第107話:今この時を想え

 腹いっぱいのステーキもといたんぱく質をしこたま喰らい、店を後にした一行は何故か湊行きつけの卓球用品店へ足を向けていた。

 どうやら前々から日本の卓球屋さん、と趙から話を聞いていたらしく、ぜひ行ってみたいと端から行くつもりであった模様。

 卓球界最大の大物が、

『ふぅむ、香しき木のいい香りがするなァ』

「……っしゃ、せー」

 田舎の用品店に顔を出したのだからさあ大変。そもそも閉店の時間であり、湊が「何とか一瞬だけでも」と頼み込んだ時は、まさか王虎がいるなど微塵も思っていなかった。わがままのやつめ、早速スター気取りか、と非情に言い放った美里も、

「……」

 口をあんぐりとその場で硬直していた。

 鶴来母だけは気丈に、

「あの、こちらサインいただけますか?」

 商魂たくましくサインをねだっていた。これを店に飾り、箔付けしようと言う考えである。さすが、母は強しである。

『あの、サインをお願いしても』

『む、構わんぞ。それより写真を撮ろう。シンシンも撮りたいだろう? ん?』

『はい』

「あの、皆さんで写真を撮りませんかって。サインも良いそうです」

「っしゃあッ!」

 鶴来母、鶴来美琴は勝負所のゲームを取った時ぐらいの勢いで叫んだ。

 そんな様子を中国勢は『はっはっは』と笑って見ていたと言う。

 さすがは中国のスーパースター、卓球も鬼強いがファンサも世界最高峰、むしろ率先して撮影係に成ろうとして、それじゃあ意味がないと趙に突っ込まれていた。

 その間、鶴来一家は緊張しっぱなしである。

「ほ、本物よね?」

「あんな人何人もいたら困るよ」

「……強かった?」

「そりゃあもう。百二十%出したけど負けたよ」

「そ、そうよね。私観たもん。画面越しに」

 未だに信じられない美里。写真を撮って、サインもバシッと書き、そのあとは自由人の世界最強が店内を見て回る。

 そして、これは当然予想できたことであるが、

『試打したい』

『言うと思ってました。凄く狭いですよ、地下』

『ふはは、そう聞いていた。だから楽しみなのだ!』

『趙もおしゃべりだなぁ』

 様々な用具を触り、むくむくと好奇心が湧いてきたのだろう、王虎はそれを使って遊びたがった。湊は店主である鶴来父にお伺いを立てるも、

「お、おふこーす」

『あ、全然大丈夫だそうです』

 ガッチガチの口から放たれた聞き取り辛い言葉を適当に訳し、上機嫌の王虎は趙の案内で地下へ向かう。

 その様子を眺めながら、ふと看板娘は、

「あの子、龍星館の子でしょ? なんでうちの台の場所知ってんの?」

「え、前に打ったんだよ、僕と」

「二人で?」

「うん。おじさんもいたけどね。最初は店内誰もいなかったけど」

「……ほォ」

 ふと疑問に思ったことが氷解し、とりあえずこの外交を済ました後、父の処刑を断行すると決めた。何故だか大変腹立たしく感じたのだ。

 鶴来父、時効成立せず。

 子どもの頃は広く感じた秘密の場所も、今ではかなり手狭に感じてしまう。ただ、だからと言ってあの頃感じた想いが消えたわけではない。

 キラキラとした、楽しかった頃の思い出が。

『ううむ。やはり勝手が違うなァ。打ち方を調整せねば』

 普段、両面とも粘着(裏面は粘着性とハイテンションの両立ラバーだが)であるため、かつての趙同様適応に苦戦する王虎。

 使い慣れた道具を変える、と言うのは世界王者でも、むしろ細かくこだわるトップクラスだからこそ難しい。

 ゆえに何でも屋の湊が異質に映るのだが。

『とても難しいです』

『そう言うがシンシン、貴様は随分打ち分けておるではないか』

『練習してますから』

『いいなぁ』

 世界王者ともなると勝手に道具をあれにしよ、これにしよ、とメーカーを跨いで選ぶことなどできない。これに関してはメーカー所属の選手の大半はそうなってしまうだろう。それがプロスポーツの世界でもある。

 こうしたプライベートの場でもなければ、好き勝手遊ぶことすらできない。周りが見れば、本人にその気がなくともメーカー変更の試打、のように映りかねないから。

『勝負だ、湊!』

『やったぜ』

『そっちが粘着な』

『大丈夫です、俺練習済みなので』

『なぬ』

 好き放題、こうして思うがままに視線を気にせず、好きなメーカーの、好きなラケット、ラバーを使う。これはある意味、アマチュアの特権とも言える。

『ぐ、ぬ』

『っしゃあ、リベンジだ!』

『た、大会でしろォ』

 適応に苦心する王者をギリッギリまで追い詰め、とりあえず野試合だけど一勝ゲット、と浮かれていると、崖っぷちに立った王者の勝負強さが適応を促進。あれよあれよと言う間に、最後の一点が届かない湊を追い詰め、

『ガァ!』

『ひゃん』

 不知火湊、また負ける。

 今回は性根が悪かった。

「10-4から湊君相手に巻き返した。ほ、本当に王虎だよ、どうしよ、美里ぉ」

「狼狽えるな恥ずかしい」

「でもぉ」

 そう言いつつも美里も目の前で起きた出来事に戦慄していた。あの大会を経て、湊はさらに強くなった。以前はもう少しやり合える感じもあったが、今はもう完全にカテゴリーエラー、女子選手がどうこうできる領域じゃない。

 道具を変えても、その強さはまるで変わらず、圧倒的な力で追い込んだにもかかわらず、遊びでも世界王者は負けを許せずにひっくり返して見せた。

 こんな場末の、狭い場所で、後陣で打ち合うことすらできないのに、こんな二人がバチバチにやり合っているのだから、何とも奇妙な光景である。

『あの、お願いがあるんですけど』

『再戦なら受けんぞぉ。今のは火事場の馬鹿力だ、ぶっはっはっはっは!』

『いや、そうじゃなくてですね』

『ほむほむ』

 王虎は何度か頷き、湊の提案を了承する。

 そして、

「美里、1セットだけ世界チャンピオンとどう?」

「ぶっ!? い、いや、私なんかじゃ、さすがに、その」

 湊は美里に王虎と打ち合ってみないか、と言った。たった今、レベルの違いを体感したばかり、まともな勝負にはならない。

 それでも、

「美里、折角の機会だ。湊君の、そして王様の厚意に甘えても良いんじゃないか?」

 鶴来父は、珍しく、父らしく娘に助言する。

 それに背中を押された美里は、

「よ、よろしくお願いしますッ!」

 全力で、今の自分を出し切ろう、と前へ歩を進める。その様子を湊は嬉しそうに眺め、王様もまた楽し気に口を開く。

『虎は手加減できんぞォ』

 王の本気、あの有栖川聖を、目標であった那由多を下し、何処かやり切ったような思いが九十九すずへの不覚に繋がった。それはまだ残っていた。

 ただ、そういう想いは全部吹き飛ぶ。

 王の覇気によって――彼女は頂点を知った。自分がどれほどちっぽけで、つまらないところでうじうじしていたのか、それがわかったから。

『うむ、まあまあ強かったぞォ』

「訳そうか、美里」

「要らない。伝わったから」

 女子にしては、美里にはそう聞こえた。にゃろう、舐めやがって、卓球は女子でも男子に勝てる、戦える競技である。

 舐められたままでは終われない。

 いつか、必ず――

『ぶは、わかるかシンシン。このメンタリティだ。簡単に相手を認めるな、簡単に負けを認めるな。誰が相手でも、だ。その時点で錆び付くぞ』

『心します』

 不知火湊が強くなったように、鶴来美里もまた王との邂逅で一つ壁を越えた。心ひとつで、壁を越えられるのが卓球と言うスポーツ。

 それゆえに残酷な部分もあるが――

「いつもありがとうね、湊君」

「いえ。友達ですから」

「恋人でもいいよ。あげちゃう」

「え?」

「クソ親父!」

 壮絶な親子喧嘩を見つめながら、ゲラゲラ笑う王虎。彼もまた思い出していた。自分のルーツを。ここよりもさらに狭く、汚い場所であった。

 ラケットもボロボロ、ラバーはつるつる、ひどい環境だった。でも、楽しかった。都市部と違い貧しく、遊びはいつも卓球。男女入り乱れ、何の垣根もなく、点数を数え忘れるほどに熱中し、ただ遊んだ王の原体験。

 ここにはそれがある。そういう匂いがする。

『王大兄?』

『俺たち選手はメーカー支給、アマチュアの選手は通販で買い物を済ます時代。それでも、俺は肌で感じられるこういう場所が好きなのだ』

 時代の変化でどんどん姿を消す個人店。時代にそぐわぬと言えばそれまでだが、同時にこう言った店が見えないところで競技の土台となっているのだ。

 始まりは触れてほしい。違いが分かるようになっても、一度立ち返りそうして欲しい。其処にはきっと、輝ける体験があるはずだから。

『わかります』

『また遊びに来よう』

『ええ、お供します』

『ぶは、湊も連れてな。貴様の兄や韓信さんも連れてこようか』

『そ、それは一考すべきかと』

『楽しいのに』

 久方ぶりに遊ぶことが出来た、と王はご満悦である。

 サインも写真も、今の試合も含め、それは王様なりの感謝であったのかもしれない。始まりの匂いがする、この場所への感謝と敬意を表して――


     ○


 帰り際、趙が席を外してくれたので王虎とサシで話す機会があった。

 自分の今、やりたいこと、やるべきこと。

 どう進むべきか、相談した。

 迷わずに彼は言った。やりたいなら全部やれ、と。

 ただし、

「旬は逃すな、か」

 旬を逃すな。選手として、競技者として、全盛期はとても短い。どれだけ長く続けたとしても、四十に達する前に一線からは消える。

 無論、六十を迎えんとするアマチュアの競技者もいる。全日本に出場するような素晴らしい競技者もいる。

 が、やはり全盛期ではない。

 旬は短い。そして人間の時間は有限である。

 一日二十四時間、一年三百六十五日。

 誰にとってもそれは平等。

 それに王は、今の自分がすべき姿を見せてくれた。最後まで面倒を見る、それは自らのエゴである。石山百合と言う長いキャリアを歩んだ努力の選手がコーチになってくれた今、自分にしか教えられないことはない。

 選手はキャリアを歩む中で、様々な指導者と巡り合う。その全てが噛み合うわけではなく、くっついたり、離れたり、無念に去る背を見つめたり、飛躍する背中を押し出したり、様々な在り方があるだろう。

 片手間に教える。それは果たして最善か、自分のやるべきことなのか。一度教え始めた責任を取らねば、そう思っていた。

 だけど、それは本当にそうなのだろうか。

 たくさん考えた。

 そして、王がその在り方で示してくれた。

「すいません、石山さん。少しだけ俺に時間をくれませんか?」

「ん、だから、あんたは……そう、決めたわけ。なら、どうぞ」

 教えたい、広めたい、その想いはドイツでより強くなった。そして同時に知った。無名の、謎の日本人であった時と、コンテンダーで活躍し知れ渡った時、受け手の眼が違ったことを。教えるのにも資格がいるのだと知った。

 子どもたちの眼に輝きを与えねば、時に苦しい道など歩ませられない。

「コーチ! ……あっ」

「……」

 自分の夢は固まった。やりたいことに変わりはない。

 だけど、だからこそ――

「5ゲームマッチ、勝負をしよう」

 今は違うのだと結論が出た。長い人生、今は頂点を、その過程で輝ける、憧れに値する、星としての道を歩む。

 その夢を追うのは、輝きが薄れてからでいい。

「これが最後だ」

 不知火湊が明菱高校のコーチとして、神崎沙紀に、香月小春に、紅子谷花音に、円城寺秋良に、何かを伝える最後の機会。

「だから――」

 何事にも区切りは要る。

 時期も、丁度いい。

「全力で来いッ!」

「はいッ!」

 今の自分を彼女たちに残す。

 数多の猛者が自分を引き上げてくれたように、王が自分に辿り着くべきゴールを教えてくれたように、今持ち得る全てを出し切り伝えよう。

 此処に来い、と。

 それが今の自分に出来る、最後の教えである。

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