第131話:それが亀の歩みであっても――

「……あの」

「そのままでいい」

「……わかっています。私はそれだけしか出来ないので。でも――」

「……」

 有栖川聖に、元女王に勝ち負けを迫るところまでは辿り着けた。それはまさに作戦勝ち、彼女らの目算が噛み合った結果と言えるだろう。

 新たな卓球、その可能性が開いたとも言える。

 実際に、

(もし私なら、自分の卓球を捨てた聖程度ならぶっ倒せる。全国区の強豪ならそれが出来るやつもそこそこいる。でも、神崎には出来ない)

 かつて惨敗を喫した自分でも勝てるところまで女王を引きずり降ろしたのだ。それはもう、苦肉の策と言うよりも捨て鉢な、明日を捨てる愚行に等しい。

 目先の勝利、それが絶対欲しい試合はある。

 しかしそれは、

(たかが高校に限定されたカテゴリーの、所詮全国までしかない試合でそれをするの? 腐っても元女王でしょ、あんたは。本当に、先がなくなるわよ)

 総体程度の大会であってはならないはずなのだ。何度も言うが卓球は他の競技と違い、高校生なら大人と混じり十二分に渡り合える。それこそ女子なら男子よりも成長期の関係でもっと早くフィジカルが円熟に至るため、極める云々はともかく大人と子どもの境は消え失せる。

 ゆえに高校止まりのカテゴリーはそもそも格落ち。野球なら全ての高みを目指す高校球児が甲子園を目指すのとは対極で、高みを目指す者ほど高校の全国大会に価値を見出せなくなる構造的な話があるのだ。

 自分の卓球を捨てる、それがただ一試合のみで済めばいい。だが、卓球は感覚のスポーツでもある。一度妥協し、歪めた感覚を容易く取り戻せるものではない。だからプロは少しでも誤差を生まぬため、いい感覚を継続するためにルーティンなどを用いて感覚を調整しているのだ。

 それは繊細なスポーツほど、大きな歪みと成る。

 だから――

「……」

 龍星館ベンチは静まり返っていた。有栖川聖の選択を理解していない者は、少なくとも一軍のレギュラークラスには誰もいない。

 趙は誰よりも早く口を開こうとした。

 それはよくない。取り返しがつかなくなる、と。勝ちたい、その一心が先行し自分の卓球を見失い、長い時間をかけてようやく帰ってきた趙だから、その深刻さを誰よりも理解している彼女だから、それを言おうとした。

「……あっ」

 でも、言えなかった。言おうとした時に死闘を繰り広げてきた仲間が、そしてそれよりも遥かに多い外側で応援する部員たちが見えたから。

 このままいけば勝てる。

 自分が崩れても、犠牲になった皆を全国の舞台に連れて行くことは出来る。

 そう、トップ層の個人としては価値の薄い総体などの大会も、其処に至らぬ者にとっては大きな、とても大きな意味を持つ大会なのだ。

 それは私立の、雇われでしかない者たちにとっても同じこと。

 ゆえに、監督やコーチの乾なども言葉を発せなかった。

 そうすべきではない。それはかつて選手であった経験、そして指導者として積み重ねてきたものからもわかる。だけど、同時にその地位が口を重くする。

(高校は育成機関だ。そうあるべきだ。結果至上主義は……人材を殺す。改めるべき、少なくとも私はそう思ってきた。そう言ってきた。なのに――)

 乾は唇を噛む。自分の立場だけならまだいい。でも、学校が地区止まりでは翌年以降の入学希望者、ひいては来年以降の成績にも直結してしまう。

 一度の敗戦が常勝軍団を、沼から抜け出せぬただの強豪校へ落とした事例など何度も見てきた。龍星館がそう成らぬとは限らない。

 だから、何も言えない。

 誰もが口を閉ざしていた。選手としてそうすべきではないと思う一方、常勝軍団龍星館の一員として、勝ちに執着する理由も理解できたから。

 だから――

「聖。下らん真似をするな」

 この男が来た。

「……なんや徹君」

 全てを理解しながらも、それでも空気を読まずに口を開く、この男にはその強さがある。揺らがず、幼馴染にとって一番いい道を――

「逃げるな、と言っている」

 らしくない幼馴染を叱咤するために来た。

「……勝つためや。龍星館にとって、それが重要なんは自分もよぉわかっとるやろうが! 負けたら終わりやぞ。ここまで全部積み重ねてきたもん、全部が!」

 らしくない聖は叫ぶ。

 自分の正しい行いを、否定するな、と。

「なら、俺たちが全国制覇をする。女子の分、たまには俺たちが箔を付けよう」

「……自分ら、一度でも全国優勝したことあったか⁉」

「だから、盛り上がるだろう? 女子の結果なんて消える。男女どちらかが強ければ、学校の勢いが盛り下がることはない。だから……学校をダシに逃げるな。逃げる口実に戦ってきた者たちを使うな。不愉快だ!」

 山口徹宵は幼馴染の胸ぐらをつかむ。

「……っ」

「俺がわかっていなかったと思うか? お前の情熱が冷めたことを。誰よりも早く練習に来て、誰よりも遅く帰っていた。休みの日もずっと対戦する可能性のある相手全て、勝ち負けになる相手全てを調べ尽くしていたお前が……あの時を境に少しずつ、その習慣が薄れ、最近じゃそう言う姿が見えなくなったことを」

「……ちゃう、忙しかった、だけや」

「一番忙しい時期にも、お前はずっとこなしていた。その姿を尊敬していた。俺だけじゃない。男子も含めた全員が、その姿を見てきた」

「……」

「戦え、聖。逃げるな。お前はずっと、戦ってきたはずだ」

「……それで負けたんや! わかるやろ⁉ 自分も天才に、ボロ雑巾みたいに負けたやろうが! 勝ち目あるか? 秒速でブランク埋めて、一瞬で進化して遥か彼方へ行った化け物やぞ。努力する兎どもに、亀はどないせえっちゅーねん!」

 聖の悲痛な叫び。誰よりも努力を積んできた。自分を凡人と理解するからこそ、日本一の、いや、世界一の、努力だけは誰にも負けないと積み上げてきた。

 それが何一つ通用しなかった。

 その絶望が、彼女を蝕んでいた。

「また積めばいい」

「はは、さすが鉄の男や。自分はそれでええ。でも、ボクはちゃう。人間や! もう、耐えられん。もう、無理なんやって」

「俺とお前は何か違うのか?」

「ハァ? 全然ちゃうやろうが!」

「卓球しかないだろ? 俺たちには。それ以外に何かやりたいことがあるのか? すまん。幼馴染だが、その、卓球のこと以外、よく知らん」

 珍しく小難しい顔で悩む徹宵。本気で彼はそう言っているのだろう。自分と聖の間にはそれしかなく、自分もまたそうであるから――

 本当に、この幼馴染はいつも痛いところを突く。

(卓球辞めて、受験勉強頑張って、花のキャンパスライフ。てけとうなサークル入って、最低限単位だけ取って、就活して、これまたてけとうな会社入って、なんやてけとうに結婚して、ほんで……嗚呼、ほんまやなァ)

 ずっと目をそらし続けてきた。

 別の道、捨てた後の道が何一つ明瞭に見えない自分を。

 無いのだ、やりたいことなど。

「聖?」

「……負けたない」

 聖がぽつりとこぼした言葉に、徹宵は小さく微笑む。

「……ああ、俺も同じだ」

「ボクには、これしかないのに……勝てない」

「俺もそうだ。今の湊に勝ち筋すら見つけられん。きつくないと言えば、嘘になる。あいつの復活は嬉しいが、此処まで差が開くとな……」

 鉄仮面の下に、確かにあった弱さ。ないわけがない、辛くないわけがない。だから歯を食いしばって、お互い努力を積み続けてきたのだ。

 ずっと、子どもの頃から――

「……それでも徹君は逃げんのやろ?」

「まあ、卓球しかないからな。やるしかない。足掻くしかない」

「……花のキャンパスライフ、興味ないんか?」

「ないな。自分がそれを満喫している姿が想像できない」

「……はは」

 ボクもや、心の中で聖はこぼす。

「ほんま、世の中クソやなァ」

「ああ」

「ボクより先に逃げたら、ほんま刺すからな」

「肝に銘じよう」

「あーあ……ほんま、友達選びミスったわぁ」

「俺もそう思う」

 笑いながら有栖川聖は立ち上がる。せっかく地獄から脱出できる、あと一歩のところで、あの不愛想で不器用な幼馴染に引き上げられてしまった。

 わかっていたのだ。

 卓球だけに全部ぶっこんできた自分にとって、それ以外の道などろくなものがないことなんて。まあ、もしかしたらそれはそれでいい道だったのかもしれないが。

 でも、

「負けたら徹君のせいやぞ」

「骨は拾ってやる」

「言うたな。ほな――」

 やっぱり自分は想像もできない天国よりも、想像がつく地獄でいい。

 少なくとも、


「征こかァ!」


 一緒に地獄を歩んでくれる、転勤族で変人の自分にとって唯一の幼馴染がいるのだから。一人の天国よりも、二人の地獄を選ぶ。

 それならもう――迷わない。

 有栖川聖はぐしゃぐしゃな貌で嗤う。


     〇


 窮地に立った沙紀は一気に追い詰められていた。卓球がデータ通りに噛み合わなくなったから。そうなるともう、ただの強豪選手とそこそこの選手の戦いにしかならない。勝てない、そう思いながらも沙紀は、

(私には、これしかないッ!)

 歯を食いしばりながら揺らがずに戦っていた。たとえ最後の一球まで気を抜いてたまるものか、と。絶対に諦めない、と。

 すると徐々に、

(……あれ?)

 卓球がまたしても噛み合い始める。

 むしろ、迷わせてやろうとしていた中盤戦よりもずっとクリアな『有栖川聖』が其処にいた。真っすぐとした目で、少しずつ、大事に、大事に――

 彼女は心の中で苦笑する。

(ちょっと乱しただけで、調律すんのに随分と手間がかかったわ。悪かったなァ、神崎ちゃん。ほんなら、バチコリ行くでェ!)

 ゲームの半分を崩れた自分の調整に使った。その結果、リードしているのは皮肉な話だが、噛み合い始めて結構点を与えたので許してほしい。

 なので此処からは、

(見さらせ! 痩せても枯れても……ボクは有栖川聖や!)

 正真正銘、純度百パーセントの自分で行く。

 そう決めた。

 だから――


「っしゃあッ!」


 神崎沙紀の読みは当たっていた。フィニッシュに合わせた全力のフルスイング、聖も先ほどまでは拾えない、と諦めていた。

 でも、諦めるのは自分の卓球じゃない。

 だから食い下がる。積み上げてきた自分に委ね振り抜く。それに相手は決して巧者ではない。積んできた努力は認める。対自分に特化した努力が此処まで肉薄した執念は敬意に値する。されど、それでも彼女は本来力不足。

 フルスイングをすべてベストショットになど出来るはずがない。

 少しのミスが結果を大きく左右するのが卓球と言う繊細なスポーツならば、

「ドヤァ」

「うわ、聖先輩ウザ」

「集中してください!」

「なはは」

 そのミスを全力で叩く。ベストならさすがに咎められない。だが、僅かなミス、ベストでない球なら、今のようにそいつを咎め、ぶっ叩くことも出来る。

「待たせたなぁ、神崎ちゃん」

「え?」

「こっからや。バチバチやろうで、卓球を!」

「……はい!」

 弛緩しかけた空気が再びひりつく。先ほどよりもずっと、キリキリと、有栖川聖の眼に往年の集中力が戻ってきた。

 魔法は通じない。其処に変わりはない。

 冷徹な数字のみを追うロボット相手に『魔女』は本領を発揮できない。

 だから、

「見ているぞ、聖」

 卓球選手、有栖川聖で戦う。積み重ねてきた卓球で戦う。

 見さらせ、とばかりに――

 ここから一気に試合は、いや、戦いは最終局面に突入する。

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