第103話:エンジョイ!

(四隅の使い方が格段に良くなりましたね)

 今回の仕掛人である青森田中、田中総監督はいつの間にか集中して一言も発することなく観戦する部員を見つめ、思う。

 2セット目、王者と挑戦者は拮抗したゲームを繰り広げていた。第1セットはフィジカルの足りなさを中心とした至らなさが浮き彫りとなり、終盤までワンサイドゲームであったのに。ここに来ていい勝負をしている。

 もちろんそれは王者側にも問題はあるが――

(エッジ、ネットインも可とすることで、ほんの数ミリ卓球が広がった。そのたった数ミリが、足りない部分を何とか埋めている。本当に、素晴らしいセンスですね)

 数ミリ、ほんのわずかな差が得失点を変えるのが卓球という競技である。加えて王者の判断を揺さぶることにも繋がっている。

 あのワンプレーが頭を過ぎるのだろう。

 そう、スーパープレーには流れを変える力があるのだ。

 今、流れは挑戦者側にある。


     ○


『はっはっはっはっはァ!』

 王虎は笑みをもって挑戦者を受け止めていた。楽しい、これが良くないとわかりつつ、相手の『良さ』を堪能し続ける。

 相手の強みを嬉々として上書きする王者の悪い貌から、

(……まったく、あの男は)

 相手の良さに喜ぶ悪い貌が出てしまっていた。

 王者をよく知る元王者、韓信は遊びをやめると言いながら、楽しく卓球をしている王虎に呆れ、ため息をつく。

 あの男は昔からこうなのだ。楽しむことに全力で、それが際限ない進化を促した。促してしまった。かつて、多くの先人たちが、覇国中国の選手たちが彼の壁であり、挑戦こそが彼の人生であった。

 しかし、一人、また一人と彼に敗れ、抜き去る度に壁が減り、その結果最終的に韓信すら止められず、彼は世界一に、絶対王者と言う存在にまで達してしまったのだ。彼の望みとは真逆の、孤高の存在へと。

 彼は卓球を愛している。

 だから手抜きは出来ない。でも、勝ち続け、それが当たり前となった卓球を愛し続けられる自信がない、彼は韓信にそう言った。

 戦いたい。

 楽しみたい。

 そのための卓球であったはずなのに――

(それにしても恐ろしい子だ。普通、練習で反復練習をしてなお、卓球を変えること自体、選手は嫌がるもの。神経質な選手は変化を嫌がり、試合ごとにラバーを新品に変える者もいると言うのに、あの子は変化を微塵も恐れていない)

 数ミリの変化、それは卓球選手にとっては恐るべきことであるはずなのだ。幾千、幾万の多球練習を経て、数多の試合を経て、熟成させた己の卓球。それは自分の武器であり、普通それを貫くことこそが選手の強度であるはず。

 だが、不知火湊は、今回の挑戦者は違う。

 変える。それも試合ごとではなく、セットごとでもなく、ワンプレーごとに別の顔を覗かせるのだ。他の試合もそうであった。

 同じ貌は一つとしてない。

 発展途上の変化と呼ぶにはあまりにも多彩過ぎる。雑多過ぎる。普通、手札などある程度絞らねば試合中に迷い、自分を見失ってしまう。

 それなのに――

(楽しんですらいる)

 王虎と同じメンタリティ。結局、あれは一つの才能であるのだ。人生のかかった一戦で、その辺の草試合と同じメンタルを保ち、遊べる強心臓。

 か細く見えるが、その実極太。

 国家の威信がかかった国際試合である。其処で遊び半分なのは、韓信のような者からすると図太いを通り越してイカレて見える。

「『ははははは!』」

 笑い声が、笑顔が重なる。

 それがおぞましく見えるのは、韓信らが勝負に染まり過ぎているからだろうか。だが、わかってほしい。あれは怪物の貌、常人ではない。

 常軌を逸している。

『おっと、またやったなァ。いかんいかん。遊ばんと決めたのに、つい、挑んでしまう。と言うか、やっぱ俺もやりたい』

 普段カットなどしないくせに、隙あらばカットで先ほどの湊のワンプレーを真似し、それが思い切り隙となっている最強王者王虎。

 対戦相手の挑戦者も、

『ちょっと、本気でやってくださいよ』

 こっそり苦言を呈すほど。

『む、中国語を話せるのか。だがな、見当違いだぞ。俺は常に本気だ。負けっぱなしでは気が済まない。俺もやる』

『次回やってくださいよ、それ』

『やだ!』

 国家の威信が一応かかった試合中の私語、当然審判の白い眼が光る。それは二人して笑って誤魔化した。

 2セット目、湊の勢いが勝って見えるのは、王者が邪気なく見当違いの方向で楽しんでいるから、と言う側面もあった。

 もちろん、別に手抜きをしているわけではない。他のプレーは相変わらず化け物じみているし、湊の揺さぶりにも悠然と応じてくる。

 引き出しの多さが今までの相手とは桁が違った。

『なんかコツとかある?』

『ないっす。ってか、あっても教えないですよ』

『ケチぃ』

(な、なんて子どもっぽい人なんだ。この最強チャンピオンは)

 先ほどのワンプレーだけではなく、エッジやネットインを可とするグレーゾーンの解放も模倣し、それも込みで遊び尽くす。

 ゆえに、互いにミスも増える。

 先ほどの劉党との一戦は互いに極限状態であったための悪手合戦であったが、今回のそれは攻め過ぎたがゆえの悪手合戦である。

 どっちもミスをしているから、其処に優劣はない。

 ないが――

「よっし!」

『ううむ。バチっとこんなァ』

 其処は王者が勝負しない、と言ったはずのセンスの差で湊へ天秤が傾く。結局勝負しているブレブレ王者、本当に最強かと疑いたくなるが、

『お返しだァ!』

「ぐ、あ」

 中陣からのドライブ。全てのステータスが突き抜けている王者の、スペシャルを挙げろと言われたなら、多くが中陣からのシンプルなドライブと言うだろう。

 かつて、金属音がすると言うのは悪名(補助剤など)であったが、ラバーが進化し続けた結果、今では単なる怪物の証となった。

 一人だけ鉄でも仕込んでいるのか、と思うほどの重たい一撃。

 とてもピンポン玉とは思えない。

「……くっそぉ。フィジカルが足りないなぁ」

『肉食え肉。今度奢ってやろうか?』

『……やったぜ』

(あのアホども、通じないと思って試合中に会話するな。審判の心証は最悪だぞ。まあ、どっちも悪いから結果には関係ないんだが)

 あきれ果てる韓信。深刻に考えていたのが馬鹿らしくなる。

 まあ、それだけ実際に深刻ではあったのだが――


     ○


「引退を考えている」

「……は?」

 絶対的王者、中国の英雄であり最高傑作と言われた男が全盛期に至り、突如溢した言葉が大きな波紋を呼んだ。

 下り坂に差し掛かった韓信のようなベテランならわかる。自分の思うような卓球が出来なくなり、それを手放す時が来たのだと飲み込む。

 どの選手にも訪れる終わり、それならわかる。

 だが、彼の場合は全盛期である。

 ただ、

「絶対に勝てる戦いに、俺は何の面白さを見出せばいい?」

 彼の場合はその結果、敵無しになってしまった。国内に敵はなく、世界を見渡しても敵はいない。昨年も一昨年も、彼は一度も負けてすらいない。

 たった一敗でもよかった。それだけでも耐えられただろう。

 負けずとも、いい勝負であればまだ耐えられた。

 でも、そのどちらもなかったのだ。

 だから、そんな弱音を溢してしまった。酒の席であったが、それを聞き韓信は一線を退き、彼のお目付け役となった。

 その我を、何とか封じるために。

 彼に自らが抱いていた覇国の王、その誇りを植え付け、彼を王として縛り付けようとしていた。まあ、そんなこと出来なかったのだ。

 どこまで行ってもあの男は卓球を世界一楽しむだけ。

 究極のエンジョイ勢である。

 だから――


     ○


 天津風貴翔の台頭で、少しだけ風向きが変わった。少なくとも彼はスピードスターの誕生に喜びを見出し、彼の成長を待ち望んでいた。

 だが、思ったより伸びない。

 と言うよりも、王虎がさらに強くなり差が埋まらない、と言う方が正しいか。

 たった一人、それだけを希望に続けるモチベーションはなかった。

 足りなかった。

 だが、今この時――

「っしゃあああ!」

『……はっは』

 初顔に弱い王者が、とうとうセットを取られてしまった。これで1-1、類まれなる卓球センスが今大会傷一つなかった王者に傷をつける。

 それに王虎は満面の笑みを浮かべていた。

 お目付け役が怒る気も失うほどに。

『次からはきちんとやる。だから、今は浸らせてくれェ』

『好きにしろ。最後に勝てば文句は言わん』

『ああ。わかっている』

 世界最強の孤独、それが登り征く新たなる挑戦者の登場で薄まった。

『まだ足りんよ』

『当然だ。正しく未熟者、それに明け渡すほどに安い席なら、さっさと売り払ってしまえ。そんな安い王は祖国に不要だ』

『ふは、俺のお目付け役が何を言う。だが、その通りだ。ここで俺が花を持たせば、成長が止まる。それでは、つまらん』

 何人でも欲しい。多種多様な挑戦者が。

 だからこそこの男は、

『明日、俺は楽しめると思うか?』

 何度でも期待してしまうのかもしれない。

『それは貴様の胸に聞け』

『……ああ、そうする』

 変化を恐れぬセンスマン。細やかに敷き詰められた確かな技術がそれを支えている。後は肉体が成熟し、さらにもっと引き出しを増やせば――

『……』

 足音がする。心地よい、孤独を癒す音である。

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