を見る。何事もなく過ぎ去る日常、一枚皮をめくったら、其処にはあんな大惨事が広がっているのに、それでも非情に進む。

 モヤっとする。それは仕方がないこと。

 だから――答えは決まっていた。


     ○


 総体、準決勝でまた敗れた。相手はよく知る鶴来美里、ただ知り過ぎたのがよくなかった。練習と勝負では本当に違うのだ。豹変する。

 負けるぐらいなら死んでやる、そんな顔つきで来る。

 根っからの負けず嫌い。一度はその負けず嫌いに押し潰されて卓球をやめたが、もう一度ラケットを握った彼女はそれと向き合う力を得た。

 勝負の鬼、勝利をもぎ取る腕力。

 それに負けた。

「すず、三位決定戦頑張ってね」

「ふひ、頑張る」

 応援に遥々駆けつけてくれた親友、輪島切子の激励を背に最後の一戦に向かう。もう優勝はない。と言うか、優勝など正直どうでもいい。

「……まだ、消えない」

 消えぬモヤモヤ、負の感情と共に出陣する。

「いい試合にしましょう」

 対戦相手は趙欣怡。笑顔が眩しい、本当に楽しそうに卓球をやる選手である。悩みなんて何もないかのようで、それが無性にモヤっとする。

「……はい」

 だから、負けたくないと思った。

 と言うか、この会場にいて普通に、当たり前に卓球をやっている選手全部にもやっとする。それは自分も含まれるのだが、それも仕方がないこと。

 だって人間だから――

「ふ、シュッ!」

「はは、長期戦、私、好きです!」

 試合は長期戦となった。運営が頭を抱える九十九すずの試合、だけどそんなこと知ったことか、とばかりにオールドスタイルのカットマンを貫く。

 執念が迸る。

 スカッと点を獲るのがすずの発散方法ではない。少しでも長くラリーを続け、相手の顔が歪む。我ながら最悪な心根な気もするが、それでもそれが一番発散できているような気がした。自分の卓球とも合致する。

「ひひひ」

 だから、堪える。

 だから、耐える。

 だから、諦めない。

 一球に執着する。一球に執念を滾らせる。

(……きつい、ですね)

 これでも楽しめるか、とすずは逆に挑戦状を叩きつけた。これでも笑えるか、と負の感情が彼女へ問いかける。


     ○


「お義父さん、今暇ですか?」

「嫌味か? 暇に決まってんだろ」

 壊滅状態で復興の見通しも立たない珠洲市から、一応家が残っている九十九家へ祖父、祖母を避難の名目でこちらへ連れてきた。

 こちらも決して万全ではないが、それでも状況はマシな方だから。

「なら、一緒に見ませんか?」

「何を?」

「すず、今卓球の試合しているみたいなんですよ」

「……気乗りしねえなぁ」

「まあまあ、そう言わず。幼馴染の子がスマホで撮影してくれるらしく、画質はあれですけど孫の運動会と思って」

「……ま、暇だし見るか」

 船を失い、すっかり老け込んだ祖父の重い腰を動かし、いそいそと奥から戻ってきた祖母、すずの母らと共に現在進行形で行われている試合を見る。

 それは、

「……むぅ」

 祖父の想像を超える世界であった。卓球と言えば温泉のイメージ、そういう人が競技の卓球を見るとその速度感にまず驚く。俊敏に、眼にも止まらぬ速さで繰り広げられる攻防は一瞬で常識を打ち壊した。

 動きの速さ、力強さ、想像を何倍も超えていく。

 それは祖父だけではなく、両親や祖母も同じ。

 正直、すずはあまり卓球に執着がないことを、家族の皆は気づいていたのだ。やる気があるのは幼馴染の輪島さんの娘で、それに引っ張られているだけなのだと。

 ゆえに今まで応援に行ったこともない。

 仕事で忙しかったこともあるが――

「これ、何処でやってんだ?」

「さ、さあ。いや、それにしても、凄いな、これ。本当にすずなのか?」

「すずって陸上でこんなに早く動けたのねえ」

「ねえ」

 家族全員が唖然とする。

 そうこうしている内に、

「お邪魔しまーす」

「あ、輪島さん」

 おうちが全壊し、避難所生活の輪島家ご一行が我が家の如くやってきた。

 まあ、田舎ってこういうものである。

「うちの切子は仕事してます?」

「え、ええ」

「いやあ、すずちゃん凄いですよ。これ三位決定戦ですからね」

 輪島家は九十九家より結構卓球熱が高めなのか訳知り顔である。

「三位ってスゲーんじゃねえのか?」

 祖父、疑問を口にする。

 この時、九十九家の頭にはこれが全国大会であることなど微塵も浮かんでいなかった。今、能登で大会がやっているわけがないし、県大会ぐらいかな、と。

 卓球に関する報連相の薄さが見受けられる。

「そりゃあ凄いですよ! 全国大会の三位決定戦ですからね。勝てば全国三位、負けても全国四位、立派なもんです!」

「……全国⁉」

 九十九家、当然驚く。だって頭の片隅にもなかったから。

「え? 逆に知らなかったんですか? プロチームの練習にも参加しているのに」

「お、お恥ずかしい。すずも、何も言わないもんで」

「……そ、そんなことあるんですねえ」

 逆に驚く輪島家。

「すずが、全国三位」

「勝てば、ですけど」

 ことの大きさを知り、家族は食い入るように遠い県外で、ただ一人戦う家族を見る。必死に戦う姿に、負の感情など見えない。

 ただただ、

「……あのチビが、いっぱしのツラするようになったじゃねえか」

 日常で見せぬ戦士の貌に、驚き、胸が熱くなる。

「頑張れ、すず」

 応援せずにはいられない。


     ○


 回転を支配する。それは卓球の試合を支配することと同義。趙欣怡の卓球は、その柔和な笑顔に反し、支配的かつ絶対的である。

 回転数を調整するだけで曲がり幅を弄ったり、ドライブ回転なら沈み込みも如何様にでも弄ることが出来る。同じフォームで、同じ打感で、まるで違う球が飛んでくる。極めて難解、必然対応も後手後手となる。

 多くの選手がその回転に呑まれてきた。

 九十九すずもまた呑まれる。

 でも、

「ひ、ひひッ!」

「……さすがに、しぶとい、です」

 呑まれてなお足掻く。後手上等、元よりそれを覚悟の上での戦型である。相性はよくない。そも、旧式なのだから相性がいい戦型の方が少ない。

 それもすべて覚悟の上。

 あとは執念と、

「あれ、届くのか!」

「こんだけ長丁場で、運動量が全然落ちない」

 無尽蔵の体力でカバーする。女子の中では恵まれたフィジカルも、彼女の強みの一つ。此処まで双方、夏場の連戦を経て、勝ち上がってきた。

 体力は削れているはずなのだ。

 それでこんな戦い方をしたら、とっくの昔にガス欠で勝負が決しているはず。序盤は趙が優勢だったのだ。このまま逃げ切れる、そう思っていた。

 それでも怪物は執念深く追いかけてくる。

 疲労を感じさせぬ姿で――

(怪物、ですね)

 怒涛の追い上げ。

 粘って、粘って、粘って、クソ粘りからの、

「あっ」

 ミス。

 趙の貌が歪む。疲労困憊、ミスが出るのは仕方がない。人間なのだ、完璧ではいられない。そう、それが旧式のカットマン、その勝ち筋。

 ミス待ち卓球。

 ただし、ただのミス待ちじゃない。

「ふひっ」

 長丁場での疲労による体力、判断力が低下した上での、海底へ引きずり込むかのような、どちらにとっても地獄の戦い。

 されどその地獄、海底は――

「すっきり、してきたァ」

「……」

 九十九すずの故郷である。


     ○


 粘りに粘った上での、終盤での1点。

 それを獲った時、地元で観戦していたチームメイト、誰よりも監督がガッツポーズを取った。そう、これだ、こういうのだ、と。

「こういう点の積み重ねが、勝負を分けるんだ。それだよそれェ!」

 勝負の世界に生きる者たちが、今まさに戦う『チームメイト』の雄姿に笑みを浮かべていた。それでこそ、こちら側の住人である、と。

 勝負に勝つ、勝ち続けると言うのはこういうこと。

 1点を死に物狂いで拾いに行く。

 それが出来て初めて――勝ち負けなのだ。

「さあ、こっからだ。勝ち切ってこそだぞ、九十九ォ」

「監督うるさーい」

「す、すまん」

 仲間たちが見守る。ようやく戦い始めた姿を。

 どんな理由であっても、戦うのなら彼女は仲間なのだ。共に勝ち負けの世界で生きる、同志なのだ。


     ○


 最後の最後、デュースに持ち込まれた。

 まさに極限、海の底の底、息が出来ない。足が重い。身体が思うように動かない。その上、さらに下で苦しいはずの敵が嬉しそうに笑っているのだ。

 生き生きと、むしろ輝きを増す。

「うへえ、やっぱすずさんヤバい」

「うん、凄い」

 同じ県でしのぎを削ってきた戦友、そして今大会で怪物を知った者たちは様々な表情を浮かべていた。その多くは厄介な存在の登場に歪む。

 これから先、自分たちは彼女と戦う度にこの地獄を強制されるのだ。

 そりゃあ笑顔ではいられない。

 彼女と対戦し、敗れてきた者たちは特に、体験済みゆえに特に大きく歪めていた。

 あれと戦い、笑顔でなどいられない。

 あれは怪物なのだから。

 でも、


「……まだ、まだ」


 趙欣怡は其処で笑う。虚勢でも、強がりでも、笑みを浮かべて見せた。

 彼女もまた傑物、母国で競争に敗れ挫折し、異国の地に活路を求めるも何も得ず、苦しみ続けた中でようやくつかんだ『己』。

 もう二度と手放すまい。

 例え死んでも、この笑顔消してなるものか。

 互いに執念が激突する。

「どっちも、一歩も引かない」

「何処まで行くんだ、この試合」

 今大会、最長の死闘。誰もが体験したくもない地獄、海の底で二人は笑顔で戦い続けた。如何に無尽蔵とは言え、さすがに事ここに至ると万全ではいられない。

 何よりも勝負所、限界を迎えたはずの趙が死力を絞り出し駆け抜ける。

 技量がどうこうではない。

 これはもうメンタルの戦い。

 だが、勝負を分けたのは――

(……息、苦しい。身体、怠い。やっぱり、楽しい)

 メンタルではなかった。どちらも極まった状態で、技量の戦いでもなくなった今、最後の一戦で勝負を分けたのは、海の底での経験値。

 最後の一球、誰がどう見ても限界だろうと言うところで、

「……持ち、上がらなかった?」

「いや、上げられなかった、だ。すげえ回転だったぞ、今のカット」

「今日一の、デスカットを、ここで出すか!」

 最高のパフォーマンスを更新したのだ。

 趙欣怡が、回転を誰よりも巧みに操る選手が、下回転を持ち上げることが出来なかった。ドライブで上書きすることが出来なかった。

 それほどの下回転を、カットを、ここ一番で出した。

「九十九すずが、勝った!」

 それが勝因。

 最長の死闘、最高の熱戦に大歓声が降り注ぐ。

「……勝った?」

 正直、最後の方ではすずに点数を数える余裕すらなかった。無尽蔵が尽き果てるほどの運動量であったし、そりゃあ人間なのだから限界もある。

 それでも、

「お見事、でした。次は、勝ちますから」

「……あっ」

 負けても笑顔、その誇り高き対戦者に握手を求められ、それを握り返した時に勝利を実感した。

「あ、ああ」

 そして、その手を放した後、まだまだ途切れぬ歓声に向けて、

「あああああああああああああああああ!」

 九十九すずは叫んだ。

 理由はわからない。ただ、叫びたくなったから、叫んだ。

 それがまた、盛り上がりに火をつける。アナウンスが静止を呼びかけるも、しばらく消えることはない。それだけの熱戦であった。

 それほどに劇的な決着であった。


     ○


「すずゥゥゥウウウ!」

「あ、きりちゃん。勝った、よ、ぶっ!?」

 満身創痍の幼馴染に、一切の忖度なく突っ込んできた輪島切子のタックルに一瞬意識が飛びかける九十九すず。

 だけど、

「すごかった、本当にすごかった」

「……ひひ」

 感動して泣いている幼馴染を見たら、怒るに怒れない。

「すず、みんなも見てたよ」

「……?」

「勝手に撮影しちゃった。ごめんね」

「う、あう、それは、ちょっと、恥ずかしい、かも」

 スマホで撮影していた、それが何処へ送られていたのかを察し、すずは恥ずかしさのあまり赤面する。あまり見られることに慣れていないのだ。

 特に家族には――

「ほら、すずのスマホ。連絡来てるよ」

「うう……あ、じーちゃんだ」

「出てきなって」

「う、うん」

 久しぶりの会話。何を話したらいいか、あまりまとまっていない状態であった。何しろ疲労困憊、満身創痍であったから。

 だけど、祖父の第一声を聞き、

「……ほん、とうに?」

 すずは目を丸くする。

 そして話し込みながら、

「ふぐ、うぐ、あ、ううううう」

 泣き出し始めた。輪島のきりちゃんも驚く泣きっぷり。あまりすずが泣くところなど、幼馴染の彼女でも見たことがなかったのだ。

 だけど、子どもみたいに泣きじゃくる姿を見て、

「……よかったね、すず」

 それが嬉し涙であることぐらいはわかる。

 だって、幼馴染だから。


     ○


 総体での死闘を終え、地元へ戻ってすぐ練習。

 その休憩中、

「よぉ、今日ぐらいは休みたかったか?」

 にやにやと嫌な笑みを浮かべる監督からの問いに、

「いえ、その、むしろ練習、したかった、です」

 想定とは違うすずの前向きな回答を聞き、

「何かいいことあったか?」

 監督はまた質問を投げかける。本来は休みたかったです、甘いぞ小童、勝って兜の緒を締めろ、だ、とでも言うつもりだったのだ。

 でも、そんな感じでもなさそうである。

「その、じーちゃんがまた、漁に出るって、連絡があって……今はおとんの船で手伝いだけど、いつになるかわからないけど、また自分の船を取り戻すって」

 思い出し泣きしそうになるすずに、

「おっと、泣くなよ。おじさん、泣かれると困るぞ」

 泣かないでくれ、と監督は懇願する。

「あと、友達の家も、もう一度頑張ってみようって、なったみたいで……べ、別に、私の試合が全部の理由じゃないと思うんですけど、でも、そんな感じで、はい」

 ぐすん、と涙をこらえるすず。

 嬉し涙である。

「そうか。なるほどなぁ。そりゃあよかった」

「ぅぅ、はい」

「泣くなよ。昨今、色々と面倒くさいんだ。んま、いい方向に向かっていくならそれでよし、だな。御手柄だ」

「わ、私の、おかげって言うのは、ちょっと、大げさだと思う、ですけど」

「いいや、思わん。スポーツにはそういう力があるのだ!」

「いっ⁉」

 突如、熱血化する監督。今時の子はちょっとこの熱さが苦手である。

「今回は所詮総体、身内が喜んで前向きになった、其処止まりかもしれないが、これが全日本とか、世界卓球とか、五輪とか……そうなってくると今度はもっと大きな力を生む。特に地元は大盛り上がりだ」

「……そんな、もんです?」

「そんなもん! それに九十九すずって名前もいいな」

「……?」

「名前、出る度に思い出すかもしれないだろ? 珠洲市とか、地元の九十九湾とか、能登のこと」

「……あっ」

「九十九すずが活躍する度に、地元が活気づくし、能登のことを思い出してくれる人が出てくるかもしれない。何万人に一人でも、世の流れは変わらないかもしれなくても、それって大きなことだと思うぞ」

 人は忘れる生き物。

 でも、思い出してもらうことも出来る。

「……私、考えたことも、なかった、です」

「まあ、結果としてそうなるでもいいし、そういうのを原動力にしてもいい。期待するやつは勝手に期待するし、盛り上がるやつは勝手に盛り上がるさ」

「……」

「好きなようにやれ、な。あとは結果だぞ、大事なのは」

「ひひ。はい、頑張ります」

「よし。じゃ、練習再開だな」

「はい!」

 九十九すずはこれから先、プロとして長く活躍する。そしてインタビューの度に、不器用ながら能登のPRを突っ込み、それが彼女のキャラとなっていく。

 全てが元通りになるわけではない。

 すでに取り返しのつかぬことも沢山ある。

 それでも、ほんの少しでも、立ち上がるための一助になるのなら――

「九十九ォ! 飛び込む前に、まずは飛び込まずに済むような動きを考えろ! 気合だけじゃこの先やっていけんぞ!」

「あうぅ……はぃ」

 奥能登が生んだ怪物は、地元の看板を背負い戦い続ける。それだけ嬉しかったのだ、閉塞した家族が、友人や周りが前向きになってくれたことが。

 その成功体験が、彼女を怪物から英雄へと変貌させる。

 それはまだ、ずっと先の話であるが――

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