第120話:シンシン

「やら、れた」

 龍星館陣営は悔やんでも悔やみ切れぬ一敗。何よりも彼らは、指導者たちは知っていたはずなのだ。石山百合と言う百戦錬磨の勝負師を。

 絶対に獲りたい1点、それをもぎ取るための執念を、札の切り方を。

 切り札はこう切るのだ、と言わんばかりの決着。

 誰もが才能で来ると思っていた。それを貫き通して来ると――

(あの人が、そんなに甘いわけがなかった。敗因は、我々だ)

 対照的に、

「よくやった! 今日からあんたはウルフ小春だ!」

「かわいくなーい」

 明菱ベンチは大賑わい。勝ったと言わんばかりの盛り上がりを見せる。実際、S1のエース対決での勝利は団体戦において大きな一勝となる。

 この賑わいも当然であろう。

「小春がナンバーワン!」

「ははは、ほんと、胸張って言いなさい。小春が一等賞よ」

「ひひ、ありがとー沙紀ちゃん部長」

「はいはい」

 そして会場はジャイアントキリングに盛り上がる者たちとあまりの衝撃に絶句する者たち、下馬評を覆した壮絶な決着が良くも悪くも波紋を広げる。

 そんな中を、

「……」

 歩いて星宮那由多はベンチへ戻る。かける言葉が見つからない。彼女が敗れることはあった。鶴来美里、姫路美姫、勝ち負けどちらも重ねてきたのだ。

 でも、今回の敗北は毛色が違う。

「申し訳ありません。卓球で負けました。完敗です」

 それでも星宮那由多はこれが言えるのだ。腹の底で渦巻く敗北の怒り、悔しさ、吐くほどに、死にたくなるほどに、そういう感情を律し、これが言える。

「言うことはありません。お疲れ様でした」

「……はい」

 だから負けてなお、揺らがない。

 彼女の真っすぐな謝罪が揺らぎかけたチームを正常に戻した。

 まあ、そうでなくとも――

「大丈夫、です、那由多」

「シンシン」

「すごく、いい試合、でした。私も、頑張り、ます」

「うん。頑張って」

「では皆さん、いってきます」

 第二試合、控えるは趙欣怡。あの龍星館がS1を落とす。嫌でも昨年の青森田中との悪夢がよみがえる中、わかっているのかわかっていないのか、彼女は鼻歌交じりに戦場へ向かう。昨年までのシリアスさは何処へやら――

「円城寺」

「はい?」

「去年までのイメージはここで捨てていきなさい」

「え、ええ。なんか、春頃から調子いいみたいですし」

「調子の上下じゃなく、別物と考えろって言ってんの」

「……」

 石山百合は顔を歪めていた。明るく、柔らかく、龍星館の留学生の噂は聞いていた。明菱のコーチに就任してから試合も見た。

 正直、昨年までは一番イージーな相手であったと思う。

 技術はともかく、精神面の脆さ、弱さ、それが目立っていた。試合の動きも堅く、面白みのないあちらの選手。それが彼女への印象である。

 しかし、

「花音ちゃん。あれ、誰?」

「……別物、だわな」

 今、台を挟み笑顔で立つ趙欣怡は昨年までの印象を消し飛ばすほどの印象があった。それは会場の目が物語る。

 彼女がその場に立っただけで、騒然としていた会場の目が全て彼女へ吸い込まれたのだ。敗戦の悲壮感は消し飛ぶ。全て、彼女の空気が支配した。

「楽しく、自分の卓球を」

 ラケットを胸に、祈る姿は――

「な、なあ、菊池よ。なんだあの超絶美女は。異次元過ぎだろ」

「去年もいたんだよ。でも、あの時は、普通の選手だったんだ。美人だしシャッターは切ったけど、吸い込まれる感じは、なかった」

「素人目にもわかるな。少し、可哀そうなほどに」

 この世の何よりも美しく見えた。

 それが恐ろしい。

「お、王子ぃ」

 円城寺秋良ファンクラブ、王子応援し隊の皆さまですら言葉を失っていた。

「参ったね。別人じゃないか」

 円城寺も当然感じ取る。昨年、自分は彼女に勝利したこともある。と言うか、小春覚醒後も含め、実は勝ち星だけなら円城寺が一番多いのだ。

 対戦相手に恵まれていることもあるが、その安定感はさすが経験者。

 ダブルス限定とはいえ全国区であった選手である。

 ただ、だからこそわかってしまう。

 幼き頃から散々、姉と一緒に全国の上澄み連中を体験してきたから――

「……どんな魔法使ったのよ、龍星館」

 この一年、その伸びには自信があった。他のどのチームよりも伸びた、その自負がある。だが、今目の前に立つ存在を見るとその考えが揺らぐ。

 自分たちだけが強くなる、そんなことはありえない。

 ありえないが、経験者が急に化けることもそうそうあるわけが――

「彼女に関しては――」

「ええ。自信を持って言えます。元々実力のある子ですが――」

「我々は……何もしていないですね。普通に指導していただけで」

「はい。なんか勝手に、化けました」

 龍星館サイドも実は完全に嬉しい誤算。

 なんでだろう、どちらの陣営も首をひねっていた。


     〇


「へっきし。まったく、僕が夏風邪をひくわけがないだろ」

 小春の勝利の連絡に少し浮かれた後、次の試合に思いを馳せる不知火湊。どちらも技術のある選手、拮抗した面白い卓球になるだろうなぁ、と笑顔を見せる。

 会場の空気を彼は知らない。

 浮かれていた明菱ベンチが一瞬で静まり返ったことも彼は知らない。

 それが――

(もう少しで着くぞ。円城寺とシンシンの試合、後半は間に合いそうだ)

 自分のせいだと言うことも――全然知らない。


     〇


「好!」

 美しく、それでいて鋭いシュートドライブ。粘着ゆえの回転量の豊富さが異次元の軌道を生む。シュートドライブも、カーブドライブも、どちらも使い分け、さらには回転量すらフォーム同じで自由自在。

 さあ、次はどう遊ぼうか。

 卓球を楽しむ趙欣怡を前に円城寺秋良は顔を歪めていた。

「……」

 元々卓球大国中国に生まれ、幼少から圧倒的な層の厚さと人材にもまれてきた。現在は希少種となったカットマン相手もお手の物。

 左右に揺さぶり、前後にも揺さぶる。

 相手の足を削り、ミスを誘発する対カットマンの基本戦術をきっちり押さえた上で、さらに超回転によって左右の幅が馬鹿みたいに広がってしまう。

 曲がる球を落点浅く打ち込む。

 運動量が尋常ではなく跳ね上がる。

 これには――

「……笑えない」

 普段、いい人なのだが不気味な笑み(本人は友好的なつもり)を浮かべている九十九すずも笑顔を失う。彼女にとっても他人事ではないから。

 如何に持久力に優れていても、あんな馬鹿げた範囲で左右に揺さぶられては厳しい。相手を押さえつけるためのカットによる下回転も、粘着ラバーと鋭いドライブが全部上書きしてしまう。

 しかも、

「ぐっ、伸びて――」

 横主体にするか、縦主体にするか、それ次第でコースが大きく変わる。余裕で届くと思った球が遠ざかることもあれば、伸びたことでもっと回り込む必要が生まれることもある。それもまた変幻自在、それが恐ろしい。

 回転を支配する、それは卓球の根源を征するに等しい。

 全身を使い、弾むようにこすり上げて全てを彼女色に染める。回転を操らねばならぬカットマンが、回転に操られてしまう。

(勝ちたい、チームのために。それは嘘じゃない。みんなのことは大好き、役に立ちたい。頑張りたい。……でも、それは卓球に持ち込まない)

 一球一球を大切に。

 彼女はサーブ前、常に祈りの所作を入れるようになった。それはルーティンによるメンタルコントロールも兼ねている。

 かつての自分は勝ちたい、勝たねば、で潰れたから――

 ようやく辿り着いた、自分の卓球。

(子どもの頃の気持ちを忘れない。あの人が、思い出させてくれた原点を。もう二度と、手放さない)

 それを貫く姿を見て、

「……」

 星宮那由多は笑みを浮かべていた。龍星館の皆は知っている。彼女がどれだけ苦悩し、どれだけ彷徨い、そして辿り着いたのかを。

 一度、全部捨てた。

 それはどれほどに勇気のいることであっただろうか。

 でも、

『楽シム、ト、決メマシタ』

 楽しむために、自分の卓球を探すために、彼女はその道を突き進んだのだ。一時はレギュラー落ちもあった。一軍から二軍へ落ちたこともあった。

 それでも彼女は遠回りをして、帰ってきた。

 粘着を捨て、ハイテンションラバー、表ソフト、粒高や果てはアンチまで試した。ラケットもシェーク、中ペン、日ペン、さらにハンドソウまで試そうとしたが、それはコーチに止められ不貞腐れていたこともあった。

 勝ちから、競争から離れた。

 それに、

『シンシン、ト、呼ンデクダサイ』

 部での在り方も変わった。一年から留学してきて一年間、ずっと誰とも打ち解けていなかったのに、『何か』がきっかけで自分からその壁を打ち壊し、皆と率先して関わるようになった。コーチの言うこともまともに聞いていなかったのだが、それも積極的に取り入れて試していた。変わったのだ、彼女は。

 大国の、覇国の誇りを持ち、日本に落ち延びてきたと、周りを、そして自分を蔑んでいた趙欣怡はもういない。

『日本語、上手になった』

『ありがとう、那由多。とても嬉しいです』

『誰に習っているの?』

『内緒、です』

『ふーん』

 日本に馴染み、周りと交わり、今ではチームで一番交友の輪が広い。強豪校ゆえの殺伐さ、彼女はそれを感じさせないから。

 そうならないように、努めていたから。

 彼女は変わった。

 そして――


「好ッ!」


 趙欣怡は自分の卓球を見つけた。昨年までと同じ、自分がずっとやってきた卓球に、ぐるりと一周回って戻ってきたのだ。

 でも、それはもう別物。

「綺麗」

 息を呑むほどに美しく、繊細で、それでいて鋭く強い。

 何とかレギュラー入りしていた昨年までとは違う。一周回った、大回りしてきた彼女は今、誰もが認める絶対的なレギュラーである。

 星宮那由多と勝ち負けを演じるほど。

 有栖川聖と勝ち負けを演じるほど。

 女王、龍星館が誇る三番目の星。

「あんたは強くなったよ、円城寺。攻守ともに安定感が増した。星勘定に関しては一番、信頼してる。でも、ちょっと相手が悪かったの」

 それは今、誰よりも輝く。

「……ただ、相手が強過ぎた。それだけよ」

 3-0。

 無情の結果が敗者に、

「……くそ」

 円城寺秋良に突き付けられていた。悔しがる資格すらないと思えるほどの大敗。香月小春が死に物狂いで獲った1勝のアドバンテージが一瞬で消えた。

「お疲れ! シンシン!」

「はい、楽しかったです」

 大歓声が勝者へ、世界一美しき卓球選手へ降り注ぐ。

 これもまた、勝負の世界である。

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