第104話:王の山巓
とうとう王者が1セット落とした。この光景だけでも中国勢以外にとっては久方ぶりのこと。嫌でも高まる観る者の期待、それに反して――
「……やべえ」
挑戦者は気づく。
王者の気配が変わったことに。1セット、それは王者にとって遊び、期待の有望株にプレゼントしてやれる許容ラインなのだろう。
同じ笑顔、相変わらず究極のエンジョイ勢であることに変わりはない。だが、それともう一つ、国を背負う、卓球界を背負う王の貌が浮かぶ。
跳ね上がるプレッシャー。
不知火湊はようやく辿り着いた。
ここが――頂である。
○
遮二無二追いすがった。足りない分を、自らの強みであるセンスを総動員し、何とか埋めていた。埋められると思っていた。
だけど、
「ふはは、楽しいなァ、卓球は」
「其処に手が届いたら、もっと楽しいんですがね」
「其処まで甘くない。頂だぞ、足りぬ身で届くかよ」
「……ですね」
王者の卓球は完璧で、欠けがなく、隙もない。あと一つ、この一段が途方もなく遠い。それを痛感した。
本気の王者と向き合い、知った。
だから、こんな夢を見たのかもしれない。
試合中であるのに、不思議な感覚であろう。
王の山巓、其処に座すは虎の王。今まで何人が挑み、その全てが跳ね返されてきた孤高の頂に、寒々しくも神々しさを称え、王がいる。
「貴様は一度卓球を捨てた身だとな。何故捨てた?」
王の言葉が胸に刺さる。
それはきっと自分自身に向けた、不知火湊の自戒でもあった。
「勝つことにこだわり、自分を見失っていました。何処へ進むべきかもわからず、きっと同じ場所をぐるぐる回り続け、疲れて、ラケットを置きました」
「愛が足りん」
「まったくです」
きっと王者は心底馬鹿にした眼を向けているだろう。
そう思い見上げると――
「だが、同じ場所をぐるぐる、が退屈極まるのは同意しよう。千年の恋も冷めるほどの虚無。これでも誰よりも卓球を愛し、卓球に愛された、相思相愛を自負しているのだ。それでも、耐え難き夜は来る。愛をぶん投げたくなる夜が」
王者の眼もまた、あの頃の自分のようにどんよりと濁っていた。
卓球を捨て、死んだ魚のような眼で生きていた自分に――
「何故、再び握ろうと思った?」
「色々やろうとしたんですが、結局自分にはこれしかなかったこと。それと、一度誰かの視点を通して、やり直せたことですかね」
「ほう。そう言えば学生コーチをしているのだとな。生意気な。この俺様すらコーチなどしたことがないと言うのに。まこと不敬な小僧よなぁ」
「あはは、よくご存じで」
「王は全てを知るのだ。覚えておけ、小僧」
「ははぁ」
これは夢、王虎が自分のパーソナルな情報を知るわけがない。そんなこと考えずともわかっている。
それでも頂点の寒々しさは伝わってくる。
王の倦怠も、神々しさの影に隠れた寂しさも、よく見える。
「また投げたくなる日が来るかもしれんぞ、この俺のように」
「かもしれません。でも、僕は一生卓球と共に生きていきます」
「一生か。ふはは、お熱いことだ」
王は強く、挑戦者を見据える。
「俺に負けて、負けて、負け続けて、それでもなおその気持ちを抱き続けられるか? 届かぬ頂きと知り、それでも挑み続けられるか」
それは願いにも似た言葉であった。
だけど、
「わかりません」
「おい。其処は嘘でもはいって言えよ。普通言うだろ」
だからこそ彼の前で嘘はつけなかった。
「挑むのは楽しいですし、何度も戦いたいと思っています。この大会を通して、本当に、ずっと、楽しかったんです。夢みたいに」
「……」
「でも、僕は別に頂点自体に興味はないんです。むしろ、山の下のごちゃついた感じが好きですし、人生を賭した卓球も好きだけど、人生に寄り添った卓球の方がもっと好きで……ええと、何が言いたいんだろ、僕」
「……いや、いい。伝わっている」
「ほ、本当ですか? 自分でもよくわかっていないのに……」
「なら、挑戦は今回に限りか?」
「まさか」
不知火湊は真っすぐ、頂点を見据えて言い放つ。
「今のセリフ、一度も頂点に立ったことのないやつが言ってもダサいだけじゃないですか。僕は、俺は格好つけなきゃいけないんです。こんな情けない俺を、道しるべにしている奴らがいるから。だから、絶対立ちます、其処に」
王を、引き摺り下ろして見せる、と。
大胆不敵、不敬極まる発言であるが、それでも孤高を抱く虎の王は笑みを浮かべた。何度も夢見た挑戦者たち、何度も放たれた挑戦的な言葉。
それらはどれも本物であったが、その尽くが己の牙に、爪に砕かれ、散って行ったこともまた事実。
「麓からの景色も、てっぺんからの景色も、全部知りたい、見たい。それがないと、本当の意味で誰かに教える自信がつかない。だから――」
だから、勝つ。
今までにない理由。だからこそ、もう一度だけ期待してみようかと思った。自分が見ようとも思ったことが麓の景色まで、彼は早い段階で一度捨てたことで見ることが出来た。其処に、王は少しばかりの嫉妬を覚えたのだ。
己よりも愛しているじゃないか、と。
己よりも愛されているじゃないか、と。
それが許せんし、そんな存在だからこそ踏み潰したくなる。
「勝てんよ。俺は誰にも届かん。最強、それが俺だ」
虎は睥睨する。
「半可通の分際でこの俺に勝とうなど万年早いわ!」
「……次は、仕上げてきますよ」
「ならば――」
そして今、決めた。
「また来い」
もう一度、もう一度だけ待ってみよう、と。
「必ず」
頂にて、一人。最後の、一度きり。
王と挑戦者、山巓にて再会を誓う。
○
「飞吧(ぶっ飛べ)!」
「あああああ!」
世界最強の、スペシャルと言うべき中陣からの無上の一撃。それが最後の最後まで食い下がり、ただの一度も諦めなかった挑戦者を討ち貫いた。
準決勝までは5セットマッチ。
結果は3-1、たった一度だけ王者が許した1セット以外、挑戦者は奪うことが出来なかったのだ。
それでも観客たちは盛大な拍手を送る。
それ以上に選手たちが王に挑み、心折れることなく最後の最後、追い込まれてなお最後まで1点を追い続けた誇り高き挑戦者へ敬意を送っていた。
『ふはは、青い青い』
『……ありがとうございます』
『勉強になったか? ん?』
『ええ、そりゃあもう』
『ぶはははは、当然だな。この俺様の薫陶を受けたのだからなァ』
王から差し出された手を、挑戦者は握り返した。
力強さが嫌と言うほど伝わってくる。彼ほどには鍛えられずとも、それでもまだまだフィジカルを向上させることは出来るはず。
いや、向上せねば届かない。
『しかし、ふむ、中国語を話せるのなら……おい、韓信さん』
「ぴょ!?」
湊、憧れの人物の登場に一気に縮こまった。
『ん? なんだ?』
『この小僧、スーパーリーグにぶち込もう』
『外国人の参入はよほどのことがなければだな』
『この俺の推薦だぞ。よほどのことだろうに』
『わがまま言うな』
湊、聞き取りが出来ているため目を白黒させてしまう。世界最強、卓球界の覇国である中国が誇る世界最高峰のリーグ、中国超級リーグは卓球選手なら当然誰もが知っている。その敷居の高さもまた、よく知るところ。
外国人選手は、それこそ卓球強豪国の最強選手ぐらいでなければ参加すら許されない。それほどに参入自体が難しい場所なのだ。
リーグ自体、そういう方針であることも理由の一つ。
『趙さんのとこの寮が空いていただろ』
『だからそういう話じゃない!』
勝手に話を進める王虎、わがままも世界王者である。
『あの、王虎さん』
『ん? 興味ないか、スーパーリーグ』
『あります』
『ほれ見ろ韓信さん』
『でも、特別扱いはもう十分です。次は、自分の足で行きます』
『……ほう』
湊の眼を見て、王虎は微笑む。
『そうか。なら、とりあえず日本一になってこい』
『そのつもりです』
『ぶはっ、貴翔は結構強いぞ。だが、そうさな、そういうことなら我慢しよう。俺は我慢強い男だ。そう思うだろう、不知火湊』
『……どうですかね』
『むっ、小生意気な!』
首根っこをひっつかみ、そのままじゃれつく王虎。人間離れした化け物フィジカルゆえ、じゃれつかれただけで結構きついのは内緒である。
『期待しているよ、湊君』
『ど、どうも。あ、あの、昔からファンです』
『ああ。どうも』
『おい、俺様と態度が違うぞ? 俺の方が韓信さんより強いぞぉ』
『そういうところだ、王虎』
世界最強と、電撃的に一線を退いたとはいえ直近世界二位、この二人に挟まれるノーランカーの図はなかなか見応えがある。
まあ今回の件で、ノーランカーではなくなるだろうが。
『まあ、とりあえず、この俺に期待させたのだ。三位は取れよ』
『あ、はは、頑張ります』
『必ずと言えェい』
王虎は笑顔でバシバシと文字通りのパワーハラスメント一歩手前の破壊力で湊の背を叩き、一応激励のつもり、をする。
そして、
「再见」
王者は期待のまなざしを置き、去っていく。
その背を湊は見つめ、
「再见」
湊もまた再会を、再戦を誓う。
今度は善戦などではなく、頑張りましたで賞などではなく、
「あー、くそ、やっぱ負けると悔しいなぁ」
勝ちたい、と思ったから。
まあ、勝った方が格好良く見えるし、きっと彼女たちも喜んでくれる。モチベも上がるだろう。だから、次こそは、と思う。
心の底から、そう思った。
○
ゆえに翌日、
「ヨォ!」
不知火湊は三位決定戦を快勝で飾る。
世界ランクのポイントはベスト4の140点と変わらないが、それでも対外的な見え方は変わってくるだろう。
不知火湊となっての初遠征、彼はしっかりと期待されていたもの以上の結果を残し、その名を世界に刻んだのだ。
突如現れた若き天才として――
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