第106話:肉肉肉
不知火湊は黒峰先生によるフィジカルトレを受け、グロッキー状態だった。ちなみに気分もそこそこグロッキーである。
今日、時間があったので部に顔を出そうとしたら、
『コーチは足りてるんで。やるべきことやんな、スーパースター』
みんなと顔を合わせる前に石山コーチの手によりシャットアウトされてしまったのだ。それが今も尾を引いている。
別に、コーチをやりたくないわけではないのだが――
「浮かない顔ですね」
「集中、切れていましたか?」
「少々」
「よくないですよねえ」
ウェイトを用いたトレーニングは常に危険が付きまとう。補助があるからと言って安全と言うわけではない。フォームの僅かな乱れで思わぬところを痛める可能性はいくらでもあるのだ。だから、集中せねばならないのだ。
ただ――
「試合、どうでしたか?」
色々まとまらない思考に振り回されている時、黒峰から問いが投げかけられた。
「え? どの試合、ですか?」
「ドイツでの試合です」
「ああ。そうですね」
思い出すだけで沸き立つ。予選からずっと、楽勝に見えた試合まで流して勝てた試合はない。全力を出した。それでも足りぬ分は限界を超えた。
自分のベストを更新し続けた、あんな感覚は初めてだった。
「楽しかったです。きっと、今までで一番」
「苦しさは?」
「それも一番でした」
「ふふ、でしょうね」
そう、楽しかったのだ。卓球を始めた時から今まで、あそこまで辿り着いたことも、燃え上がったこともない。
全身の細胞が覚醒するような、不思議な感覚。
再び味わいたい、それはまごうことなき本音である。
「やらねばならぬことでやりたいことを諦める必要はありません。それは強く申しておきます。貴方は何も諦めなくていい」
「……それは、でも、それがわからないんです。何がやりたくて、何がやるべきことなのか、どれもやりたいですし、同時にやらねばいけないようにも、見えて――」
「時間は有限です。でも、人生はとても長い。先達として、それだけは伝えておきます。貴方の選ぶ道が、貴方の人生を豊かにすることを祈ります」
「……考えます」
「如何なる選択であっても、よく考えた末に出したものなら、私はそれを応援しますよ。頑張ってください、不知火生徒」
「はい」
あれもやりたい、これもやりたい、あれもやらねば、これもやらねば、選ぶ時が来たのはわかっている。
環境は大きく変わった。皆、強い言葉で湊を拒絶した石山ですらきっと、湊のことを考えて、善意を向けてくれているのだ。
競技者の旬は短い。
そして黒峰先生の言う通り、人生は長い。
やりたいこと、やるべきこと――
○
ある日の放課後、本日は前回の反省を生かし色々策を練った上での神崎グループのフィットネス事業の広告、その再撮を予定していた。
「今日の再撮だけどさ。おい、聞いてんのか不知火」
「え、あ、全然聞いてなかった」
「おいこら。ったく、ほんと卓球やってないと冴えないよなぁ。其処がカメラマン泣かせと言うか……ん、なんだあれ」
予定していたのだが――
『おお! 見つけた!』
突如明菱高校へ乗り込んできた中国卓球界の最高傑作にして世界最強の男、王虎が現れたことで、全てがぶっ壊れた。
「な、なんだあのデカい人」
「あ、あれリムズンってやつだべ。車体が長いべ」
「後部座席の窓から手を振る女の子、めっちゃ可愛くないか?」
「ああ。素人なら見逃すところだったが、この草加の眼は誤魔化せねえ」
「お前誰だよ」
学校の正門に運転手付きの高級車が乗り付け、その辺でもなかなかお目にかかれない巨躯と、視線をくぎ付けにするオーラを放っているのだから大騒ぎである。
そんな男が、
『な、何してんですか? 王虎さん』
『ん? 約束しただろう?』
『また会うってのは、その、大会での話で』
『肉』
『……あっ』
『喰うぞォ!』
湊、米俵のように抱きかかえられ、そのままぽいっと後部座席へ投げ込まれる。そして投げ込んだ本人も乗り込み――
「……」
そのまま何事もなかったかのように発進し去って行った。
「……拉致られた」
不知火湊、世界最強の手で拉致られる。
○
超高級車が乗り付けたのは寂れたラーメン屋のような見た目の店であった。駐車場が街中であるのに砂利であるし、とても高級な雰囲気はない。
運転手付きの車で来るような場所には見えなかった。
だが、
「……ステーキ、一万二千円。え、メニューそれだけ?」
店の外観、内装も決して高級感はないのに、メニューはステーキ唯一つ。その上学生の身分では顎が外れてしまいそうなほどの値段である。
『安くて世界一上手いステーキだ!』
『これ、安いんですか?』
『安い!』
世界最強にして中国のスター目線だと一万二千は安いのだろう。庶民の湊からすると信じ難いが、王虎が嘘を言っているようにも見えない。
と言うかこの男、嘘とかつくのだろうか。
「三人、です」
「そちらどうぞ」
「ありがとう、ございます」
値段や諸々に圧倒される湊とお気に入りのステーキを食べられるとウキウキの王虎を尻目に、彼と一緒にいた少女が店主と対話していた。
少したどたどしい日本語も、以前を思えば随分と上達した。
龍星館レギュラー、趙欣怡その人である。
車の中で聞いたのだが、趙の家の人は卓球界でもかなりの有名人で、様々なチームや選手と関係が深い人物らしく、さらに兄に中国の代表候補もいるお家柄。王虎とも小さな頃から知り合いであったらしく、
『シンシン、俺と湊は二人前だ』
(さ、さすがに奢りだよな? 一人前でもお金足りないんだけど)
『わかりました、王大兄』
『がっはっは! 喰うぞぉ』
と言うやり取りをする程度には旧知の仲である。ちなみに王虎は湊と趙欣怡が知り合いであることを知らずに驚き、良縁だと大笑いしていた。
彼女を連れてきた理由はどっちにも会いたかったからまとめた、と言う至極自分勝手なものであった。一応通訳も兼任しているが。
知り合いでなければ地獄のような空気であっただろう。
『貴様の兄は振るわんなァ』
『聞いています。とても心配です』
『はは、心配すべき妹に心配されておるようではなァ。逆に貴様は良い貌になった。日本が水に合うと見える』
『毎日試行錯誤の日々です』
『ほう』
王虎は昔から可愛がっていた、か弱く繊細であった少女の成長に目を細めた。強くなった、太くなった。心が据わり、焦りが消えた。
それに何処か――同席する者と重なるところも見受けられる。
『湊、前に言っていた話だが、中国に来る時はシンシンを頼れ。周りもいい刺激となる。日本の強者、日本で成長した者、どちらも意義がある』
『行くこと前提なんですね』
『約束を破る気か? 感心せんな』
『いや、約束したわけじゃ……違うな。そうですね、趙が良いなら、そうします』
約束したわけではない。けど、行くと言った。あの時の気持ちに嘘はない。再会を誓った気持ちも、王を引きずり下ろすといった言葉も――
『任せて!』
趙欣怡は嬉しそうに胸を打つ。どんとこい、と言うことなのだろう。
めっちゃ可愛い。
これで巨乳ならヤバかったな、と湊は心の中で冷や汗をかく。突然スマホが震えた気がしたが、今は気づかなかった振りをする。
一度対応を開始すると長くなるだろうから――
「どうぞ」
お通しに毛が生えたようなサラダの後に、突如ドカンと現れたのはサシの少ない赤身のひれ肉を丁寧な仕事で下処理、名人芸で焼き上げた逸品であった。
何処のご家庭にもありそうな大皿に無造作に盛られたひれ肉。一人前、200gであるから二人前だと400gもある。
見た目にはやはり高級感はない。
『喰ってみろ、飛ぶぞ』
『じゃ、じゃあいただきます』
量に圧倒されていた湊は言われた通りその肉を口にし、
「ッ⁉」
人生最大の衝撃を受けた。
口に入れた瞬間、柔らかく解けるような触感の後、ドバっと広がるは肉本来の旨味、サシの多い肉ではなかなか味わえぬ肉肉しい味わい。その上で肉が良いのか、仕事が素晴らしいのか、その両方かサシの多いA5肉とも変わらぬ柔らかさを兼ね備えるのだ。新体験、新境地、見た目に現れぬ『絶対』を感じる。
しかも、サシがないことで無限に食べられるようなあっさり感すらある。溶けるではなく、解けていく柔らかさと口の中ではじけるジューシーさ。
今日、不知火湊の中で世界ランクが変動した。
不動の王、一位が輝く。
『……これが、頂点』
『ぶはは、だろう? 店は狭い、汚い。白飯もパンもない。以前白ご飯が食いたいと言った無礼な客に炊き方を知らん、と答えたのは痛快だった。そんな店が名店である理由は単純明快、その道でひとかどの存在であるから、だ』
唯一無二、それを体現する店であった。
『ここより良い肉を出す店はある。金を出せば食える。だが、この値段で、この量の、これほどの肉はここでしか喰えん。目利きと仕事、至高の領域だ』
『……美味しい、です』
王虎がしたり顔で語る横で、趙欣怡は幸せそうにお肉を味わっていた。
うーん、可愛い。
しかし今は、
『肉ゥ!』
『その通り。食って食って喰らい尽くせィ!』
肉、である。
金沢の街中で、ぽつんと佇むラーメン屋のような見た目のステーキ店。年に何人かはラーメン屋と間違えて入ってしまうこともあるとか。
そんな伝説の店は確かに、この地に在ったのだ。
「……」
知る人ぞ知る、名店である。
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