第119話:時よ止まれ

 ただでさえ狭いコートをさらに狭め、前へ前へと互いの時間を奪い合う消耗戦。反応は間に合っている。読みも冴えている。

 ならば、やはり趨勢を分けるは――

「ゲーム、香月選手」

「わぁぁぁぉぉぉおおン!」

 ヒューマンエラー、いや、

(集中力の差。逃げ切る、と言う発想がすでに負けていた。だから――)

 このゲームの猛追、あまりに勢いに捲られた。対策は打てた、間違えていない。他の手段もあるが、逃げの姿勢ではこの勢いを阻めぬと判断した。

 星宮那由多は一呼吸で、即座に切り替えた。

「那由多、だいじょう――」

 言葉をかけようとした猫屋敷を有栖川聖が手で遮った。

 無用だ、と。

 星宮那由多、最終ゲームに備え水分補給を捨てる。最後のゲームに備え、集中力を研ぎ澄ますため、その妨げになる全てを排除した。

 誰の言葉も届かず、腰を下ろすこともしない。

 ただ立ち、目を瞑り、キリキリ、と最高の自分にチューニングしていく。

 このメンタルコントロールこそが常勝たる彼女の強みである。追い詰められてからが強いのだ。

「こういう選手に、指導者は何も出来ませんね。全てを備えているから」

「はい」

 監督、コーチである乾の会話。余人を立ち入らせぬ星宮那由多の集中力を前に、彼らはもう苦笑するしかない。

 2-2、ここからの那由多は強い。

 それは今までの実績が示している。

 そんな様子を見て、

「……ちょっち、まずいかもね」

 あの劣勢から巻き返したのは見事であったが、終盤に無類の強さを発揮する那由多と違い、香月小春は終盤失速する性質がある。

 一気に圧倒し、逃げ切るのが彼女本来のスタイル。

 ここからの戦い方は難しい。何よりも苦しい。

「チワワ、あんた――」

「百合ちゃんコーチ、邪魔」

「こ、このチビ」

 香月小春もまた給水せず、那由多と同じく紛れを、解れを嫌った。セオリーを無視した方法であるが、石山はあえて何も言わなかった。

 極限下、ここから先はもう気迫の世界。あの星宮那由多が遮二無二、力で潰しに来た。他に小細工はいくらでもあっただろうに、それでも前対前、全身全霊の地力勝負に持ち込んできた。

 石山百合をして、あの卓球ではミスをしない自信などない。と言うか自分には選べない。常人のする卓球ではないから。

 だから、口を挟まない。

 今は自分の経験値ではなく、この小さな怪物の第1感を信じる。

(調子いい時は、セオリーよりも感覚の方が正しい。それはもう、どの競技もそうだと思う。理論なんてのは大体後付けだしね。それに、渡せるものは渡してある)

 疲労による終盤の緩みはない。見えない。

 もはや、実績など、昨日など当てにならない。

「花音ちゃん」

「なんだ?」

「ダブルス、頼るね」

「……任せろ。出し尽くしてこい」

「おう」

 次も、消す。

 たった今、このゲームに全てを注ぐ。

 それは――

(喰い殺す)(詰み殺す)

 どちらも同じ。

 超反応か、超予測か、どちらも集中力の極致。

 今この瞬間が、

(私は、今この二人に勝てるか?)

 おそらくどちらも自分史上最強。それを見て鶴来美里が歯を食いしばる。昨日まで、正直星宮那由多は通過したと思っていた。むしろ猛追してくる九十九すずの方が怖いとすら思っていた。しかし今、勝利への確信が揺らぐ。

 不愉快極まる感覚、かつて味わった、先んじられた、刻まれた敗北の傷が疼く。しかも苦々しいのは、それが二人もいると言うこと。

 少し満足していた自分を恥じる。

 那由多は常に積み上げ続け、小春もまた常に頂点を目指し駆け続ける。立ち止まったら終わりなのだ。それを今日、知った。

 一生、この立ち止まらぬ化け物と競い続ける。

 それが競技者の人生。

(どっちでもいい。どっちでも、最後は私が殺す)

 この日、外野で幾人かの火がついた。

 それが女子の黄金時代を再来させることになるのだが、それはまた先の話。

 今は――

「因果だね。どちらも湊君がここまで引き上げた選手。さあ、天秤はどちらに傾く? 一人の卓球人として、楽しみだ」

 那由多の父、星宮一誠はどちらも先んじる背中を追う二人に、微笑む。

 幼馴染、抜けて行った佐伯湊と鶴来美里の背を、歯を食いしばりながら追いかけ続けた星宮那由多。

 コーチであり圧倒的な力に魅了され、その背を常に目指す香月小春。

 まるで違う時間軸、それでも同じ者が彼女らをここまで登らせた。

 実に興味深いではないか。

 引き分けはない。

 このゲームをどちらが取るか、勝利こそが優劣を決める。

「……」

「……」

 今、幕が開ける。

「ふゥゥッ!」

「……ィ!」

 4ゲーム目と同じく、超至近距離での打ち合い。前での殺し合い、反応と読み、どちらの精度が上か、どちらの方が集中しているか、その勝負。

 歓声はない。

 ただ、二人の灼熱を前に息を呑み、見守るばかり。

 剥き出しの激情。

 静かなる情熱。

 どちらも触れたら、火傷する。

「1-0」

 ミス。

「1-1」

 悪手。

「1-2」

 揺らぐ、1点が。

「2-2」

 互角、どちらも退かない。

「3-2」

 叫びを、

「3-3」

 叫びで返す。

「4-3」

「5-3」

 一気呵成、勝負所で見せるは女王の鉄槌。

 分厚き積み重ね、抜けるものなら抜いてみろ。

「ぎィ」

 分厚い、あまりにも分厚過ぎる。

 だけど――

「わァんッ!」

「……」

 そんなこと最初から分かっている。この会場で自分たちほどに浅い者はいない。常に自分が一番下だと考える。

 だから必死に走った。

 誰もが必死なのはわかっている。自分だけが走っているとは思わない。

 それでも――

「ガァッ!」

「5-4」

 この一年の全力疾走は、この一年だけは、誰にも負けない。

 不知火湊のおかげで卓球を知った。初心者の自分たちに全力で向き合い、加減せず卓球を刻みつけてくれた。女傑、黒峰のしごきも強烈だった。

 実業団出身、石山百合が二人の後を引き継ぎ、より高めてくれた。

 自分は世界一幸運だと小春は確信している。

 この奇跡のような一年、そのおかげで今最高に楽しいと笑う。

 反応が肉体を超える。

 でも――

「6-4」

 それは相手も同じ。

「ぐゥ」

 血が滲むほどに噛み締める。苦しい、辛い、あまりにも分厚い。絶対に勝ちたい、勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい――

 今、小春の頭の中からは神崎沙紀の去就すら消えていた。

 自分の中にある勝利への欲、飢えだけが彼女を突き動かす。

 もっと餓えろ、もっと渇け。

 もっと、もっと――

「ぁぁぁ……」

 ぐるる、唸り声を上げての猛追。

 逃がすか、絶対に喰い殺す。

 その眼はもう、人のそれではない。

 餓えた狼、その眼は常に女王の喉元を見据えていた。

 遠く、彼方にあったそれ。

 見据えることすらも不敬、それは経験者ほどに大きかっただろう。それなりに経験を積んだ者ほど、どうしたって龍星館に勝てるなどと言う夢は見られなくなる。

 夢を見ることすら許さぬ圧倒的な力。

 でも、それは関係ない。

 だって、素人だから。自分が目指す天井よりは低い。彼が、不知火湊が最初に言ってくれたから。

『俺の方が強い』

 その通り、自分史上最高の自分も、最強の女王も、自分の知る王様には敵わない。全然遠い。なら、問題ない。

 此処は通過点。


「この勝負強さ、なんでこんな子が、今まで出てこなかったんだよ」


 誰もが絶句する。星宮那由多の勝負強さは誰もが知っている。追い詰められてから、その強さがさらに増すことも。

 だが、香月小春など誰も知らない。

 まだ、実績がない。あまりにも日が浅過ぎる。

 しかしなんだ、この強さは、鋭さは――

「牙ァァァアッ!」

 牙が、迫る。


 二人の異なる道。

 生まれた瞬間から卓球に囲まれて、卓球に愛され、卓球を愛し、常に卓球と共に人生を歩んだ少女。

 生まれてからずっと自らの道を知らず、空虚な人生を過ごし、遅すぎるが誰よりも幸運な出会いを果たした少女。

 どちらの方が恵まれているか、それはわからない。

 どちらの方が卓球を愛しているか、それすらもわからない。

 だって、きっとどちらにとっても卓球が一番大事だから。それ以外は全部要らないものだと、切り捨てることだってできるから。

 なら、愛の重さは測れない。

 愛は長さではない。

 愛は今この刹那、どれだけ熱く燃え盛るか、なのだから。

 まさに今――


「9-10」


 怒涛の快進撃。小さな怪物は9-6から一気に駆け抜けた。

 女王が窮地に立つ。際の際、其処に立つ。

 だが、

「……」

 ここ一番、やはり揺らぎは微塵もない。

 これが百戦錬磨と言うこと。

 この1点、絶対に獲る。

 小さな女王は研ぎ澄ませた。その上で、ここまで積み上げた仕掛けを打つ。

(……緩急)

 前へ、前へ、あちらは退かない。こちらも退かずここまで来た。しかし、絶対に欲しい1点、それを取るためならば何でもする。

 と言うよりも、それを奪い取り主導権を握るため、ここまで長く布石を打ち続けてきたのだ。これで流れを引き寄せる。

 それに――

(体力も、限界)

 積み重ね、その差は終盤に表れる。香月小春にはそれが足りない。どうしたって、運動経験自体が少ないから。

 フルゲーム、デュースでのサドンデスならば、自分に利がある。

 下手に道中手札を切るより、ここでこそ切るべきだと彼女の勝負勘が囁いた。だからここまで引っ張った。確実に殺すため、殺し切るため。

 ダブルスに、一人殺した状態で送り出す。

 此処で彼女を殺せば、あの二人なら絶対に勝利してくれるから。

(勝つ!)

 表情には出さない。動きにも気配はない。

 静かなる情熱は、相手に底を読ませないから。

 今際の際、此処で女王は勝負をかける。

 誰にも気取られていない。味方にすら、わからない。

 だけど、

「……よくやった」

 石山百合は熱戦の果てを知る。それゆえに目を瞑った。

 勝負が、始まる。

 やはり、前前前前、互いに退かぬ熱戦。

 ここ一番、香月小春はさらに加速する。恐ろしいほどの殺意と共に、前へ、前へ、前へと。牙を剥き出しに、灼熱の激情と共に――

(……勝った)

 星宮那由多はここぞ、で一歩後退した。

 先ほどは通じなかったが、今は状況が違う。この極限の状況下、果たして正常な思考で捌けるか、捌けたとして、

(ここからの展開は全て、想定済み)

 準備万端の自分に、勝てるか。

 勝てるはずがない。

 これで――

「……」

 しかし、刹那の中、

(えっ?)

 ゆったりと、遅く流れる一秒の世界。その中で、彼女は笑った。これを待っていた、とばかりの、笑み。

 灼熱の中に隠れていた、冷たい瞳。

 前へ、前へ、前へ――

(……そっか)

 自分だけが仕掛ける側、彼女にはそれしかないと思っていた。実際にそれは正しい。それしかない、この一手はそれしかないからこそ、前へ、前へと圧殺しに行くからこそ、より輝くのだ。

(前で相手を圧倒し、退かせてこその隠し玉。ここまで使いたくても使えなかった。使わせてくれなかった。そしてここぞで、仕掛けた勝負勘も見事)

 石山百合が授けた、唯一の飛び道具。

(だから敗因はただ一つ……その狼を初心者と侮ったこと)

 状況さえ整えば必殺。

(武器は一つ。でもね、それを輝かせる一手ぐらいは授けられる。積み上げられる)

 それはとても丁寧に、愛おしむように、行われた。


 ストップ。


 時が止まった。

 急戦、その流れを断ち切るは、至高のチェンジオブペース。

 とん、と相手コートに落ちる球は、今までのラリーに目の慣れた者たちにとって、あまりにも遅く、逆に置き去りにされた者すらいる。

 ここまでの全てが――この一手を必殺とする。

 激しく、何処よりも早く流れた時が、今停止した。

「……」

 星宮那由多、一歩も動けず。仕掛けのため、後退した引き足が、わかっていても前進を妨げた。

 ゆえに必殺。

「小春の、勝ち」

 最後の最後、卓球で勝つ。

 切り札を切らせたのは女王の、百戦錬磨の経験値。勝つための一手が、逆に負け筋を作ってしまった。予想もしていない負け筋を――

 虎視眈々と灼熱の中、狼は機を窺っていた。

 相手に如何なる思考があろうと関係ない。前掛かり、その中で後退したが最後、絶対に刺さる必殺の隠し牙。台上の基本戦術、ただのストップ、それでも小春が勝負所で使えば必殺と化す。小春の卓球が、女王の喉を食い千切った。

「マッチ、トゥ、香月選手!」

 S1勝者、香月小春。

 餓狼は充足の中、咆哮と共に腕を掲げた。

 1番、人差し指が天を衝く。

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